杉浦日向子 若隠居のすすめ【マンガのスコア LEGEND47】

2022/04/01(金)08:46
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 LEGEND50の中で最も短い生涯を生きたのが、杉浦日向子です。2005年に亡くなったとき、まだ46歳という若さでした。

 さらに遡ること1993年、35歳の時に、マンガ家引退宣言をしていますので、その活動期間は極めて短いものです。

 杉浦日向子さんって、なぜかマンガ家という感じがしないのですね。マンガも描けるフツーの人、といった風情です。

 LEGEND50に入っているほどの人ですから、マンガ家として大きな業績を残した人であるには違いないのですが、ご本人は、マンガというメディアに全体重を預けていたようには見えませんでした。

 たまたま、そこにマンガという手段があったのでやってみた、という雰囲気です。この軽やかな距離感が、杉浦マンガの魅力や強みにもなっています。

 

 LEGEND50のお歴々というのは、やはりどこかちょっとおかしい。

「全身漫画家」というか「ナチュラル・ボーン・マンガ家」というか、何かヤバイものに憑りつかれた呪われた方たちばかりなんですね。あたかもマンガに命を捧げるべく神に命じられた“天の戮民”のようです。

 そんな中で、杉浦さんを見ていると、なにかちょっとホッとするものがあります。LEGEND50の中で、たった一人のシラフの人、といったところでしょうか。

 

■『百物語』

 

 さて、今回の模写は、千夜千冊でも取り上げられた『百物語』から、最末期にあたる「其ノ九十六 フキちゃんの話」を選んでみました。

「百物語」というからには、とにかく百話(正確には九十九話<1>)語らなければ、様にならないわけですが、足掛け8年にわたる長期連載には一方ならぬ苦労もあったことでしょう。こういう長期にわたる連作となると、後半になるにつれグルーヴ感が出てきて、未整理な面白さが出てくるものです。

 前半は、古説話をそのままサラッと掬い取ったような整った作品が多いのですが、後ろの方なるにつれ、だんだんとヘンなものが出てきます。「其ノ七十九 他人の顔の話」なんてモダンホラーのようなゾッとする味わいがあって秀逸でした。

 そして、集中の白眉とも言うべき作品がラスト間際に登場します。それが今回取り上げる「フキちゃんの話」です。

 特に、ここで模写したラストの1ページなど、コマ構成から運びにいたるまで完璧に決まっていて、杉浦の演出力の確かさが窺われます。

杉浦日向子「百物語」模写

(出典:杉浦日向子『百物語』新潮社)

 

 この作品、7頁ほどの短い掌編なのですが、後半数頁は、縦割りのコマ割り、横割りのコマ割りが交互に配置されていて、最後にこのページが登場します。スッと【縦に長いコマ】が入り、全体が【真っ黒に塗りつぶされたコマ】が続きます。一コマ目、二コマ目をよく見ると、人物の周囲に白い縁取りがされていることがわかります。切り絵のような効果を出していますね。

 三コマ目ではモヤのかかった縁取りで幻想の世界に入ったことを知らせ、最後のコマでは縁のない、くっきりとした手のアップで終わります。

 

 それにしても、最初に想像していた以上にデッサンを取るのに苦労しました。とくに女性のうなじや、【髷】のバランスなど、とても難しかったです。あんまり誰も言いませんが、杉浦先生って、めっちゃ絵が上手くないですか?

 

■本格江戸マンガの登場

 

 杉浦日向子は1993年に突然、マンガ家引退宣言をして、その短い創作活動にピリオドを打つことになるのですが、今回取り上げた模写の絵は、時期的に見ると引退直前期の執筆になります。

 デビュー直後のデタラメなコマ割りぶりから見比べると、わずか十年ちょっとのうちに、人はこれほど成長するのかと驚くばかりです。

ようやく独自の画風が確立し、これから飛躍的に伸びる予感を感じさせていた時期だけに、このタイミングでの引退は、まことに残念なものがありました。

 

 寡作と言われることも多い杉浦日向子ですが、活動期間を考えれば必ずしもそうとはいえません。作歴を細かく見てみると、デビュー以来、かなり精力的に作品を発表していたことがわかります。短篇型の作家なのでボリューム的には大したことはないのですが、作品はたくさんあります。

 まとまったものとしては筑摩書房から全8巻の『杉浦日向子全集』が出ていますし、ちくま文庫、新潮文庫などで、ほとんどの作品を読むことができます。

 私はマンガはできるだけ大きなサイズの紙の本で読みたい人なのですが、杉浦日向子に関しては、文庫も必ずしも悪くないなと思っています。素朴で洗練されたタッチのせいか、ポケットサイズになっても、さほど見劣りはしないのですね。入手しやすい文庫版を揃えてみるのもいいでしょう。

 

(杉浦日向子『ゑひもせす』『ニッポニア・ニッポン』『二つ枕』

『YASUJI東京』『東のエデン』『とんでもねえ野郎』筑摩書房)

 

 杉浦日向子の初心を知るには、やはり『ゑひもせす』(ちくま文庫)は必読でしょう。デビュー作を含んだ初期作が網羅されたコンパクトな作品集です。

 1980年末にデビューした杉浦は翌1981年には、ほぼ毎月のように短編作品を「ガロ」に発表しており、そのほとんどを、この作品集で読むことができます。一つとしてハズレのない珠玉の作品群で、リアルタイムで読んでいた人は、さぞかしブッたまげたことでしょう。彗星のごとく現れた驚異の大型新人、しかも、ただのキャッチコピーのレベルを超えたガチの「美人マンガ家」でした。

 

朝日新聞1985年9月6日の紹介記事。

『百日紅』第一巻刊行の頃にあたる。

 

■全速力で駆け抜ける

 

 ところで、呉服屋の娘として生まれ育った杉浦日向子は、最初から江戸趣味の持ち主だったわけではなく、子どもの頃は機械いじりとプラモデルの好きな、ちょっと風変わりな女の子だったそうです。現国や古文が苦手で、読むのはもっぱらブルーバックスの数学や物理の本。オーディオ機器マニアでもあって、若い頃は秋葉原のオーディオショップでアルバイトをしていたそう。将来の夢は音楽のミキサーかコンピュータのプラグラマーだったとか。

 そんな杉浦日向子が江戸に目覚めたのは、大学を中退して、することがなくなり、なんとなく時代考証のカルチャースクールに通い始めてからでした。

 そこでたちまち、江戸考証学の世界にどっぷりハマッてしまい、時代考証家・稲垣史生の通い弟子となって頭角を現していきます。

 しかし、考証家として食べていけるようになるには最低15年くらいかかると言われ、とりあえず始めてみたのがマンガの執筆でした。

 それまで杉浦は、マンガを買って読んだこともなく、学校の回し読みでちょっと読んだことがあるという程度だったとか。

 そんな次第なので、ほとんど影響を受けた作家もなく、もっぱら参考にしたのは浮世絵や黄表紙の挿絵などでした。「ガロ」でのデビュー作となった「通言・室之梅」(『ゑひもせす』所収)は、生まれて初めて描いたマンガだったそうです。

 そんな状態から、よくぞあの初期の傑作群が生み出されたものだと驚きあきれるばかりです。絵のタッチや話の運びなどに多少ぎごちないところもあるものの、構成の見事さには天性の資質を感じさせます。

 とりわけ見事だったのが、登場人物たちのイキなセリフ回しでした。

 江戸っ子のべらんめえ調や、遊女のありんす言葉などを駆使した廓内での掛け合いなど、誰にも真似のできない完成度の高さです。

「ヤ・ク・ソ・ク」(『ゑひもせす』所収)に登場する幇間のダジャレまみれの上っ調子のおしゃべりなんて、ほんとに素晴らしいほどの無内容。それだけに、最後の場面での本音の垣間見える啖呵のシーンなど、胸に迫るものがあります。

 

 杉浦は、同時期に登場した近藤ようこ、そして「COM」から移ってきたやまだ紫とならんで「ガロ三人娘」などと呼ばれ、注目されはじめます。翌1982年に入っても、その勢いは衰えず、相変わらずほぼ毎号、作品を発表していました。

 そして7月から、いよいよ『合葬』(ちくま文庫)の連載が始まります。幕末の彰義隊の顛末を描いた著者初めての長編作品でした。

 旧幕側であった彰義隊は、幕末戊辰戦争を彩る小さな一齣・上野の籠城戦において、あっけなく蹴散らされる運命にあるのですが、杉浦の筆は、隊中の多くを占める年端もいかない少年剣士たちの姿を鮮やかに描いて見せます。勝てる見込みの全くない戦いに散っていく少年たちの姿が哀れを誘うものです。

 この作品、結果的に見ると、杉浦作品のメインストリームから外れた異質な作品となりました。どうも杉浦自身、この路線は自分の資質に合わないと考えたのか、以後、『合葬』に連なる系譜の作品を描いていません。

 これはなんとももったいないことです。こういうのをきちんと描ける人ってほんとに少ないんですよね。

 この作品は日本漫画協会賞優秀賞を受賞し、杉浦日向子が世に知られるきっかけとなりました。

 

(杉浦日向子『合葬』筑摩書房)

 

 その後、「ガロ」を離れた杉浦は、様々な媒体で、幕末や明治初期を舞台にした秀逸な短編を精力的に発表していくことになります。

 最も杉浦日向子らしさの現れたこれらの作品群は、『二つ枕』、『ニッポニア・ニッポン』、『東のエデン』(ちくま文庫)などで読むことできます。

 

■充実の成熟期

 

 それにしても、杉浦短篇の数々を読んでつくづく思うのは、キャラ造形能力の高さです。

 これは連載マンガ向きの能力だと思うのですが、杉浦先生ご自身は、あまりそこに執着がなかったのか、『百日紅』などを除くと、まとまった長編作品が、ほとんどありません。

『ニッポニア・ニッポン』収録の「馬の耳に風」「月夜の宴」「冥府の花嫁」の三作は、風体の知れない「学者」先生と、女装好きのアダっぽいお兄さん、三味線の名手「若」の三人を主人公にした連作短篇で、これなんかもっと続けてほしかったですね。

 また、『東のエデン』所収の「閑中忙あり」1~5は、明治初年を舞台にした、画学生・妹尾君、政治書生・井上君、医学生・野中君の三人組のお話で、これもすごくいいです。杉浦先生ほどの実力があれば、いくらでも続けられそうなのに、なんだかとてももったいない気がします。

 杉浦日向子の興味は、キャラ中心の続きものを描くよりも、誰にでもある日常の点景をサラッと掬い取ることの方にあったのでしょう。

 

 こうした江戸の日常の断面をスケッチする杉浦の手腕が遺憾なく発揮されたのが、1983年から87年にかけて雑誌「潮」に連載された『風流江戸雀』(文藝春秋漫画賞受賞)でした。

「柳多留」のひそみに倣い、古川柳を題目にして各回四ページほどの掌編で編まれた本作は、まさに杉浦日向子の美質が最もよく表現された作品の一つと言えるでしょう。

また、86年から93年にかけて「小説新潮」に『百物語』が連載されます。

 こういったタイプの作品が、杉浦の資質に最もフィットしていたのかもしれません。

 生き馬の目を抜くようなマンガ業界でしのぎを削るより、一般文芸誌の中の“埋め草マンガ”といったポジションで、気楽に描かせてもらう方が性に合っていたのでしょう。

 

(杉浦日向子『風流江戸雀』『百物語』新潮社)

 

 そんな中で、杉浦のほとんど唯一とも言える本格長編となったのが、葛飾北斎と、その娘・お栄を主人公に据えた『百日紅』です。

 1983年から88年にかけて「漫画サンデー」(園山俊二・蛇足<4>参照)に連載された本作は、質量ともに杉浦の代表作と言って差し支えないものでしょう。それまでの短篇執筆で培ったテクニックが理想的な形で結実し、絵の洗練度もここに極まっています。

 とりわけ、物語終盤に登場する第二十八話「野分」の完成度の高さは息をのむばかりです。

”放し鳥”のシーンから始まるオープニングから、蚊帳の上のカマキリのエピソードを経て終盤に至る展開は、水も漏らさぬ完璧さで、結末に至って思う存分、涙腺を決壊させます。

 原恵一のアニメ映画でも、この「野分」のエピソードを中心に物語が作られていましたね。

 

(杉浦日向子『百日紅』上・下・筑摩書房)

 

■隠居と闘病

 

 そんな杉浦日向子が、突然「マンガ家引退宣言」を発表したのは1993年のこと。

 理由は「隠居生活を楽しみたいから」というものでした。

 しかし「隠居したい」は一種のカモフラージュで、「実際は骨髄移植以外に完治する方法のない血液の免疫系の病を患っており、体力的に無理が利かないために漫画家引退を余儀なくされていたことが、死後明らかにされた。」(Wikipedia)とする解釈が定着しているようです。

 ただ、そちらに解釈を振り切ってしまうのも極端な気がします。実際「隠居生活」を楽しみたいという気持ちも杉浦にはあったのでしょう。マンガに人生の全てを賭ける、というのはやはり呪われた人々にのみ課せられた使命であり、ふつうの人の取るべき道ではありません。

 

 杉浦日向子の隠居志向は、「高校二年、17歳の時」から(田中優子・佐高信『杉浦日向子と笑いの様式』p114)、というのですから年季が入っています。ニックネームは「若隠居」。二十代の終わり頃に受けたインタビュー記事では「まあ、若いうちは一所懸命働いて、あと隠居してから遊ぼうと、その日を楽しみに……できたら、四十歳ぐらい、元気のあるうちに定年してもいいなーと思ってます」「一番の夢は働かないで食べることです。本当は食べないですむと一番いいんですが」(文藝別冊『杉浦日向子』p211)といった発言が出てきます。

 思えば『百日紅』の善次郎や、『とんでもねえ野郎』の彦次郎<2>みたいな、いったいどうやって生活しているのかよくわからない、昼寝をしているような暮らしぶりをしている風来坊を描かせると俄然精彩を放つのが杉浦マンガでした。

 

 マンガ家業からすっぱり足を洗った杉浦日向子は、以後、文筆とテレビ出演などに仕事の軸足を移し、余った時間で蕎麦屋巡りや船旅を楽しむ「隠居生活」に入ります。

 もちろん難病との闘いもありました。通院と入退院を繰り返し、自宅から一時間半もかかる病院に通って、一回最低六時間もかかる通院に耐えていたといいます。

 しかし、そんな過酷な闘病生活はおくびにも出さず、いつも涼しい顔で過ごしていたといいます。

 

 闘病のかいあってか、難病の方は寛解の兆しが見えていたのですが、そんな矢先に下咽頭がんが発見され、声帯を部分切除。そして2005年7月、帰らぬ人となります。

 

 杉浦と近しい間柄にあった編集者の松田哲夫氏は言います。

「振り返ってみると、健康なときも、病いとつきあうようになってからも、まったく変わらずに、生きることを満喫した人だった。そういう意味では、惚れ惚れとするような、粋で格好いい江戸の女だったと思う」(「さようなら杉浦日向子さん」)

 

 どこまでも江戸っ子の粋を愛する杉浦日向子は、最後まで明るく朗らかに、その生を駆け抜けていったのです。

 

 

◆◇◆杉浦日向子のhoriスコア◆◇◆

 

【縦に長いコマ】76 hori

ページめくりの右頁なのですが、ここで突然、話が終わります。フッとロウソクが消えたような効果を出しています。

 

【真っ黒に塗りつぶされたコマ】63hori

初期の頃は、ゴテゴテと描き込む絵柄でしたが、後年になると、すっきりしたタッチの中に、効果的にベタを入れるようになっていきました。

 

【髷】85 hori

日本髷がどういう構造になっているのかわかっていないと、ちゃんと描けないですね。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>百話を語り切ってしまうと化け物が出てくるので、九十九話で止めるのが作法です。白石加代子の舞台「百物語シリーズ」も九十九話で完結。ファンの要望にこたえる形で継続されましたが過去作の再演になっています。

 

<2>杉浦先生の裏設定によると、彦次郎の職業は”小普請”(文庫版あとがき対談より)。「幕末で幕府も傾いてきて、人余り」の時代に、そういう「役目もないのに給料だけ貰ってるという暇な役の人」がいたらしい。なんとも羨ましいかぎりです。

「市井の人たちの方に興味がありますね。町人で資産があって、っていう若旦那や、働かないで暮らせる人が一番好きなんです」(『杉浦日向子 江戸から戻ってきた人』p208インタビュー記事より)

 

(※今回使用した書影は、松井路代さん、豊田香絵さんにご提供いただきました)

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:杉浦日向子『百日紅』上・筑摩書房

  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。