陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
柩のようなガラスケースが、広々とした明るい室内に点在している。しゃがんで入れ物の中を覗くと、幼い子どもの足形を焼成した、手のひらに載るほどの縄文時代の遺物が、折り畳んだ白いフランネルの上にそっと載せられていた。足形の脇には小さな穴がいくつか開いている。解説を読むと、亡くなった我が子の面影に母親が携えていたことが分かる紐通しなのだという。ほかにも縄文時代の鹿や猪の骨片や土器などが、入れ物に一つひとつ丁寧に納められている。内藤礼の「生まれておいで 生きておいで」展の会場である東京国立博物館のその一室は、「縄文の人々が見たのと同じ光の中にある土製品を感じたい」という美術家本人のたっての希望で、縦長の大鎧戸が50年ぶりに開け放たれ、絨毯も取り払われ、建物ができあがった当初の姿を取り戻した。日の光がベールのように柔らかく差し込む室内で、縄文の遺物は物語を取り戻し、まるでふっと息を吹き返したかのように生き生きと愛おしく観る者の胸に迫る。美術家として活動をはじめて以来、「生」と「死」を分けられないものとし、「生の内と外」をみつめてきた作者は、この展覧会を通してはじめて「『生』は生き『死』も生きる」という言葉を見出したという。図録には内藤礼の詩が載っている。
この生を衝き動かしている
逝ったものたちの生をかんじる
生きて
それから逝こうとおもう
生は生であり それは生きていますように
死は死であり それは生きていますように
■女神イシス
豊饒と再生のシンボルだったという縄文のヴィーナス。時と場所を遠く隔てた古代エジプトの女神もまた、同じように豊饒と再生を象徴していた。その名は、イシス編集学校という名の由来にもなっている。
イシスは古代エジプトの女神の名でもある。エジプトの祖神は大地をアーチ状に覆うグレートマザーのヌーだった。そのヌーに四人の子、オシリス、イシス、セト、ネフチスがいた。オシリスは地上神かつ植物神だ。イシスはその妹で、二人は夫婦になった。おそらく下ナイルを治めていたであろうオシリスの国はめざましく栄えていたのだろう。上ナイルの軍神セトがこれを妬み、奸計を用いてオシリスを殺害して柩に打ち込んで流した。
悲しんだイシスが行方を探すと、柩はビブロス(レバノン)の浜に打ち上げられエリカの木に纏われていた。泣く泣く死体を取り出してエジプトに持ち帰った。
死んだオシリスと交わっていたイシスは、やがて懐妊してホルスをもうけた。万神の神の子と呼ばれた。これを聞き込んだセトは今度は死体を盗み出すと、オシリスが復活しないように死体をばらばらに刻んで各地にばらまいた。イシスはその骨を一本ずつ集め、これを縫い合わせて再生させた。オシリスは冥界の王となり永遠に君臨しつづけた。
まだいろいろな興味深いプロットがあるのだが、これがオシリスとイシスの物語の母型だ。イシスはオシリスを二度、再生させたのである。ぼくは以前から、これはイシスによってオシリスが「イシス・エンジンを背後にもつ人工生態システム」になったのだろうとみなしてきた。(松岡正剛&イシス編集学校著『インタースコア』春秋社)
ばらばらになった情報を自由に繋ぎ合わせて新しい価値を生む方法こそ、編集力だ。
いま私たちは、生成AIなどのめざましいテクノロジーの進歩によって、自動的に編集された情報を受け取るいっぽうで、自ら考え、創意工夫する編集力を日々奪われ続けているのだろう。個々人の編集力だけでなく、世界を覆っている「分断」が示しているように、複雑な世界を複雑なままに受け入れられず、多様性がますます削ぎ落されつつあるこの社会も、編集力をどんどん衰えさせている。月の舟に乗るイシスは、私たちが便利な社会と引き換えに失ってしまった個人の編集力や、それらを交わしあい相互編集していく場の編集力も養う学校を象徴する、再生の女神だ。
■インタースコアと方法日本
ISISはInteractive System of Inter Scoresのイニシャルでもある。日本語では相互記譜システム、あるいは相互記譜的情報編集システムと訳される。
インタースコアの「インター」は「際で交わる」という意味で、ジュリア・クリステヴァが「インターテクスチュアリティ(相互テキスト関連性/間テキスト性)」という言葉で「世界のテキストは相互に交じりあい、つながりあっている」ということを表しているように、いくつものスコアをまたぎながら、相互編集的に記譜していくことを意味している。スコアと名づけられているものには、楽譜もあれば、スポーツやゲームの点数も、株の相場もあるが、そのおおもとを捉えれば、情報が編集されるとき、そこには必ずスコアリング(評価単位の創発)が起こっていると考える。
情報はin-formするものだが、情報がフォームをもっていくというそのすべてのプロセスがスコアであり、スコアリングなのだ。おそらく生体膜によってナトリウムイオンとカリウムイオンを交流させたこと、あるいはRNAがDNAにさせていることが、生命現象としての最初期のスコアリングだったろう。民族や地域や風土によって成立してきたさまざまな言語も、こうしたスコアリングの顛末を示している。そこには声のスコアも文字のスコアも、句読点のスコアもあった。このように情報のスコアリングはどこにでも、どのようにもおこっているのだが、その記譜や記録もまた、まことにさまざまな多様性をもってきた。歴史のスコアリングが歴史地図になるか歴史年表になるかで、その見た目が大きく異なるように、スコアは記録化のプロセスを受けながら、実に多様多彩なノーテーションに至ったのである。インタースコアとは、二つ以上のスコアに注目してこれらを「あわせ・かさね・きそい・そろい」にもちこんでみる編集方法のことである。(『インタースコア』)
「あわせ・かさね・きそい・そろい」のインタースコアは、日本文化に見られる編集方法の大きな特色だ。「歌合わせ」や「取り合わせ」や「見立て」などのように、二つの相対する文物や表現を情報的に比べあわせ、似たところを楽しみ、違いを愛でる。そうした「あわせ」のなかから「きそい」が起こる。異なるものを持ち寄って新たな価値を生む「かさね」や「きそい」を再編集していくのが「そろい」だ。ここから座の文化が生まれていった。そこにはツール(道具性)、ロール(役割性)、ルール(競技性)もともない、さらに多くのスコアが誕生した。日本が得意とする意味のふくみあいの相互編集は、異質なものや矛盾するスコアのあいだに潜む関係を発見し、両方を重ねて意外なものを創発したり、併存させて生かしたりしていく方法でもある。そもそも松岡正剛がデュアルスタンダードと呼ぶ日本のコンセプトの多くは、古来、和漢の境をまたぐことによって成立してきた。
つまりは、漢字到来による以上のような大変革は、日本文化における編集の役割が単一化していったことをけっして告げはしなかったのだ。むしろそこからこそ日本文化の独自な複合的編集文化がはじまったのだ。・・・結論からいえば、こういうことになる。第一には、われわれの国は言葉と文字の関係を編集したときの原初の記憶を捨てることなく、その後の表現系の歴史を展くことになった。たとえば「アマ」という従来からの和語を漢字の「海」とするか「天」とするかということそのこと自身が、われわれの表現系の共振編集状態をつくっていったのだ。アマを「天」と綴ろうと「海」と綴ろうと、また「麻」と綴ろうと、そこには天も海も麻もふくみあわされるミームのイメージが残響するようになったのだ。第二には、万葉仮名や女文字の発達は歌や歴史語りの記憶のために発案されたものであったが、その歌や物語が発生し、成長していった“現場の記憶”は壊されなかったということだ。・・・日本の編集文化の原点には「意味のふくみあい」を成立させている「場の構造」がひそんでいたのである。 松岡正剛著『日本数寄』(ちくま学芸文庫)
■スコアにあらわれる方法日本
松岡正剛が方法日本を語り尽くした講義を納めた『連塾 方法日本』シリーズ(春秋社)の第二巻は、インタースコアを巡る一冊だ。尺八の奏者中村明一さんとの対談では、典型的なスコアである楽譜を通して、日本の文化が何を大事にしてきたのかを浮き彫りにしている。
中村:西洋音楽の五線譜は、その複雑なものの中から大きなパラメータを二つだけ選んでスコアしたもので、その二つというのは時間と音高です。この二つのパラメータだけで何でもあらわすようにしてしまったのが五線譜です。ところが、尺八の音楽では何をメインのパラメータにしてるかといいますと、音質なんですね。・・・尺八の楽譜では、記譜の文字と音高とが、一対一対応をしてはいない、ということです。尺八は一見素朴な楽器ですけれども、ある意味で人間の体に入っていくような進歩のしかたをしているんですね。・・・この大きな手孔の押さえ方を微妙に変化させることで、音の高さを自在に変えていくわけです。それと唇の角度によっても音の高さも音質もかわります。ときには唇で半音下げて、指で半音上げるというようなこともして、また息に強さを変化させることなどによって、無限の音質をつくり出すことができるわけです。
音に含まれる無限の情報をどのように分節し、何を選択してスコアリングするのかが、西洋と日本では大きく異なることがよく分かる。日本という方法を表象する尺八の楽譜には、身体性をともなった、要素還元されていない音の質がまるごとあらわれている。中村氏の話を受けて、松岡正剛はこう語っている。
今日、私が申し上げたい大事なところは、いまの中村さんの尺八の中にあったといってもいいものです。しかしながらわれわれは何をつなげておくべきかということを、しだいにわからなくさせてしまったんです。どこかで感性と知性とか、心と体とかを分離してしまったようです。そうなったのはデカルトの責任だけではないでしょう。ヨーロッパ近代の全体が心身二元論になってしまったわけですし、以降の西洋的な学問や文化の多くがスコアを別々にしてしまいすぎたんですね。・・・私たちには歴史的身体というものがあり、その身体はかつてもいまも五感をもって何かをスコアしてきました。・・・その五感や感覚は何かの方法に転化されてきました。そして、言葉や音楽や芸能や建築となって、今日にまで続いています。ですから、そうした時代にひそんでいる数々のスコアは、過去と現在をつなぐすこぶる歴史身体的な日本でもあり、これからの日本でもあるだろうと思うんですね。
知覚が幾重にも交差して、場の中で有機的に補完しあい、インタラクティブにはたらく。部分と全体を分断せず、全体の場の響きのなかで複雑なネットワークのままスコアをとらえていくことで、方法日本のインタースコアは育まれた。
スコアとスコアのあいだに着目し、関係性ごと掬い取る身体感覚的なしくみや、自在な知の組み合わせや表現の多様性を重んじる日本の方法には、たとえば連歌から座の文化や新たな茶の湯が生まれていったように、複雑なシステムやカオスによる創発のインタースコアが豊かにあったという。
■インタースコアとカオス
イシス編集学校の指導陣に向けた伝習座では、ISIS co-missionボードメンバーの専門性とインタースコアして新たな編集工学を切り拓いていくニュースタイルがスタートした。第一回目の9月28日の伝習座では、ISIS co-missionの津田一郎氏による講義があった。松岡正剛は津田氏のことを、科学の成果を物語というフォーマットとインタースコアして語れる研究者として、高く評価していた。
津田君はここで大きな問題が立ち塞がっていることに気がつく。それは、これまでの科学の方法ではこれ以上の先には進めないようになっていしまっているということだった。ここでふたたび津田君の飛躍がおこる。それが科学における「先行的理解」と「物語性」と「もっともらしさ(plausibility)」の導入というものだった。いずれも従来の科学では想像もつかない大胆な方法の導入である。・・・「物語性」と「もっともらしさ」の導入については、科学におけるメタファーの力を許容する方向をもつ。メタファーとは和風にいえば「見立て」であるが、実はカオスは「見立て」が好きな現象なのである。では、その「見立て」にはどんなルールがひそんでいるのか、そこではどのような「もっともらしさ」が選択されているのか。そこにはきっと物語のようなシナリオが必要になるはずだろう。これが、津田君の新しい科学の次の踊り場なのである。・・・脳は、はっきり決まった機能をもつパーツが集合することによって成り立っているのではなく、全体として機能することによって特異な機能が出現(創発)したものである。(千夜千冊第107夜 津田一郎『カオス的脳観』サイエンス社)
津田氏と松岡正剛は40年以上の長いつきあいのなかで、秘密の対話を続けていた。その内容が公となったのが、対談集『科学と生命と言語の秘密』(文春新書)だ。本書によると、カオスを調べれば調べるほど従来の科学とは相いれない計算不可能性や予測不可能性などの特徴があることに、津田氏はショックを受けたという。そこでもう一つ気になっていた「脳の中でいったい何が物語というものを駆動させているのか」という疑問と重ね合わせ、「人間が物語る生き物であるのも、そして心というものが生まれる秘密も、このカオスの振る舞いによって説明されるのではないか」と思い至り、「脳とカオスを合体させるべし」というインタースコアに到達したのだという。
津田:世界のほとんどが非線形の世界でありながら、近代科学は線形性を捉えることが中心にあったわけです。非線形性をもとに出てくる現象は、要素に分けていくと失われてしまって捉えられない。まして他者とコミュニケーションすることで機能する脳についてはなおさらです。(『科学と生命と言語の秘密』)
カオスで脳を語ることについて、先ほどの『カオス的脳観』の一夜ではこのように書かれている。
カオスが興味深いのは、そもそもカオスには編集機能があるということである。カオスは情報を保持したり、加工したり、除去したり、変形させる機能をもっている。のみならず情報を新たに生成する能力ももっている。もし、このようなカオスが脳にもあるとしたら、脳の情報編集能力の重要な部分にカオスがかかわっていることになる。
『科学と生命と言語の秘密』では、日本の文化が大切に育んできた方法を含む多岐にわたる領域が科学とインタースコアしながら、世界や生命の謎をスリリングに解き明かしていくが、津田氏がそのいきさつの一端を伝習座の講義で明かしてくれた。松岡正剛は論理を飛ばしてとんでもない質問をしてくるのだという。だがそこへ瞬発力で飛びついていかなければ対話にならない。そうすることで、自分の中にも新しい発想が生まれてくる。これがインタラクティブな編集の一つの秘密ではないかというのだ。松岡正剛著『日本数寄』には、このようなことも書かれている。
そもそも編集とは、この「端」に着目し、そこに先端の気配を求めつつ、これをさまざまな他端につなげていくことをいう。編集はたんなる調整や修正ではなく、たんなる自己表現でもない。素材や状況はそこに伏せている。現前にある。花鳥風月を友とするとはそのことだ。その現前の素材や状況に応じてその一端の特徴をとらえ、そこから事態や現象を先方に合わせて新たな関係を発見していくこと、それが編集なのである。そこに端座するものから始まる進捗や出会いや包摂を大事にし、「このまま」から「そのまま」への景色の展出をはかるのが編集なのだ。したがって編集は、「端」とともに「縁」を重視する。「縁」は縁(ふち)やら渕やらが相互にめくれあがり、つながっていくことをいう。相互の縁起をつなげ、縁談をもちかけること、それも編集だった。・・・そこには厳密な論理の整合性の継承よりも、むしろ言葉の律動や意味の共鳴こそが継承された。アワセやカサネやツラネの文化はここから生じていった。このとき「端」や「縁」が動き出す。これは事象や現象の共通する特徴をとらえることであり、そこに立ち会う者の心の機微をとらえるということである。
主語的ではなく、述語的につなげる相互編集にこそ、インタースコアによる創発が生まれる。
津田氏の複雑系の講義は、問感応答返の相互編集やエディティング・セルフの重要性を学ぶイシス編集学校でのお稽古の理解とお題へのアプローチ方法を深めてくれる内容でもあった。このことを、編集学校[守]基本コース師範の山崎智章が、津田氏の講義と編集学校とをインタースコアしたレポートで詳しく述べている。
津田氏は、科学が物語として生き生きと語られている好著として朝永振一郎著『量子力学』を紹介したあと、著者のとっておきのメッセージを教えてくれた。ノーベル化学賞のメダルの裏には、自然の女神ナトゥーラが被っているベールを、科学の神スキエンティアが剥がしている姿が象徴的に描かれている。これを受賞した朝永博士は「こんなはしたないことを私たちはしていたのか」と愕然とし、これからの若い人たちは、女神のベールの上から真理を見極める学問をやっていってほしい」と語ったという。それがまさに複雑系なのだと津田氏は語る。ベールを剥がして要素還元しては分からないことがあるというのだ。
■霧のコミューン
10月6日のISIS FESTA SPECIALは、『霧のコミューン』発刊を記念して、著者でありISIS co-missionのボードでもある今福龍太氏が登壇した。吉村林頭は冒頭の挨拶で、本書に描かれている霧がもつメタファーの力を紹介した。
1.予兆のインターフェイスとしての霧。
霧は私たちにおとづれを感じさせる力をもたらしてくれる。
2.秘密を暗示させるベールとしての霧。
霧はさしかかった人にだけ顕れてくるものを隠す。
3.自己と他者、あるいは自己と世界をまるで触知し、愛撫するかのようにコミュニケートするアフォーダンスとしての霧。
このような霧の力に、現代社会を批評する可能性や、次なるコミューンの可能性が開かれているのだという。
本の帯には「分別だけで塗り固められていない、希望のくにへ」とある。今福氏によれば、霧のコミューンというヴィジョンが生まれ、深まっていくときに、いちばん乗り越えたいと思ったのが分別だったという。私たちが成長して社会化し、教育されていくなかで最も大事なこととして身に着けてきたのが分別だ。何かと何かをきちんと要素に分けて論理的に組み立て、システムとして構築するのが今の合理主義的な社会や知のありようである。だが、ものごとの生成や関係性や歴史も、リニアな因果関係の中で説明し尽せるものではない。不定形な霧のような共振体のようなところから、ある予兆や偶然の元に何かがかたちをなし、すぐにまた崩れてはかたちが生まれてゆく。それを瞬間ごとに受け止めていくようなプロフィールのなかでそれらを捉えなおしていきたいという。今福氏は、分別の中にまだ組み込まれていない不分明なもののなかにこそ、可能性を感じると語る。そうした可能性を信じる人たちがゆるやかに繋がっていく精神共同体が生まれていくことが、社会を大きく変えていく力になり得ると考えているという。学ぶということを、分別をつけるためではなく、そこをひっくり返していき、霧のような知性の原型を取り戻す試みとして捉えなおす。それはイシス編集学校が試みてきた非常に本質的なことでもあると今福氏は述べる。
分別を揺るがし、自他非分離の霧の中をさまようように受講者をいざなったのは『霧のコミューン』のためにつくられた美しい映像だった。奄美大島の山と海を霧がベールのように半ば覆い隠しては揺蕩い、ジャズバラード「Misty」が映像に重なっていく。右足と左足の区別も分からず、帽子も手袋も見分けがつかないという歌詞には、恋愛を歌いながら、分別への鋭い問い直しや、分別を超えた先に新しい可能性が眠っていることが示唆されていると、今福氏は語る。
映像の冒頭に現れたエミリー・ディキンスンの「私は入っていかなければなりません、霧が立ち上ってきたのですから」という一節は、彼女が亡くなる直前の言葉だ。そこに今福氏は死を諾(うべな)う、霧に託した静かな変身の意志を感じるという。生という世界は絶対ではなく、生と死は分断されていない。死というのは存在のもう一つのモードであり、そこへ向かうときに立ち上る霧は、変身を促す強い力だと語る。生と死の分断を繋ぐ霧、あるいは自分と他者を曖昧にする霧の力。『霧のコミューン』のサブタイトルには「生者から死者へ、死者から生者へ」とある。
■ISISの面影
9月14、15日の二日間、イシス編集学校の25周年を祝う「第84回感門之盟 25周年番期同門祭」が開催された。松岡正剛の面影を辿りながら、第1期から53期までの卒業生が集う大同窓会の最後に、co-missionのボードの一人である大澤真幸氏が登壇した。
面影は、リアルな人間よりも強く私たちを鼓舞し、動かす力があると大澤氏は語る。人は、死者の想いを断じて受け継ぎたいという、そういった存在がいなければ、たいした仕事はできないのだという。私たちは面影として現れる松岡正剛にどのように応答していくのかが、何より切実なのだと。
現代社会の特徴は、日々の生活の中で何かを具体的に決めるときでさえ、どういった世界観を前提にしているのかという基本的な枠組がつねに問われるようになってきていることにあるのだという。そのとき、具体的な問題を考えるときの前提になり、世界観と直結しているイシス編集学校の方法を、すぐに現実にフィードバックしてものの見え方を変えていくときに、本当の意味で世界の編集のしかたを学んだことになると、大澤氏は語った。
刻々と生成し続ける日々のプロフィールは、世界とかかわるためのスコアを孕んでいる。かけがえのない面影を手繰り寄せるために擬き、私たちの歴史的身体に刻まれた記憶を想起しながら数々のスコアを発掘し、繋ぎ合わせて別様の可能性へとインタースコアしていく。その方法の極意を私たちはこの学校で学んでいるのだろう。
§編集用語辞典
19[ISIS(イシス)]
アイキャッチ画像:穂積晴明
丸洋子
編集的先達:ゲオルク・ジンメル。鳥たちの水浴びの音で目覚める。午後にはお庭で英国紅茶と手焼きのクッキー。その品の良さから、誰もが丸さんの子どもになりたいという憧れの存在。主婦のかたわら、翻訳も手がける。
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