白居易の詩の行間から虚が滴り、本棚と手摺を伝わって鳥籠に垂れた。虚は清潔な金属製の底面で暫く体を休めていたが、自らが鳥籠のなかにあることを認めると、みるみる漆黒の大虚鳥に転じるのを感じた。大虚鳥は、羽化したばかりの蝉の翅が乾くように身が定まっていく歓びに打ち震えながら、「籠に在らば鳥にもなろう。檻に在らば猿にも虎にもなろう」と高らかに歌い、勢を誇った。
しかし、白楽天詩選を求めて通りがかった男の眼には、籠に閉じ込められた哀れなカラスが騒いでいるとしか映らなかった。男は本棚の許での鳥籠を覗き込み、「翼があるというのに空の自由がないとは」と憐憫の句をこぼした。大虚鳥は精なき男の視線を羽ばたきで散らし、「自由がないのはヌシのほうじゃ」と嘴の裏で燃える紅い口腔を剥いた。「ヌシは何の囲いもない世界で若き身を持て余しながら、隠遁者の如き眼をしておる。ヌシを定める枠なきゆえにヌシは何者でもなく、枠を超えんとする自由もない」
男は引き笑いをして鳥籠を小突いた。「ならばカラス殿、お教え願いたい。自由とは何か」
大虚鳥は羽を窄め、本棚の隙間の壁に吊るされた無垢の掛け軸を差した。「あの掛け軸を、水で満たしてみよ」
「山水画は」と男が言いかけたところで大虚鳥は一叫し、言を遮った。「河や海、雨を描くことは禁忌じゃ」
瞬く間に男の顔が不満の霧で覆われた。「そうら、それが不自由だというのです。型に嵌められては、描く自由が奪われてしまう。何も描けるわけがない」
大虚鳥は嘴で羽を繕いながら「左様かの」と呟いた。「掛け軸という枠、山水を描けぬという縛りゆえに描ける水もあろうて。まあヌシよ、そんな不機嫌にならんと、掛け軸を下ろしてくだされや」
男は憮然の表情で掛け軸を籠の前に敷いた。大虚鳥は羽を二本抜き、一本を掛け軸に投じた。紙面に張り付いた羽は溶け、磁石に導かれる水銀のように形を成し、身を捻る鯉に転じた。さらに大虚鳥は、もう一本の根元を唾で濡らし、籠の柱の隙間から差し出すと、羽ペンのようにして鯉の傍らに同心円を描き足した。たちまち同心円は波紋と化し、紙面は静水となり、鯉は今まさに掛け軸の外へ泳ぎださんとしている。
「どうじゃ、掛け軸という枠のなかに鯉が宿ることで、山水が無くとも水を湛えることができたじゃろう。しかも鯉は泳ぎ出でる自由をも知った。やがて鯉は長江に出でて滝を登り、龍に化けるかもしれん」
どさりと白楽天詩選を落とした男は、膝を折って眉間に皺を寄せた。「籠を知るカラス殿も、鯉のように自由をご存じのはず。籠から出たいとは思わないのですか」
「何を言っとるんじゃ。ワシはすでにして自由じゃ」
大虚鳥は大仰に羽ばたいて籠の柱に飛びついた。「籠に居るからこそ、ワシはカラス殿なのじゃ。もしここを監獄と見做さばワシは囚人ともなろう。ここを檻と見做さば、猿にも虎にも成り得よう。枠や型はヌシの敵ではないぞ。枠や型はヌシを何者かにし、飛び立つ自由をも与えるものじゃ」
言い放った大虚鳥は柱を蹴り、苦も無く籠の蓋をすり抜けると、地に転がった白楽天詩選を拾う男の頭に泊まり、籠鳥檻猿倶未死と哮るのだった。
~型に拠れば~
注意のカーソルを写真の籠に向ける。属性と要素は連動するので、属性を鳥籠だとすれば、鳥が要素となるはず。しかし、ないものフィルターで鳥が抽出されてしまう。鳥はどこへ行ったのだろう。注意のカーソルを本棚へ移せば、例のイワザルが居る(第一回参照)。この鳥と猿の一対を想ったとき、連想したのが白居易の『籠鳥檻猿』であった。
『籠鳥檻猿』は、籠の中に閉じ込められた鳥と、檻に閉じ込められた猿。この二者は、白居易とその友人の元禛を喩えたものらしい。ここで、籠や檻が自由を奪う機能を有する、という前提を変えることにした。すなわち、二点分岐を用いて、自由を与える籠に進んで入る鳥・自由を奪う檻に囚われた猿、という一対を考えた。籠や檻から意味単位のネットワークを拡げれば、監獄、牢、ルール、枠組み、条件、制限、様式、型といった言葉が思い浮かぶ。籠や檻を型の比喩とすれば、型こそ自由の源泉であるとする鳥と、型を不自由の根源とする猿の一対が成り立つ。物語マザーに沿うならば、猿は自由を知らぬ状態(原郷)から旅立ち、鳥からのお題によって困難と遭遇し、真の自由を知りたいという目的を察知し、鳥との問答を通じて闘争する。最終的に、型こそ自由の源泉だという鳥の指南により、猿は真の自由に気づき、彼方から帰還を果たす流れとなる。猿は、白楽天詩選を求めて通りがかった男として登場させた。
ここで問題となったのは、白居易の漢詩と鳥籠との関連付けであった。はじめは漢詩の一節そのものが鳥に変化し、籠に入るイメージを取り入れようとしたが、鳥、カラス、大虚鳥という意味単位のネットワークから、漢詩から水銀に見立てた液体状の虚が鳥籠に滴り、それがカラス(大虚鳥)へと転じるイメージに変更した。大虚鳥はカラスの蔑称であるが、大いなる虚構(フィクション)を司る鳥という意にも通じるため、こちらのイメージのほうがトリガーに相応しいと判断した。
次に、カラスのお題であるが、水そのものを描けない(海・河・雨を描けない)というルールのもとで、どうしたら水を表現できるのか?ということを考えさせることにした。掛け軸という地に鯉という要素を図として配置するだけで、鯉の「魚」という属性が、鯉の「泳ぐ」という機能が、自動的に地としての水を想起させる。別の例を挙げよう。愛を描くために「あなたが好き」と抱き合わせるのは稚拙である。むしろ、愛そのものを描くことを封じ手とし、愛する者のために悪事に手を染める機能を描くほうが、圧倒的に強い愛を表現できる。思うままに直感で描くよりも、「~してはならない」というルールを課し、地と図を活かし、機能・要素・属性の連動性を十二分に意識するほうが却って豊饒な表現につながることを、大虚鳥は指南しているのである。ルールは、決して自由を奪う檻でも監獄でもないのだ。
かくして、この猿はイワザルとなり、本棚の住人となったというのは、私の希望が過ぎるのかもしれないが、今回はイワザルという師範代の前日譚を描いたのだと私は思いたい。
宮前鉄也
編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。
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