編集かあさんvol.6 ウィルスと言語ゲーム

2020/04/07(火)10:07
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「子どもにこそ編集を!」
イシス編集学校の宿願をともにする編集かあさん(たまにとうさん)たちが、
「編集×子ども」「編集×子育て」を我が子を間近にした視点から語る。
子ども編集ワークの蔵出しから、子育てお悩みQ&Aまで。
子供たちの遊びを、海よりも広い心で受け止める方法の奮闘記。



 3月のはじめ、
「うわあ、あれ、何? 見たことある気がする」
 町はずれを車で走っているとき、助手席の長女(6)が声をあげた。
 配水池の塔だよと答えると
「塔! 『猫の恩返し』の塔だ!」
 なんと、そうつながるとは。
 長女が見たのは奈良県と京都府の県境にある木津南配水池である。
 言葉がトリガーとなって遠い情報どうしが一気につながる。らせんデザインもあいまって、ジブリのアニメに出てくる塔がここにあるんだと思ったらしい。
 語彙が増えてきて、アタマの中で、アナロジー、アブダクション、アフォーダンスの3Aがいよいよ躍動しはじめたのだなと感じる。

 

猫の国の塔

『猫の恩返し』徳間書店

 

 それから幾日も経たないころ。幼稚園の帰り、自転車に乗せるやいなや話し始めた。
「あのね、誰なのかは言わないけどね、この間、新しく入ってきた子はね、〇〇っていう国から来た子だからウィルスにかかっていると思う。だから離れてたほうがいいと思うんだ」
 ヒヤリとするが、長女の声のトーンは明るくて、すごく大事ことを考えついたから話したくなったという感じだ。

 自転車を押し、顔を見ながら話をすることにした。
「幼稚園は熱があったらお休みすることになってるの。その子は、熱も無くて元気だから幼稚園に来られているはずだよ。とうことは大丈夫ってことだと思うよ」
「でも、みんなそう話してた」
 だんだんしぼんだ表情になっていく。
「おかあさんがそんなにいろいろ聞いてくるならこの話はもうしない!」
「わかった、でも、あとちょっとだけ。その子がもしホントに病気にかかってたとしても、好きでかかったわけではないはずだよ。そうなりたくなかったなのに、みんなが離れていったら悲しい気持ちになるでしょう」
「もう、わかったからおしまいにして」
「よし、そうしよう」
 スピードをあげて家に向かう。
 このこと、どう捉えたらいいのか。夕方の街を走りながら考えた。

 数日後、園の玄関で園長先生と会ったので、話をする。
 少し前に、転入生の子と少しでも早くなじんでもらおうと出身国の話をみんなの前でした。また、このところ手洗いや消毒の大切さを日々の生活の中で伝えている。それらとニュースとが子どもたちの会話の中でつながって、長女が話した「発見」のように捉える子が出たのかもしれない。幸いその子に伝わっている様子はなく、普段通り仲良く遊んでいますということだった。

 ヴィトゲンシュタインは、1936年ごろから1945年にかけてまとめた『哲学探究』で「言語とそれが織り込まれた諸活動の全体」を「言語ゲーム」と呼んだ。

 読み書きの力もついてくる6、7歳というのは、いよいよ本格的にプレイヤーの仲間入りをする時なのだ。

 急に周りで飛び交いはじめたコロナウィルスという言葉。大人たちもまだわからないことだらけな上に、怖がらせてはいけないという配慮ゆえ、子供たちにはあいまいな説明しかなされていない。私もついついぼかして話していた。
 そんな中、長女は、家族、先生、クラスメイト、そしてニュースから拾った情報の断片をつないで、自分なりに納得できる、しかも病気にならないためのインストラクションになるようなストーリーが編みあげた。その瞬間は、とてもうれしかったのではないか。

 「思いついたけど、口に出さないほうがいいかもしれない」という感覚は、自在に話せるようになってきたあとで、おそらく少し遅れて身に刻まれてくるものなのだろう。
 長女の言葉は、いわば「今」だけ出てくる言説だった。また、一番最初に私にだけ話してくれたという点は倫理感の萌芽だったのかもしれないと後から思い至る。
 
 言語ゲームの「先」についても、ヴィトゲンシュタインは考えていた。


 それは言葉が相手を突き刺し、憎悪を駆り立て、せっかくの言語ゲームが感情のゲームになってしまうということだった。そこでヴィトゲンシュタインは、言語ゲームと倫理の問題を結びつけようとした。

千夜千冊833夜『論理哲学論考』

 このところ毎日、長女から言葉の意味についての質問が飛び出す。
「ねえ、<番犬>って何?」
「ねえ、<まとも>ってどういう意味?」
 言葉そのものを教えると同時に、言葉とは何なのか、言葉を使うとはどういう営みなのかを、少しずつ語り、示していく時期に差し掛かっていると気づく。

 言語ゲームという見方に到達したのは、ヴィトゲンシュタインが一時、大学を離れ、小学校教師をしていたことと関係していると、編集かあさんの目で読み直して感じる。

 大人たちだって、自分たちが日々ニュースを見て、あれこれコメントする営みが言語ゲームであるということに気づいていないか、ほとんど忘れている。


 わたくしは、自分の手稿によって他の人がみずから考える労を省くのを望まない。できることなら、誰かが自分自身で考えるための励ましになりたいと願っている。(『哲学探究』序文より)
                   

 「善きプレーヤーであれ」とはヴィトゲンシュタインは言っていない。
 日常の言語活動を言語ゲームと見立てる方法は、そういったルールを加えることとなじまない。が、言葉を話すこと、一切の営みを言語ゲームであると捉えることで、私たちの言葉と、言葉の使い方は変わる。ひいては社会の様相が変わっていくと確信し、望んでもいたはずだ。

〇〇読んだ本

『論理哲学論考 (叢書・ウニベルシタス) 』
 ヴィトゲンシュタイン (著),藤本隆志・坂井秀寿(訳),法政大学出版局
『哲学探究』
 ヴィトゲンシュタイン (著), 丘沢 静也 (翻訳),岩波書店




  • 松井 路代

    編集的先達:中島敦。2007年生の長男と独自のホームエデュケーション。オペラ好きの夫、小学生の娘と奈良在住の主婦。離では典離、物語講座では冠綴賞というイシスの二冠王。野望は子ども編集学校と小説家デビュー。