テリー・ギリアム監督が、構想開始から30年以上もの苦闘を経て、とうとう『ドン・キホーテ』を完成させた。あまりにも多くのトラブルに見舞われ、都合9回にもわたって制作が断念されたことから“史上もっとも呪われた映画”と呼ばれてきた作品である。
最初に撮影が頓挫したときの顛末が描かれた『ロスト・イン・ラマンチャ』(2002)というドキュメンタリー映画を見ていたこともあって、「ついに完成」のニュースを目にしたときには仰天したし、すっかり高齢になったギリアム監督(80歳になるようだ)をいたわりたいような気持ちもあったのだが、映画館に行くのはずっとためらっていた。
ギリアム作品はほかにも『未来世紀ブラジル』『バロン』『ブラザーズ・グリム』『Dr.パルナサスの鏡』など何本か見てきたが、正直言ってあの独特の迷宮装置的(もどき的)世界観がちょっぴり苦手なのだ。ついでにいうと私はホドロフスキーやデヴィッド・リンチやティム・バートンも苦手で、おそらくある種の奇妙奇怪ファンタジー装置(松岡正剛語ではキレイダ・キカイダ)を受容する能力と愛情が欠けているのだろうと自覚している。
それが、如月某日、ゴートクジの某所で、ダンサーで田中泯さんの片腕である石原淋さんと“密会”し、最近の関心事や思案事を交感するなかで映画の話があれこれ盛り上がり、淋さんが最近見た映画のなかでは『ドン・キホーテ』がよかった、絶対に見ておくべきだと力説するものだから、ようやくその気になった。淋さんは、映像であれアートであれ、表現者の意図や志向性を鋭く見抜く審美眼の主なので、彼女が奨めてくれる映画なら是が非でも行かねばと思ったわけである。ちなみに淋さんもかつて『ロスト・イン・ラマンチャ』を見て、ずっと関心をもっていたらしい。
さっそくその週末、新宿のミニシアターに駆けつけた。コロナウイルスによる自粛ムードが広まりつつあったタイミングにもかかわらず、思いのほか混み合っていた。ロビーには、ギリアム監督が見舞われた数々の災難やトラブルをまとめた年表が掲示され、熱心に読み込んでいる人たちがいた。ウイルスをモノともしないコアなファンなのだろう。コアなファンではない私は、せめてもの事前学習のつもりで千夜千冊『ドン・キホーテ』を読み直して行ったのだが、これがはからずも功を奏してくれた。これまで苦手に思ってきたテリー・ギリアムの“装置”や“仕掛け”ごと、今回はおおいに没入して楽しむことができたのだ。
『ドン・キホーテ』といえばたいていは、騎士道物語を読みすぎて妄想と現実の区別がつかなくなったドン・キホーテこと郷士のアロンソ・キハーナが、農夫のサンチョ・パンサを引き連れて、騎士道ロマンを求めて波乱万丈の旅を展開する話というふうにあらすじ解説される。松岡正剛は「千夜千冊」で、あらすじではなく物語の重層的な追想構造に着目し、「ドン・キホーテは自分の過去の物語を書物にしながら進む騎士であり、その書物を抱えたドン・キホーテの体験を、セルバンテスが次々に新しい物語にして『ドン・キホーテ』という書物にする」というふうに解説している。この松岡のヒントによって映画を見ると、まさにセルバンテスの仕掛けたこの重層構造を、ギリアムならではの“魔術”によって換骨奪胎しようとしていることが、おもしろいように見えてきたのである。
主人公は、アダム・ドライバー演じる映像作家トビーである。学生時代に制作した「ドン・キホーテ」の映画が高く評価されたのに、いまはやる気のないCM監督になりはてている。が、そのトビーの映画でドン・キホーテ役を演じたがために妄想に囚われたままになっている老人と再会したことから、「ドン・キホーテ」の物語さながらの珍道中に巻き込まれていく。この老人がいったい「ドン・キホーテ」という人物を妄想しているのか、「ドン・キホーテ」の物語を妄想しているのか、はたまた「ドン・キホーテ」の映画を妄想しているのか、そのあやしい多重妄想性が、絶妙にまぜこぜになりながら話が進んでいくのである。
「ドン・キホーテ」の重層性をまるごと生かしながら新しいエンタテインメント性をつくりあげた作品といえば、すでに有名なミュージカル『ラ・マンチャの男』がある。獄中のセルバンテスが囚人たちを相手に自作の「ドン・キホーテ」の物語を演じてみせるという設定によって、見事なまでに入れ子状のメタフィクション構造を成立させたものだ。私は、セルバンテスとキハーノとドン・キホーテという3つのパーソナリティを一人の役者が演じるというこの作品のおもしろさを、ピーター・オトゥールの気迫のこもった演技が圧倒的な映画版で堪能したものだ(日本ではもっぱら、幸四郎=白鸚の当たり役として知られているが)。
この『ラ・マンチャの男』のシステマチックな構造にくらべると、ギリアムの映画はあえて構造の“境界”をあやしくしているようなところがあるようだ。しかも最後にはトビーの妄想が老人の妄想をすべて乗っ取ってしまうような驚くべきサーカス的展開となっていく。松岡のいう「物語の重層的な追想構造」が、ギリアム流キレイダ・キカイダ装置によってさらに増幅され、変容されていくような映画といえばいいだろうか。
そこには他のギリアム作品と同様、ハチャメチャなカーニバルになってしまう危うさもあるように思うし、果たしてこの映画が破綻を免れていたのかどうか、私には覚束ないところがあるのだが、妄想老人を演じるジョナサン・プライスの、哀感があるのに滑稽で、しかも高潔さを印象づける演技や存在感が、説得力をもって映画を支えているということは確信できた。「ドン・キホーテ」という物語世界を映像化するには、この滑稽なのに高潔というドン・キホーテの絶対矛盾的自己同一を体現できる役者の存在が、何よりも大きかったのだろう。石原淋さんがこの映画を熱く支持した理由も、そのあたりのことにあるのではないかと思われた。
ところで、『ドン・キホーテ』の映画化を志してとんでもない苦労を背負った監督は、テリー・ギリアムだけではない。時代を超えて『市民ケーン』などの監督作品が高く評価されてきたオーソン・ウェルズもまた、1950年代から20年以上にわたり映画化に取り組んだ。どこからも支援を受けられないため、自費を投入までして撮影をし続け、膨大なフィルムを残しながら、とうとう完成させることができなかった。やはりドン・キホーテ」の世界観を現代に置き直し、監督であるウェルズ自身が物語に出入りするような、即興的メタフィクションのようなものを構想していたらしい。
『ドン・キホーテ』に挑んだ映画監督は、なぜか自身がドン・キホーテ化してしまう――そういった伝説が、映画業界では「ドン・キホーテの呪い」としてまことしやかに語られてきたらしいのだが、どうも私には、テリー・ギリアムに憑りついていたのは、「ドン・キホーテの呪い」ではなく、「オーソン・ウェルズの呪い」なのではないかと思えてならない。ちなみに、ギリアムの映画の原タイトルは「The Man Who Killed Don Quixote」。なんともイミシンである。
【付記】
『ドン・キホーテ』を見たあと、何度か石原淋さんと感想をメールでやりとりした。トビー役は、撮影が頓挫する前のジョニー・デップのほうがいいか、完成版のアダム・ドライバーのほうがいいかとか(二人の意見はここで割れた)、ジョナサン・プライスのドン・キホーテもよかったが、病気のために途中降板してしまったジョン・ハートのドン・キホーテも見たかったとか(これは淋さんの意見)、やはりピーター・オトゥールの『ラ・マンチャの男』が最高だった(ここでは一致した)といった俳優談義もさんざん交わしつつ、松岡が「千夜千冊」で勧めている岩波少年文庫版の『ドン・キホーテ』と、その訳者である牛島信明さんの解説本『ドン・キホーテの旅』(中公新書)を、二人で「共読」することにした。
1週間ほどして、淋さんと私はあいかわらず少年文庫に首っぴきだったのだが、解説本『ドン・キホーテの旅』のほうは、なんと田中泯さんが、むさぼり読んでいるという話だった。それで思ったのだが、日本で『ドン・キホーテ』をつくるなら、いちばんふさわしいのは田中泯さんではないのだろうか(淋さんからは、まだ同意を得ていない)。
本稿にはそれやこれやの、淋さんとのやりとりから生まれた私の妄想も盛り込んである。
太田香保
編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。
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