べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十八

2025/10/11(土)14:51 img
img NESTedit

 名づけとズラしの均衡が、遂に破られた。師の不在が背を押し、歌麿は狂気へ、蔦重は侠気へ――二つの過剰が交錯し、余剰の力が切断と結節を経るとき、死は退き、文化が起つ。その不可逆の瞬間を目撃せよ。
 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。


 

第三十八回「地本問屋仲間事之始」

 

死者の力学──不可逆性をもたらす「不在の在」

 

 これまで『べらぼう』は、〈正名―狂言〉――すなわち制度とそのズラしの関係を軸に展開されてきました。秩序に裂け目を穿ち、笑いや戯画の形で逸脱を許す「狂言」は、逸脱でありながらも結局は制度へと回収される“可逆的な越境”として機能していたのです。

 

 しかし第38回では、その回収の回路がついに破綻します。歌麿はきよの死に直面し、観察と幻想を分裂させ、「腐敗」を「生」へと言い換える狂気へと沈潜しました。一方で蔦重は、松平定信の出版統制に正面から挑む侠気へと突き進みます。二人はそれぞれ異なるベクトルで〈正名―狂言〉の往復を超え、不可逆の領域へと押し出されたのです。

 

 この跳躍を駆動したのは、すでに舞台から姿を消した師の「面影」でした。第35回において田沼意次と鳥山石燕の死の真相が伏せられたことは決定的です。石燕の面影は歌麿に「語れぬものを描け」と迫り、田沼の面影は蔦重に「制度を継ぎつつ打ち破れ」と囁く。いずれも命令ではなく、応答を要請する無言の圧力として作用し、弟子を狂気と侠気へと押し出しました。死が明確に描かれなかったからこそ、彼らは「終わった存在」ではなく、不在のまま生者を鼓舞する影となったのです。

 

 ここで立ち上がってくるのが、哲学者エマニュエル・レヴィナスの「顔」の思想です。彼にとって顔とは単なる外形ではなく、「殺してはならない」「見よ」と無言で迫る倫理の現前でした。顔は生者の前にあるときだけでなく、不在となった後も記憶や面影を通じて現在に割り込み、行為の方向を定める。死者の顔は「不在の在」として立ち上がり、生者の責任の源泉として生き続けるのです。

 

 では、なぜ不在はこれほどの力を持つのでしょうか。

 

  • 不在は「確定しない」から強い
     実体として現れているとき、人や出来事は目に見える形に収まり、その意味は限定されてしまいます。しかし姿が消えた瞬間、その限定はほどけ、無限の解釈可能性を帯び始める。伏せられた死は「どのような最期だったのか」という問いを開いたまま残し、生者の想像力を呼び覚ます契機となるのです。

 

不在は「語りを促す」から強い
 語られたものは物語に収まり、やがて忘却へと向かいます。けれども語られなかった出来事は、言葉の外側にとどまりながら、むしろ生者に語りの継承を促し、鼓舞し続けます。鳥山石燕が「何者か」を見て絶命したという断片は、その「何者」が伏せられているがゆえに、沈黙を抱えた物語として私たちに続きを語らせようとするのです。

 

不在は「現在を動かす」から強い
 過去の出来事は通常「終わったもの」として閉じられますが、面影は終わらない。それは現在の決断に割り込み、進むべき道の輪郭を照らし出す。田沼意次の最期が曖昧なまま残されたことで、蔦重田沼はなお背後から支え、方向を指し示す存在として働き続けたのです。

 

不在は「倫理的な呼びかけ」として残るから強い
 死者は命令しません。命令しないからこそ、彼らは常に生者の自由を呼び覚まし、「自分はどう応答するのか」を問う力として作用します。歌麿や蔦重にとって面影とは、重苦しい義務ではなく、「受け継げ」「続けよ」と静かに励ます呼びかけであり、彼らを前へと進ませる創造的な推進力となっていたのです。

 

 ――第38回で響いていたのは、この二人の師の「顔」の力でした。石燕の面影は雷鳴の下に残された怪異となり、歌麿を「言葉にならぬものを描け」という狂気へ押し出す。田沼の面影は「亡くなったらしい」という曖昧な伝聞として残り、蔦重に「制度を継ぎ、同時に打ち破れ」と迫る背光となる。二人の「師」の顔は不在でありながら弟子の背後に立ち上がり、それぞれを狂気と侠気へ導いたのです。

 

 第38回は、レヴィナスが説く「顔」の倫理的強制力を、面影という演出を通して鮮烈に可視化しました。不在の師の顔がなお現在を駆動し、弟子を不可逆の地点へと導く――その構造こそが、歌麿と蔦重の運命を分岐させ、物語を推し進めたのです。


師弟関係の核心――歌麿・石燕、蔦重・田沼

 

 鳥山石燕と歌麿の関係は、師弟のあいだに伝えられる「逸脱の形式」の極北に位置していました。石燕の妖怪画は社会秩序を根底から破壊するのではなく、礼法や風俗の隙間に「異形」を忍び込ませるものでした。妖怪たちは笑いと畏怖の境界に立ち、寓意や教訓を背負うことで共同体に回収される余地を残していた。すなわち石燕の術は、秩序を揺さぶりながらもなお共同体に許される「狂言」の越境だったのです。

 

 しかし石燕の最期は、雷鳴の下で「何者か」を目撃し、筆を握ったまま絶命したという断片としてしか伝えられませんでした。死の全貌が伏せられたことで残されたのは、怪異の絵という痕跡だけ。弟子にとってそれは「未完の仕事」として迫り、歌麿を終わりなき問いへと駆り立てます。彼がきよの亡骸を前に「まだ変わってっから生きてる」と言い放ったとき、もはや、師のように逸脱を寓意化することはできなかった。腐敗を生へと転倒させる不可逆の狂気へ突き進むしかなかったのです。石燕の不在は「言葉にならぬものを描け、現れぬものを写せ」という命令のように響き、歌麿を狂気へ導いたのです。

 

 ここでデリダの「喪の不可能性」が思い起こされます。亡き者を取り込めば他者性は消滅する。しかし他者性を残そうとすれば喪は完了せず、負債として続き続ける。喪とは「同化と非同化の同時進行」という不可能態なのです。歌麿がていの死に直面した場面はその極でした。

 

 腐敗という変化を生の証拠と言い換え、腫瘍を描かずに”見ない像”を描く。見るのに描かず、知るのに言い換える――その二重化は否認ではなく、他者性を消し切らないために喪を完了させない選択でした。歌麿は筆先で「不可能な喪」を持続させ、腐敗を「死の現前」であると同時に「生の持続」として像に変換したのです。ここに彼の狂気の倫理が刻まれていました。

 

 一方で、田沼意次と蔦重の関係は正反対に「制度の光と影」の承継でした。田沼は出版と経済の流通を日本橋に集約し、規格と信用を伴う秩序を作り上げました。これは「正名=制度」の構築そのものであり、江戸の出版文化はその網の上に成り立っていたのです。蔦重はその庇護のもとで出版業を拡大し、制度の果実を享受する存在でした。

 

 しかし第35回で田沼は退場し、その死も「亡くなったらしい」という伝聞で済まされます。確定を避けられた死は終わった存在とならず、「まだ背後から見ている者」として残響しました。蔦重にとって田沼の面影は二重の遺訓となりました。ひとつは「制度を受け継げ」という圧力、もうひとつは「制度を悪用するものがあらば、その制度ごと打ち破れ」という挑発です。第38回で蔦重が取った、山のような草稿を奉行所へ持ち込み制度を機能不全に陥れる物量戦は、まさにその二重の影の交差から生まれた侠気の実践でした。田沼が制度を築いたからこそ、その制度を逆手にとることができた。承継と反逆を同時に抱え込む力、それが蔦重の侠気だったのです。

 

 こうして二つの師弟関係は、奇妙な対称を描きます。石燕は「狂言」という逸脱の形式を与えたが、不在は弟子を「狂気」へ沈めた。田沼は「正名」という制度を与えたが、不在は弟子を「侠気」へ押し出した。師が死を伏せられ、不在のまま面影として残されたとき、その影はむしろ強力な駆動力となり、弟子を不可逆の領域へ突き動かす。

――そこにこそ、『べらぼう』第38回の核心が示されているのです。


物語インフレーションのアルケミー ―正名・狂言・狂気・侠気-

 

 「正名」と「狂言」は、ちょうど粒子と反粒子のように対をなす存在です。秩序を固定する正名と、それをわずかにズラして相対化する狂言。両者は互いを消し合うのではなく、衝突と共鳴を繰り返すことで均衡をつくり出します。ところがその均衡の中から、突如として二つの過剰なベクトルが噴き出すのです。ひとつは内へと沈み込み、観察と幻想を分裂させる「狂気」。もうひとつは外へと押し出され、制度そのものに衝突して共同体を巻き込む「侠気」。それはまるで粒子と反粒子の対消滅から莫大なエネルギーが放出されるように、既存の秩序の往復を突き破り、新しい文化のインフレーションを引き起こします。

 

 すなわち、“過剰な内向=狂気”や“過剰な外向=侠気”は、正名と狂言の均衡から突然変異的に生まれる余剰です。可逆的なズラしの往復だけでは収まりきらない力が溢れ出し、不可逆な逸脱として姿を現す。ここにこそ、文化を変容させる原動力が宿るのです。

 

では、この四層の枠組みを改めて整理してみましょう。

 

 正名(制度・秩序)

 社会を維持する規範、制度、法、名づけの力

 安定を与えるが、同時に可能性を閉じ込める枠組みでもある

 

 狂言(回収可能なズラし)

 ズラしにより制度を相対化するが、最終的には回収される逸脱

 滑稽さや寓意によって共同体に許容される“可逆的な越境”

 

 狂気(回収不能な逸脱)

 逸脱が常態化し、もはや制度に回収されない不可逆の状態

 ここには“内向の過剰”が働き、沈み込む力が自我や表現を狂わせる

 

 侠気(共同体を賭けた外的逸脱)

 制度に正面衝突し、自己破壊を伴いながら新しい秩序を開く
 “外向の過剰”が働き、共同体を巻き込むほどの押し出しが生じる

 

 この四層がどのように物語の中で具体化するのか。以下に三つの作品――リュック・ベッソン『レオン』、大河ドラマ『いのち』、そしてアルベール・カミュ『異邦人』――を通して見ていきましょう。

 


『レオン』(1994年 リュック・ベッソン)

 

正名(制度・秩序)

物語の背景にあるのは「警察権力」という法と秩序の装いです。しかしその象徴であるスタンフィールドは麻薬取引と暴力にまみれた腐敗警官であり、正名は既にねじれ、暴力を隠蔽する仕組みに変質しています。制度は存在しても、その正統性は完全に失われています。

 

狂言(回収可能なズラし)

レオンの日常は、殺し屋という裏稼業を淡々と続けつつ、観葉植物の世話や孤独なルーティンに身を置くものでした。彼は、制度と接触しないズラしの中で生き、暴力も裏社会の職能として秩序に回収可能な範囲に留まっています。これはまさに「狂言」的な逸脱であり、制度と共存可能なズラしでした。

 

狂気(回収不能な逸脱)

 しかしマチルダの家族が殺され、彼女を受け入れた瞬間、秩序の外縁は不可逆に裂けます。マチルダの「復讐」の誓いは子どもの純粋さと暴力の連鎖が直結する狂気そのものであり、レオン自身もまた、愛と未来を彼女に見出したことで、冷徹な“プロ”の枠を超え、死と引き換えにしか終われない狂気の道へ踏み込んでしまいます。観葉植物を「根のない自分」と重ねる偏執も、この狂気の徴候でした。

 

侠気(共同体を賭けた外的逸脱)

最終局面でレオンは、自らの命を賭けてマチルダを逃がします。「彼女を守る」という一心で腐敗した制度と衝突する姿は侠気の極であり、自己破壊と引き換えに未来世代を救済する外的実践でした。彼の死は無駄ではなく、「根を張れ」という言葉を残すことで新しい秩序をマチルダに託し、生命の流れを未来へと引き渡したのです。

 


『いのち』(1986年 大河ドラマ)

 

正名(制度・秩序)

この作品の背景には、日本社会に根付いた家制度と男尊女卑、さらに男性中心に組まれた医療制度が横たわっていました。女医は「母や妻の役割を果たせない」と糾弾され、現場でも周縁に押しやられます。正名は確かに存在していましたが、それは女性を名づけによって縛り、可能性を閉ざす装置として働いていました。

 

狂言(回収可能なズラし)

主人公の岩田未希は、正名に真正面から抗わず、折り合いをつけながら自分の道を切り拓こうとしました。ときに専業主婦として家庭に戻り周囲の理解を得たり、「女性だからこそできる寄り添い」を強調し、医師となって医療の場に居場所を作ったりする。その逸脱は制度に取り込まれ、最終的には“安全なズラし”に収まっていました。

 

狂気(回収不能な逸脱)

しかし愛する者を病で失ったとき、未希は「なぜ救えないのか」という問いに引き裂かれます。呵責の念は使命感を増大させ、家族や個人の幸福を犠牲にしても、医師として他者に尽くす生き方を選ぶようになる。その姿は回収されない狂気であり、使命と喪失が彼女の存在そのものを不可逆に変えていきました。

 

侠気(共同体を賭けた外的逸脱)

最終的に未希は、個人の幸福を犠牲にしても患者を救い、次世代の女性医師が働ける環境を開くために生を賭けます。制度に正面衝突し、自分を削りながらも未来に希望を残す姿は、力による支配や名誉を志向した伝統的な武士的侠気とは異なり、他者を支える関係を未来へ手渡すために自己を引き受ける「連帯の侠気」ともいうべきものでした。

 


『異邦人』(アルベール・カミュ)

 

正名(制度・秩序)

アルジェの地を覆っていたのは司法制度と宗教、そして「母の葬儀では涙を流すべきだ」といった社会通念でした。正名は人々に理性と道徳を押し付け、行動を裁定する基準となりますが、同時に存在の不条理を覆い隠す装置でもありました。

 

狂言(回収可能なズラし)

主人公ムルソーは母の死に涙を見せず、淡々と日常に身を任せました。その姿は奇人として扱われますが、社会の中で「変わり者」と片づけられる限りでは回収可能な逸脱であり、狂言の域にとどまっていました。

 

狂気(回収不能な逸脱)

しかし太陽の光に「押しつけられる」ようにアラブ人を射殺した瞬間、逸脱は不可逆に転落します。合理的説明を欠いた殺人は秩序に回収されず、ムルソーは「異邦人」として孤立します。裁判での弁明も周囲には理解されず、ここで逸脱は常態化し狂気へと固定されました。

 

侠気(共同体を賭けた外的逸脱)

死刑を目前にしたムルソーは、「世界の不条理を愛する」という覚悟に至ります。制度が押し付ける救済を拒絶し、不条理を全面的に肯定する決断は、秩序に対する正面衝突でした。それは制度を超えて人類的真理を引き受ける侠気の姿であり、彼は不条理を愛することで、共同体への新しい眼差しを残したのです。

 


 

 三つの物語に通底する四層の型 『レオン』は少女を未来に残すために命を賭ける侠気を描き、『いのち』は女性医師が制度に抗いながら未来世代へ道を拓く侠気を刻み、『異邦人』は存在の不条理を受け入れる侠気へと到達しました。舞台も時代も異なる三つの物語は、一見まったく別物に見えます。しかし「正名に縛られ、狂言でズラしを試み、狂気に沈み、最後に侠気で未来や真理を引き受ける」という四層構造を共有しています。前者二つは「共同体を守る侠気」を、後者は「存在そのものを肯定する侠気」を描き出し、異なる文脈に同じ普遍的な型を宿しているのです。

 

侠気は狂気の「編集者」である

 

 第38回で決定的に描かれたのは、歌麿の狂気と蔦重の侠気が、師の不在を背に交差する瞬間でした。蔦重が「お前は鬼の子なんだ。生き残って命を描くんだ」と叫んだとき、その言葉は優しさではなく切断の刃として機能しました。狂気は調停では止められない。だからこそ残酷な言葉が必要だったのです。ここでの切断は、正名と狂言という先師の面影を背後に抱え込むことで初めて成立した「痛みを伴う救済」でした。

 

 通常であれば、物語は一人の主人公の内面で進行します。秩序から逸脱し、狂気に沈み、最後に侠気へと至る――そうした段階的な成長譚に回収されるのが常です。しかし第38回はそれを意図的に分割しました。歌麿は狂気に沈み、蔦重は侠気を引き受けて切断する。狂気と侠気が連続する力ではなく、二人の外部的な関係として可視化されたことで、両者がまったく異質のベクトルであることが示されたのです。狂気は内向的に沈潜し、幻想の裂け目に没入する力であり、侠気は外向的に共同体を背負い、制度に正面から挑む力です。両者は同じ線上に並ぶものではなく、交錯し、時に切断し合う別次元の運動でした。

 

 この分有を可能にしたのは、師の不在が「面影」として残響していたからにほかなりません。石燕の狂言は歌麿の内部に発酵し、田沼の正名は蔦重の背後に幽霊のように漂っていた。もし師が生きて弟子を導いていたならば、この二人の逸脱は一つの成長譚に収束したでしょう。死が伏せられたからこそ、面影は強烈に作用し、二人をそれぞれ別の不可逆な地点へ押し出したのです。

 

 ここで明白となるのは、狂気そのものに限界があるということです。歌麿の狂気は、死をも生へと反転させるほどの強度を帯びていますが、その力は同時に彼を俗世の回路から切り離し、「彼岸に属する者」へと押しやる危うさを孕んでいました。このままでは彼の創作は、共同体に何ひとつ手渡されぬまま、内側で燃え尽きる運命にあったはずです。

 

 芸術の狂気を孤絶から救い、共同体の文化へと翻訳するには、外部からのもう一つの原理が必要です。それが侠気です。侠気は狂気の「編集者」として働き、破壊へ傾く過剰な衝動を生の側へと繋ぎ止め、歴史へ回路を開く媒介となります。 歌麿の狂気が一過性の発火で終わらず、画作として後世に遺る形式へと結実したのは、蔦屋重三郎の侠気が介入したからにほかなりません。死と結びつき、内側に閉ざされたまま“死の胎児”と化しつつあった歌麿の創造は、蔦重の手によってその見えざる臍の緒を断ち切られ、生の世界へ引き戻されたのです。すなわち侠気とは、狂気を救済し、その成果が他者へと手渡される回路を開くための機能であり、孤絶した表現に対し「受け止め、つなぎ返す」ことによって生まれる関係の実践でもあったのです。

 

 そして、この分有構造は、第38回の主題を析出させます。奉行所へ山のような草稿を積み上げる蔦重と、きよの腐敗していく顔を描き続ける歌麿。二人はいずれも、圧倒的な執念と物量によって「どうにもならないもの」に抗おうとした点で共通しています。しかし、そのどちらか一方だけでは回路は閉じたままです。狂気だけでは死の内部へ沈み、侠気だけでは制度を破壊するだけで終わってしまう。文化を支える回路は、二つの力が分担され、交錯し、互いの行き場を失った力をいったん切断して再配置するときにはじめて開かれるのです。

 

 第38回は、狂気と侠気をあえて一人の主人公に収めず、二人に分与することで、文化生成の「閃光の瞬間」を際立たせました。師の面影に導かれた二つの過剰が交わるとき、「生きた芸術」と「動く制度」が同時に立ち上がる。文化とは、正名と狂言の循環だけでは生まれない。狂気と侠気という不可逆の逸脱が、不在の力を媒介に交錯したときにこそ、歴史を揺るがす創造が生まれる――第38回はその事実を極限のドラマで提示していたのです。

 


べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十七
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十六(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十六

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十一

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十九

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十七

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十六

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十五

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十四

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十二

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十一

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十(番外編)

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十九

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十六

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十五

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十二(番外編)

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十二

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十一
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その九

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

  • 大河ばっか組!

    多読で楽しむ「大河ばっか!」は大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブ。物語好きな筆司たちが「組!」になって、大河ドラマの「今」を追いかけます。

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十七

    お腹の調子が悪ければヨーグルト。善玉菌のカタマリだから。健康診断に行ったら悪玉コレステロールの値が上がっちゃって。…なんて、善玉・悪玉の語源がここにあったのですね、の京伝先生作「心学早染艸(しんがくはやそめくさ)」。で […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十六(番外編)

    春町が隠れた。制度に追い詰められ命を絶ったその最期は、同時に「泣き笑い」という境地への身振りでもあった。悲しみと滑稽を抱き合わせ、死を個に閉じず共同体へ差し渡す。その余白こそ、日本文学が呼吸を取り戻す原点となった。私た […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十六

    「酷暑」という新しい気象用語が生まれそうな程暑かった夏も終わり、ようやく朝晩、過ごしやすくなり、秋空には鰯雲。それにあわせるかのように、彼らの熱い時もまた終わりに向かっているのでしょうか。あの人が、あの人らしく、舞台を […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十五

    「…違います」「…ものすごく違います」というナレーションが笑いを誘った冒頭。しかし、物事すべてを自分に都合のよいように解釈する人っているものですね。そういう人を「おめでたい」というのですよ、と褌野郎、もとい定信様に言い […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十四

    正しさは人を支える力であると同時に、人を切り捨てる刃にもなる。その矛盾は歴史を通じて繰り返され、社会は欲望と規制の往復のなかで生かされも殺されもしてきた。螺旋するその呼吸をいかに編集し、いかにズラすか――そこにこそ、不 […]