「編集を人生する」に向かえ
「人生を編集する」と「編集を人生する」。「この違いは何でしょうか」と50[守]師範代に問いかけたのは阿曽祐子師範だ。情報を集める用法1、集めた情報が関係を含むということを学ぶ用法2に続き、いよいよ情報に構造を与えていく用法3。12月初旬、50[守]第2回伝習座では、阿曽師範が用法3の解説を担当した。
まず解き明かされたのは、生命の歴史に遡る、構造と情報の関係だ。私たち人類は、生物という構造をもって生物になったのではなく、DNAや遺伝子という情報が先にあり、それを守るための生体膜があって生物になった。しかし私たちは組織化されたり、関係付けされたりした既存の構造ありきで物事を捉えているのではないか。構造を変えたいという動きを阻むものは何か。それは既存のルル三条の縛りだ。
では、その既存のルル三条の制約をどのように解き放つことができるのか。阿曽師範は、最新の千夜千冊エディション『戒・浄土・禅』を手にし、仏教の求道者たちが挑戦した編集的実験例を示す。例えば仏教の中にある3A:Affordance(アフォーダンス:接知力)、Analogy(アナロジー:連想)、Abduction(アブダクション:仮説力)だ。お寺に行くと線香の香りや、薄暗い本堂が「手をあわせる」という行動をアフォードする。蓮の花の上にある仏像に、煩悩という泥の中から花を咲かせるというアナロジーが働く。極楽浄土に蓮の花が咲くというアブダクションに導かれる。
千夜千冊1802夜 末木文美士『日本仏教入門』では、「顕」というこの世と、死者や神仏がいる「冥」という2つの世界があると語られている。「冥」の世界を感じることにより、この世の秩序=既存のルル三条を違う見方で見ることができるようになるのだ。既存のルル三条に縛られているということさえも気づかない私たちが、前に進む力を得るための新たな見方を獲得するということに他ならない。
また「心の数寄たる」を仏道に求めた明恵上人を例に出し、数寄こそが、既存のルル三条を打ち破るものであり、だからこそ学衆と数寄、あるいはおさなごころについて語りあってほしいと言う。
編集的世界観のおおもとを伝える
用法3では前半で略図的原型を、後半で手続き編集を学ぶ。略図的原型を学ぶことで、既存の規範から脱して、歴史・文化・生命のおおもとに遡り編集をしなおすことができるのだ。遡る中で新しい世界に向けた分岐点を見つけたら、そこが編集をしなおす契機となる。
手続き編集は、まさに師範代が必要とするものだ。師範代は、すべてを自分一人で作り上げていくのではない。先達の師範/師範代が積み重ねてきたお題の解釈、指南例、教室や勧学会運営の様々な先例を参考にすることができる。ISIS編集学校のおおもとに遡り、そこに師範代自身で新たな世界に向かう分岐点を見つけ、編集をかけていく。再編集をしながら、教室におけるシーンをつなぎ、物語にしていくことで世界のどこにもない教室を作りあげることができるのだ。単にお題-回答-指南を繰り返すだけではなく、その奥に
ある編集的世界観をどう伝えていくか、そのための手続き編集を進めることが、師範代には求められている。
では、冒頭の問いに戻ろう。
「人生を編集する」、これは既存のルル三条の中で、あるいは既存の人生の中で編集をするということを表す。しかし「編集を人生する」、これは既存のルル三条ではないところに立つということだ。
大乗戒を確立した最澄、二度も流罪になりながらも法華経を貫き通した日蓮のように、既存のルル三条を変えようと戦う姿勢、普通ではないダンドリを学ぶべき。阿曽師範は、本楼の、そしてオンライン越しの師範代に、そう語りかけた。
「近江から日本が変わる」を標榜する「近江ARS」プロジェクト。まこと、その近江の地に住む阿曽師範ならではの用法解説となった。
相部礼子
編集的先達:塩野七生。物語師範、錬成師範、共読ナビゲーターとロールを連ね、趣味は仲間と連句のスーパーエディター。いつか十二単を着せたい風情の師範。日常は朝のベッドメイキングと本棚整理。野望は杉村楚人冠の伝記出版。
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