【三冊筋プレス】ツイッター朱子学(金宗代)

2021/06/03(木)15:28
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(1)小川未明「戦争」

同情とか、同感とか言ひますけれど、それは不可能なことを強ひるものです。その場合、同じやうにその事実を経験しないものに、どうして、同じ心が分かりませう。苦痛や煩悶が分かりませうーーーこれは一九一八(大正七)年一月、雑誌『科学と文芸』に発表された小川未明の短編小説「戦争」の一節だ。

 


(2)愛児喪失の悲痛と世界大戦の悲惨

未明は一九一四年一二月に長男の哲文を疫痢で亡くしている。六歳だった。「戦争」とは第一次世界大戦のことで、この小説では「愛児喪失の悲痛」と「世界大戦の悲惨」を重ねている。幼な子の死というものは、まこと戦争や災害に匹敵する、悪夢のような体験なのではないかと思う。

 

 

(3)[AIDA] 未完のファシズム

未明の「戦争」は片山杜秀『未完のファシズム 「持たざる国」日本の運命』(新潮社)で知った。片山さんは、二〇二一年二月一三日に編集工学研究所で開催されたHyper-Editing Platform[AIDA]第五講のゲスト講師。テーマは「水戸学」。「持たざる水戸藩」の運命を一気呵成に喋りまくっていた。

 

 

(4)面白すぎる片山杜秀

「片山さん、面白すぎる」とセイゴオ校長も絶賛の編集芸人ぶりに感銘を受けて、三冊筋のテーマを「水戸学」に決めた。ぼくはつくば出身で、古里の山、里山は筑波山だ。その筑波山で北畠親房が『神皇正統記』を書き、のちには天狗党が旗揚げしたことがずっと気になってもいた。

 

 

(5)宮沢賢治『春と修羅』「青森挽歌」

けれどもとし子の死んだことならば
いまわたくしがそれを夢でないと考へて
あたらしくぎくつとしなければならないほどの
あんまりひどいげんじつなのだ
感ずることのあまり新鮮にすぎるとき
それをがいねん化することは
きちがひにならないための
生物体の一つの自衛作用だけれども
いつでもまもつてばかりゐてはいけない

 

 

(6)「きちがひにならないため」に

ほんたうにあいつはここの感官をうしなつたのち
あらたにどんなからだを得
どんな感官をかんじただらう
なんべんこれをかんがへたことか

 

と賢治の「青森挽歌」は続く。「きちがひにならないため」には「がいねん」だ。急に「がいねん」を貪りたくなった。水戸学を振り切って、やっぱり朱子(学)と問答することにした。

 

 

(7)『朱子学と陽明学』三部作

朱子学の入門書には島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)、小島毅『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)、小倉紀蔵『入門 朱子学と陽明学』(ちくま新書)と珍しく同名の新書・文庫が三冊もある。朱子学と陽明学はイッツイが基本だ。陽は朱のイッパ。鳥の目で見れば、どちらも儒学のイッパッパ。

 

 

(8)イシスの「伝習座」

朱子の『朱子語類』に比べて王陽明『伝習録』は格段によく知られている。ちなみにイシス編集学校では、師範や師範代が集って学衆に示すべき指南の方法をめぐる場を「伝習座」とよんでいるのだが、これは陽明学とは関係がない。もっとずっと語源をさかのぼって、「伝へて習はざるか」から採られた。

 

 

(9)編集工学の「らしさ」

朱子という人物は毀誉褒貶は多いが、実のところ、この男のように儒教の全思想を大胆に体系化することを試みて、それを完成させた者はいない。その体系が全思想史そのものであり、それと同時に朱子個人の思想でもあるという稀有な思考の実現者である。松岡正剛の編集工学を思い浮かべた。

 

 

(10)四書五経のパッケージ

儒者といえば、孔子と孟子。孔孟の教えだ。四書五経だ。この儒教のスタンダードをつくったのが朱子学だ。当時、忘れられた思想家とされていた孟子を再評価し、『論語』に『孟子』を加え、『礼記』から『大学』と『中庸』を独立させて、朱子(朱熹、1130-1200)が四書をパッケージ化した。

 

 

(11)朱子のメディエーション

朱子はメディエーションにすこぶる長じていた。世界ではじめて自覚的に出版を武器にした編集思想家である。「活版印刷なくして宗教革命なし」と言われるように「木版印刷無くして朱子学なし」。生涯に三〇種以上の本の編集・出版に携わった。このあたりのハナシは小島本に詳しい。

 

 

(12)たくさんの朱子学

朱子学とは新儒教。ネオ儒学だ。宋代に形成されたため宋学とも言われる。また、聖人の「道統」(≒正統)を継承することを自認して道学とも言われる。人間の本質たる「性」と万有の根本原理である「理」をメインコンセプトとしているから性理学とも言われるし、たんに理学ということもある。

 

 

(13)1400年の暗黒時代

朱子学者は、孟子が忘却されていた1400年を暗黒の時代と捉える。仏教や道教などの(儒教から見れば)異端が栄えて「道統」が廃れていたとみる。そのくらい、儒教はずっと下火だった。そこでドンデン返しを起こそうと企てたのが宋学であり、道学だった。朱子はそれを継承し、集大成した。編集成した。

 

 

(14)タルホも「述べてつくらず」

朱子の登場は東アジアの世界史的事件だった。前衛的ではあったけれど、朱子はなにも奇抜な理論をひっさげて現れたわけではない。周濂渓の「太極図説」、程明道・程伊川兄弟の「性即理」、張横渠の気の哲学といった宋学の先達に習って、ひたすら『論語』や『孟子』の注釈を作り続けた。えっタルホじゃん。

 


(15)十二世紀のルネサンス

十二世紀のルネサンスという言葉がある。英雄譚や騎士道精神が成立し、アベラールやエロイーズのような大恋愛が登場し、ヨーロッパのアイデンティが確立した。チャイニーズ・ルネサンスという言葉があるとすれば、朱子学の成立がそれにあたるのではないだろうか。禅の『碧巌録』もこの頃に完成した。

 


(16)唐宋変革

唐と宋のあいだに大きな時代変革が起きたとみる歴史観がある。内藤湖南の提唱した「唐宋変革」だ。『大蔵経』や『道蔵』を刊行する出版大事業、中国三大発明の火薬・羅針盤・活版印刷も唐末宋初のこと。唐の貴族が没落し、科挙制度が再開されて、科挙官僚の士大夫がいちやく政治文化の主役に踊りでる。


(17)ルネサンスの朱子・バロックの王陽明

朱子は法然の三つ年上のお兄さんで、没年に道元が生まれた。鎌倉仏教の勃興と朱子学の成立は同時進行した。「ルネサンスの利休・バロックの織部」に擬えて、「ルネサンスの朱子」に対して「バロックの王陽明」といったら言い過ぎ? この二つが同時に入ってきた日本では朱王折衷がふつうだった。

 

 

(18)あるがまま陽明学・あるべき朱子学

朱子学が「あるべき」をターゲット(T)に求めたのに対して陽明学は「あるがまま」を肯定した。というよりそもそも「あるがまま」即「あるべき」がベース(B)だと言ってのけた。それゆえに逸脱もはびこった。そんなふうに「ゆがみ」や「ひずみ」も辞さない構えにバロック味がなくもない?

 


(19)陽明学のB・P・T

明の王陽明(王守仁、1472-1528/29)はコペルニクスの一つ年上、トマス・モアより五つ六つお兄さんだ。さらにダ・ヴィンチグーテンベルグ、マキアヴェッリ、ルターら同時代人である。繰り返しになるけれど、朱子学を本末転倒したのが陽明学だ。反朱子学だが、朱子のことは尊敬していた。

 


(20)朱子学ルル三条

朱子学ルル三条のうち、ロールとツールは科挙制度が用意した。ロールは「士大夫」であり、ツールは科挙試験の最重要科目である「儒教の経典」だ。これはのちに朱子が「四書五経」のパッケージをつくる。では、ルールは何か。「気と理」による「個人(≒心)の覚醒」である。これは仏教がもたらした。

 


(21)江戸儒学のキホン

江戸徳川は朱子学を公認しながらも科挙は引き算した。当時の日本の支配階層が武士だったからだ。本来、儒教は社会の中で指導的な立場に立つ士大夫というロールを前提とした学問であり、「文」を崇め、「武」を蔑視する。かつ、繰り返しになるけれど、日本には朱子学と陽明学が同時に入ってきた。

 


(22)仏教なくして朱子学なし

仏教なくして朱子学なし。朱子の時代、すでに日本で鎌倉仏教が隆盛していたことからも分かるとおり、宋でもとっくに禅ブームが巻き起こっていた。が、陽儒陰仏。儒教は下火。士大夫たちも表向きは廃仏を唱えながら、裏ではひっそりと禅にひたった。みんな「心」のモンダイに悩んでいた。

 

 

(23)漢族ナショナリズム

外圧は仏教だけではなかった。宋は国初から遼(契丹)に攻められ、同盟を組んでともに遼を滅した金(女真)に今度は攻めれられ、ついに北宋は滅亡した。南宋にいたっても金の脅威は続き、さらに金を滅したモンゴル帝国の圧力に苦しんだ。だからこそ、宋の正当性を主張するために朱子学が必要だった。

 


(24)朱子学のフラジャイル

朱子学の内なるナショナリズムは水戸学に多大な影響をもたらした。ただし、朱子学にはユニバーサリズムな面もある。それゆえに元も清も朝鮮も日本もこれに感染した。朱子自身、幼くして父を亡くすという大きな喪失を経験している。そうしたフラジリティが繊細でスコラティックな知の体系を結晶化した。

 


(25)「文化」を「文明」と誤読する

中華思想は孔子が意図的に「文化」を「文明」と誤読したことに始まる。周という一地方の特殊な文化を、普遍的な文明とあえて誤読したのである。文化を文明と思い込むこの意図的誤読によって勢力を拡大した。多分にもれず、西洋のキリスト教、中東のイスラーム、現代のアメリカもその典型だ。

 


(26)愛ってなんだ

血のつながりを基本にする儒教の「愛」はすべてに対して平等ではなく、相手が自分にとって親しいか親しくないかによって差がある、「差等(愛)」という考え方である。これに対して墨家は「兼愛」をもって対抗した。そして、孔子から孟子への転換を一言で言うと「愛から道徳へ」だった。

 


(27)孟子の攻撃性

ちなみに孟子という思想家は、諸国をわたり歩きながら他の思想集団に難癖をつけまわり、しまいには自分だけが宇宙全体の道徳エネルギーと合体している巨人だと自己規定し、自分の意見にしたがわない思想集団をすべて完膚なきまでに叩きつぶそうとした。この道徳的攻撃性は、宋学に引き継がれた。

 


(28)ごりごりリゴリズム

小倉紀蔵は「朱子の思想の根底には、ニヒリズムがある」という。そもそも楽天的な儒教には仏教のような「苦」の賛美というものはない。が、朱子は王陽明のように「心」をそのまま「理」にすること(心即理)には慎重だった(性即理)。ごりごりのリゴリズムにはインド的なニヒリズムが背景にある?

 


(29)ブッダと聖人

誰でもブッダになれると説く仏教の「悉皆成仏」にならって、朱子学は「聖人学んで到るべし」を掲げた。誰でも「聖人」になれる。そして、仏教の「空」、道教の「無」に対して「有」の思想を持ちだした。何が「有」るのかといえば、「気」があるのである。「心」も「気」と「理」でできてる。

 


(30)わける朱子学・わけない陽明学

陽明学がなるべく「わけない」のに対して、朱子学は「わける」。朱子学は「理学」とも言われるように「理」を重んじる。「理」とは「気」のアーティキュレーション(分節化)だ。朱子は「心」を「性」と「情」にわけて、「性即理」とした。だが、陽明は「心」をわけないで「心即理」であるといった。

 


(31)朱子の「美」・陽明の「狂」

朱子は「美」の人である。理と気のバランスの美を重んじた。王陽明には「竹の理を窮める」という有名なエピソードがあるが、これは明らかに朱子の美の思想を誤読している。というか、この誤読が当時の朱子学の一般的な理解の仕方だった。こうして王陽明は一途に「狂」の思想に傾いていく。

 


(32)知行合一

「狂」とは一つになることだ。そのためには乱調でもいい。美を捨てることができる。朱子学の先知後行を批判し、「知行合一」を掲げ、「万物一体の仁」を強調した。王陽明の「知」は「良知」。つまり、良心。「あるがまま」の良知(良心)を体現する人間をそのまま尊敬したいという強烈な意志がある。

 


(33)中国を視ること一人のごとく

狂の極地は李卓吾の「三教一致」。儒へのこだわりすら捨てる。「万物一体の仁」がレベルアップすると「大同」に進化する。王陽明の「天下を視ること一家のごとく、中国を視ること一人のごとく」は、のちに共産主義的ユートピア思想として清末の改革主義者・康有為や革命家・孫文に継承された。

 


(34)竹の理を窮める

若い頃、王陽明は朱子学を実践するために「竹の理」を窮めることに挑戦した。竹の前に座って七日七晩、竹の理を思索し尽くそうとした。だが神経をすり減らし、アタマがおかしくなりかけた。「朱子学なんて机上の空論じゃないか。こんなの実践できるはずがない!」とこの経験から朱子学を疑うようになった。

 


(35)どれだけ切実に知っているのか

王陽明は朱子学の「格物致知」を実践しようとした。だが、「致知」を誤読している。「致知」の「致す」とは、例えば熊に襲われたことのある人が熊の恐ろしさを身をもって知っているようにどれだけ実感的に知るか。どれだけ切実に知っているのかということ。無論やたらに情報を収集することでもない。

 


(36)儒の編集八段錦

『大学』という書物の内容は、「格物」「致知」「 誠意」「正心」「修身」「斉家」「治国」「平天下」の八条目に集約される。これをどう読むか。朱子は「格物」「致知」を強調し、「格物」を「窮理」と解釈した。いっぽう、王陽明は「誠意」を強調し、「致知」の「知」を「良知」と解釈した。

 


(37)ついに、モーラ神降臨…?

格物致知は一つ一つの物の理を漸進的に考究すること。格を「至る」と読み、「尽くす」ということが肝心なんだと朱子は伝えた。多様な理を蓄積していって、あるとき突然すべてを統合する一つの理を把握することを豁然貫通(かつぜんかんつう)という。ようするに、モーラ神降臨ってこと…?

 


(38)ハッと悟る。パッと覚る。そんな感じ。

とはいえ、格物窮理は真理を理性的に無限に追求し続けることではない。ターゲットは心の実感である。意外かもしれないが、格物窮理は心の実感を何よりも大切にしている。腑におちて安心すること。このゴールが豁然貫通だ。ハッと悟る。パッと覚る。そんな感じ。無限の追求に歯止めをかけるのが「敬」。

 


(39)小学と大学

四書はもともと読む順番が決まっていた。『大学』『論語』『孟子』『中庸』と読む。児童向けのテキスト『小学』(朱熹、劉子澄 編)もある。小学ではまずは形から。模倣と習慣化を優先し、その行為の意味や意義はいずれ大人(15歳以上)になってから考えればいい。で、何を学ぶのかといえば「敬」を学ぶ。

 


(40)「敬」という方法

「敬」とは敬うべき人物や粗相の許されない大切な場面に直面したときのあの緊張感を日常のあらゆる場面において意識的に保つことである。つまり「平時」の中に「有事」を作るということだ。話を先取りすると「未発(の性)」と「已発(の情)」を一貫する方法として朱子が見出したのが「敬」である。


(41)イッツイ相即

「理」と「気」、「格物窮理」と「敬」など朱子学の一対のバランスの美とは、言い換えれば「相即」の美であり、「二重性」の美である。一見バラバラに見えるものも実は背後では一つであり、たとえ一時的に見えるものも実は永遠である。相対的に見えるものも、実は絶対的である。と、こう考える。

 


(42)司馬サンと丸山サン

格物窮理を「内面を置き忘れた知識偏重」と捉え、敬を「封建的な身分制度」と捉えれば大きな誤読になる。木下鉄矢『朱子 <はたらき>と<つとめ>の哲学』(岩波書店)では、こういう風評をばらまいた犯人として司馬遼太郎丸山眞男を名指しで強く批判している。

 


(43)水戸学者・三島由紀夫

陽明学の誤解をばらまいた有名人といえば三島由紀夫。先述のAIDAで片山さんはむしろ三島は水戸学者ではないかと言っていた。水戸藩支藩の常陸宍戸藩主・松平頼位は三島の高祖父にあたる。その孫の平岡なつは三島の祖母で、おばあちゃん子だった彼に大きな影響を与えたという。

 


(44)◯理学

心理学、物理学、生理学、病理学…なぜ多くの学問は「◯理学」と翻訳されたのか。明治日本が西洋の学問を輸入するとき、それに最も近しく感じられたのが「理学」としての朱子学だった。あらゆる物事には「理」があり、それを理解し説明しうるという朱子学の前提は今なお無自覚に継承されている。

 


(45)受験生の皆さんへ(注意)

「小学」校も「大学」も、「◯理学」という名のつく学問も、それから実は「勉強」も、みんなが大キライな言葉たちは儒学のネーミング編集に肖っている。四書の『中庸』の第二十章で「勉強」という言葉は「人間の持つ無限の可能性に対する壮大な賛辞」として使われている。受験生の皆さん、お疲れ様!

 

 

(46)或いは「勉強」して之を行う

『中庸』第二十章の「勉強」の該当箇所を読んでみよう。「或いは生まれながにして之を知り、或いは学んで之を知り、或いは苦しんで之を知る。其の之を知るに及んで一なり。或いは安んじて之を行い、或いは利して之を行い、或いは勉強して之を行う。其の功を成すに及んでは一なり」。

 


(47)読み方サイエンス

中国でも格物窮理の伝統は西洋天文学を呼び込む土壌となった。日本から「科学」という用語が輸入されるまでサイエンス[science]の訳語が「格致」だったことが象徴的。また一方で朱子学はライプニッツやヴォルフなどの西洋の思想家に好まれ、影響を与えた。井川義次『宋学の西遷』(人文書院)に詳しい。

 

 

(48)朱子学の振り返り

おさらいすると、あらゆる物事は「気」の連なり(ネクサク)であり、そこには必ず「理」があり、理を分節化(アーティキュレーション)することで「物」を生み出している。物を見るとは理を見ることにほかならない。人の「心」は理を知ることができる。それを知ることによって人の心は安定する。

 

 

(49)儒のオーガニズム

「気」というと道教っぽい。老荘タオっぽい。朱子学が掲げる太極図も道教由来というのが定説だった。ところが最近の研究ではむしろ道教側が朱子学によって権威づけられた太極図を模倣したことが明らかになった。儒教に対する誤解や偏見は少なくないが、こういう儒のオーガニズムが最も忘れられている。

 


(50)ドラゴンボールの「気」

ぼくがはじめて「気」という概念を知ったのは『ドラゴンボールZ』だった。六歳くらいだったと思う。「かめはめ波」をはじめ悟空たちが繰り出す必殺技は「気」をコントロール(理)することでその威力を発揮する。「オラもっと強くなりてぇ」と修行しまくるのは「聖人学んで到るべし」の精神?

 

 

(51)朱子学化するサブカルチャー

朱子学では聖人に到るための修養の方法を「工夫(カンフー)」という。あのカンフー映画の「カンフー」である。「燃えよドラゴン」も「ドラゴンボール」も実はサブカルチャーの仮面を覆った朱子学ブームだったのかもしれない。一方、「あるがまま」を認めてほしいと願う現在のサブカルは陽明学っぽい。

 

 

(52)朱子学のB・P・T

朱子が心の「あるがまま」をそのまま肯定しなかった。「性」と「情」に分けて、心が動く前の「性」が「あるべき」理想だといった。「情」は現実化した心の動きのことで欲によって乱される。朱子学とは、この「情の自覚」と「性の確信」のB・P・Tだ。「性の確信」は孟子の「性善説」にもとづく。

 

 

(53)ラディカルな性善説

「性善説」というのは世間で言われているような「人はもともと善いひとだ」ふうの甘っちょろい考えではない。宇宙の根本原理たる「理」が人間には「性」として絶対に備わっているという確信にもとづいて、それなら理を窮め、人間改造に努めれば、社会を変革しうるというラディカルな思想である。

 

 

(54)たとえば惻隠の情

なぜ「性」が「善」であると言えるのか。それは人には四つの「情」が備わっているからだ。惻隠の情、羞悪の情、辞譲の情、是非の情。これを「四端」という。たとえば、歩くのもやっとの赤ちゃんが井戸に落ちそうになっている。それを見て見ぬふりできる人なんているだろうか。これが惻隠の情。

 

 

(55)未発と已発(いはつ)

心が動く前の静的な状態を「未発」、心が動いた後の動的な状態を「已発(いはつ)」という。それぞれ「未発」は「性」、「已発」は「情」に対応する。そして「未発の性」が「已発の情」として現実にあらわれてくる。それぞれ工夫の方法がちがう。未発の工夫は「戒慎」、已発の工夫は「慎独」だ。

 

 

(56) 自分を欺かないようにしなさい

「戒慎」とは心をピンと張りつめて、戒め、慎み、おそれをもつこと。「慎独」は独りを慎む。人欲が起こる芽生え始めるその瞬間、その機(とき)を逃さずとらえて正しく方向づけること。話は飛ぶけれど、江戸の池田草庵は「慎独」を読書の方法に読み替えた。 自分を欺かないようにしなさいというものだ。

 

 

(57)読書人の哲学

飛んだついでに読書のハナシ。朱子学が士大夫というロールのための思想だったことは書いたけれど、実は士大夫の第一条件が「読書人」であるということだった。読書主義者でなくてはならなかった。朱子学とは、読むことによって聖人を志すことができると考える読書人の哲学なのである。

 

 

(58)読書という宇宙快感

士大夫たちは、経書を読むことによってそこに書かれた「理」と合体し、宇宙の普遍敵原理と一体化しようとする。読む肉体、読む行為、書物、文字などはすべて「気」である。朱子学的支配者は、四書五経に通じて超越的な「宇宙快感」を内在化し、そのパワーをもって村や国家を統御しようとする。

 

 

(59)多読のヒント 測読?

朱子学や陽明学の学習者は、儒家たちの文章を読んでいてあるキーワード、ホットワードに出会ったとき、たとえば「格物」という言葉が出てきたときに、次にどんな言葉が書かれているかの瞬時に予測できるように訓練をしておくことが求められる。こういう「読み」をどう名付ければいいだろうか。測読?

 

 

(60)チューシャクに注意

儒学の学ぶ者たちは注釈を熱心に読んだ。古典といえば原書を読む原典主義が今は主流であるかもしれないけれど、儒者にしてみれば、注釈を読まずして決して『論語』や『孟子』などの真の面白さを味読することはできない。だからこそ、朱子はひたすら注釈を書きまくった。

 

 

(61)アンチ書斎立てこもり主義

王陽明は「講学」を重んじた。書斎立てこもり主義への反対表明だ。「朋友」を重視した。共読やブックウェアと言い換えてもいい。民衆と交わること自体がみずからの修養になると考える陽明学の「親民」の思想である。対して朱子学は「新民」だ。民を新たにする。ちょっと上から目線な感じ…。

 

 

(62)先憂後楽

士大夫の気分というものをよくあらわしている四字熟語がある。先憂後楽。天下の憂いに先立ちて憂え、天下の楽しみに遅れて楽しむ。水戸光圀がこれにちなんで名付けた庭園があの後楽園だ。士大夫な気分といえば、もう一つ。「万世の為に太平を開く」。そう、玉音放送に引用されたあまりにも有名な一節だ。

 

 

(63)万世の為に太平を開く

玉音放送の「堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す」は、「天地の為に心を立て、生民の為に命を立て、往聖の為に絶学を継ぎ、万世の為に太平を開く」から引用された。これは宋初の碩学・張横渠の格言であり、朱子学者の雄壮な根本思想をよくあらわしている。

 

 

(64)朝鮮朱子学の皮肉

明治期に話を戻すと「教育勅語」をつくった井上毅も元田永孚も熊本の藩校に学んだ儒者だった。熊本といえば、横井小楠がいる。朝鮮朱子学の李滉を最高の儒者と考える熊本実学派だ。李滉を尊敬して学んだ日本の儒者たちがのちに併合植民地の朝鮮を支配する推進力になったことを考えるとまことに皮肉だ。

 

 

(65)「偽学」から「官学」へ

朱子学は朱子の死の直前に「偽学」というレッテルを貼られて弾圧されたが、元の時代には官学となってその後二十世紀まで東アジアをほぼ支配したといっていい。特に朝鮮は十四世紀終わりから二十世紀初めという長期にわたって、ほとんど朱子学一辺倒となり、十六世紀に李滉と李珥の二大学者を輩出した。

 

 

(66)江戸の儒学者たち

江戸初期のいわゆる朱子学派たち、藤原惺窩、その門人の林羅山神儒一致の垂加神道を提唱した山崎闇斎らが学んだ儒学が李滉の系譜を引く朝鮮朱子学だった。明の朱舜水を招聘した水戸藩には水戸学が芽生え、一方、陽明学派の方は、内村鑑三が絶賛した近江聖人・中江藤樹、その弟子の熊沢蕃山がいる。

 

 

(67)仁斎・徂徠・宣長

反朱子学の系譜もある。闇斎の自宅のすぐそばで伊藤仁斎が私塾の古義堂を開いた。理と敬の思想を批判し、独自に仁愛の思想を説いた。その仁斎をいっぽうでは批判しつつ、大いに影響を受けて独自に古文辞学を提唱したのが荻生徂徠その仁斎・徂徠を本居宣長がしっかり受けとめて、しっかり批判する

 

 

(68)晴天を衝け

日本陽明学は大塩平八郎の「殺身成仁」から絶賛放映中の大河ドラマ『青天を衝け』のごとき幕末志士のテロリズム、昭和初期の青年将校たち、そして三島由紀夫にいたるまで危険思想や革命哲学と見られることが少なくない。他方、高杉晋作、内村鑑三、新渡戸稲造らクリスチャンも陽明学を掲げた。

 

 

(69)南北朝のポストモダン

北畠親房『神皇正統記』にすでに朱子学摂取の痕跡がみとめられるという。おそらく世界最先端の思想、ポストモダン思想のようなかたちで当時、日本に流入していたのを北畠も齧ったのだろう。室町時代あたりには京都五山の禅僧が中心となって朱子学の学習が進んでいたらしい。

 

 

(70)知発する薩摩・土佐・周防

応仁の乱をきっかけに地方に拡散していく。特に薩摩(鹿児島)と土佐(高知)、また日明貿易を取り仕切っていた周防(山口)で儒教文化が育まれた。これらがのちに幕末の倒幕運動の中心をになった地域であるのは単なる偶然ではないだろう。日本儒学について、そのほか詳しくは千夜千冊でどうぞ。

 

 

(71)九天必見の九大派

また一気に飛んで、現代の日本の朱子学・陽明学の研究には大きく九州大学、京都大学、名古屋大学、東京大学という四つの学派学風がある。もっともラディカルにその思想を生きるという構えで取り組んだのが九大派で、楠本正継、岡田武彦、荒木見悟がよく知られている。韓国でも親しまれているらしい。

 

 

(72)名大派と東大派

名古屋には山下龍二、大濱晧、守本純一郎がいる。東大派は戦前の井上哲次郎、戦後は丸山眞男がおり、さらに中公クラシックス『伝習座』の翻訳者・溝口雄三、中島隆博、そして小島毅というように儒学研究のスタンダードを打ち立ててきた。

 

 

(73)丸山説 VS 島田説

先述のとおり、かつて丸山眞男は朱子学が旧体制を護持する思想であると評価し、この見解が日本政治思想史の文脈で固定した。それに対して、この三冊筋でも取り上げている島田虔次は丸山説とは独立に、朱子学から陽明学への展開過程全体を中国の「近世」と捉えた。

 

 

(74)コナンから京都学派へ

これも先述したとおり、中国史に「近世」という時代区分を設けることを本格的に提唱したのは内藤湖南だ。湖南といえば東洋史学の京都学派だが、朱子学・陽明学では島田虔次、山田慶児、三浦國雄、木下鉄矢、安田二郎である。小倉紀蔵は東大出身で現京大教授だが、荒木見悟と安田二郎に私淑している。

 

 

(75)戦う木下鉄矢

またまた先述のとおり、司馬と丸山を批判した『朱子 <はたらき>と<つとめ>の哲学』において、木下は島田本を「歯切れのよい文章と目配りのよさを備え、朱子学と陽明学への入門書として必ず推薦される」と評価しながら、「歯切れのよい要覧をその明解さから鵜呑みにしてはいけない」を警告している。

 

 

(76)おすすめの入門書

今回取り上げた『朱子学と陽明学』三部作が入門書のテッパンであることは間違いない。けれどもそれぞれがややクセが強くて味が濃いというのも正直なところ。そのクセが面白いのだけれど、もう少しあっさりおいしく食したいというのなら垣内景子『朱子学入門』(ミネルヴァ書房)がおすすめ。

 

 

(77)現代新儒家

中国にも現代新儒家と呼ばれる人たちがいる。その創始者の梁漱溟、たしか幻の『NARASIA3』でも取り上げた熊十力、ヘーゲルの唯神論哲学を使って体用論を説く賀麟、アリストテレス哲学に基づいて新理学を提唱した馮友蘭、そのほか唐君毅、牟宗三などなど。Wikipediaにも「新儒家」という項目がある。

 

 

(78)『論語』はいつですか?

ここまで貼りまくってきたハイパーリンクを見てお分かりのとおり、千夜千冊にはたくさんの儒家が取り上げられている。が、なんと『孟子』は取り上げられているのに、『論語』はまだ。千夜の場合、そんな例はいくらもあるけれど、あえて聞くなら、コーチョー、『論語』はいつですか? ひょっとして無しですか?

 

 

(79)多読ジムの知筋

ハイパーリンクで取り上げられなかったけれど、大事な千夜千冊を二夜ここで紹介。一つは1489夜 佐藤一斎『言志四録』、もう一つは1661夜 前田勉『江戸の読書会』。儒学も朱子学もその醍醐味は読書にある。たくさんの私塾が生まれて、たくさんの読書が広がった。その知筋が多読ジムにも脈々と受け継がれている。

 

 

(80)ツイッター朱子学

タイトルを「ツイッター朱子学」としたのは、千葉雅也『ツイッター哲学  別のしかたで』(河出書房新社)に触発されたからだった。目算なので百パーではないだろうけれど、おそらくだいたい140字以内になっていると思う。考えてみれば、『朱子語録』も『伝習録』もつぶやき語録みたいなもんだよね。

 

 

Info


 

⊕アイキャッチ画像⊕
『朱子学と陽明学』島田虔次(けんじ)/岩波新書
『朱子学と陽明学』小島剛/ちくま学芸文庫
『入門 朱子学と陽明学』小倉紀蔵/ちくま新書

 

⊕多読ジム Season05・冬⊕
∈選本テーマ:日本する
∈スタジオだんだん(新井陽大冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体

 

   ◉『朱子学と陽明学』島田虔次

  ・ ・

 ◉ ・ ◉『朱子学と陽明学』小島剛

 『入門 朱子学と陽明学』小倉紀蔵

 


  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:水木しげる
    セイゴオ師匠の編集芸に憧れて、イシス編集学校、編集工学研究所の様々なメディエーション・プロジェクトに参画。ポップでパンクな「サブカルズ」の動向に目を光らせる。
    photo: yukari goto