【多読SP】冊匠賞受賞作全文掲載(林愛)

2021/12/25(土)09:14
img

多読ジムSPコース「大澤真幸を読む」の読了式で【冊匠賞】【多読ボード賞】【大澤真幸賞】の受賞者が発表された。冊匠賞は林愛さん、多読ボード賞は猪貝克浩さん、大澤真幸賞は梅澤光由さんが受賞した。大澤真幸賞の梅澤光由さんに続いて、冊匠賞の林愛さんの読創文を全文掲載する。

 

ことばを贈る 父でもあり母でもある子どもたち(林愛)

目次

序   残酷な神が支配する

第一章 一対のダンス

第二章 触れて見つめて

第三章 贈られたもの、こぼれていくもの

結   あなたの人生の物語 

序   残酷な神が支配する

 

 左側からやわらかく照らされたコンクリートの壁を背に、黒いソファに腰かけたその人は言った。「できれば人生で経験できたらいいと思うのが、人を好きになることと、いい本に出会うこと…」いつも本の活字から立ち上がって頭の中で響いていた声が、多読ジムスペシャルのキックオフレクチャーだったその日、ノートパソコンのスピーカーから耳に届いた。大切な話はいくつもあった。ただ、この言葉の中にその人を感じた気がした。

 『恋愛の不可能性について』という著作があるように、求心化と遠心化の狭間に目を凝らして概念を生み出したように、誰かと本当には一緒にいられないということの淵から、この人の思考が絶えず湧き出してくるようだ。人を好きになることと、その淵は、まっすぐにつながっているのだろう。

 

多読ジムスペシャル・キックオフレクチャーの記事

 

 『残酷な神が支配する』と名付けられた萩尾望都の長編漫画作品がある。アイルランドの詩人・イェエツの「After us the Savage God」という言葉から着想されたらしい。母の再婚生活を守るために、義父からの虐待に耐えてしまった少年のトラウマを巡る物語だが、もちろんそのような親でなくても、親は残酷な神である、と感じたことはないだろうか。10代のころのわたしには、そういう感覚があった。だから、紆余曲折を経て自分が親になることになったとき、今度は自分が、一人の人間の一時期に神にも等しい存在になるのだろうか、と少し畏れを感じた。

 

 人が誰かを必要とするしくみと表裏一体に、底の見えない淵がある。父と母の子として、人を好きになった女として、子を生んだ母として、父と母という言葉の対に引かれた。

 

 

  • 第一章 一対のダンス

 

 『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』(以降『近代篇2』と記す)の章タイトルを一渡りにまとめて見ると、それは父にはじまり、母におわっている。第1章には、「「父」こそは、第三者の審級の原型」であると述べられていて、最終章には、「「理念化された母親」は、詩的言語の究極の源泉である「自然」の等価物である。」と語られていることから、これらの一対を次のような等式で結ぶことができる。

 

父:母=神:自然

 

 父:母はもちろん、神:自然も、古代ギリシアではコスモス:カオスと対比的に語られるが、これらは本当に混ざることのない二項対立なのだろうか。

 この問いに向かうために、第9章「なぜ何かがあるのか」の第1節「現われとしてのイデア」を参照したい。イデアについて、「このイデアの極限、イデアの中のイデア、すべてのイデアを集約する「一なるイデア」こそが超越的な唯一神だ」と述べられる。すると、等式に以下のように書き加えられる。

 

父:母=神:自然=イデア:X

 

 このXに節のタイトルにもある「現れ」が代入できるだろうか。この節の中で、現れ:イデアという二元性について、以下のように論が展開される。

 

 「現れ/イデア」という二元性が、それ自体、現れのうちに内在しているのだ、と。現れのうちに自己を否定し、自らをイデアへと超克していく運動が孕まれているのである。(中略)イデアは、したがって、「事物」のように存在しているわけではない。イデアは、現象そのものに内在する、現象の(自己否定の)運動だ。したがって、それは、「事物」よりも、むしろ、「出来事」に近い。(P212)

 

 『量子の社会哲学』(以降著者の特記のない書籍は大澤真幸著/編著)によると、現れと本質の関係を特に熱心に主題とした古典主義時代の哲学者たちは、「現れは、普遍的な本質を常に部分的にしか反映しない」と考えた。しかし、現れがイデアの反映でないとしたら、いったいどこから現れていると考えたらいいのか。同じ第9章の3節は「究極の問いへの答え」と名付けられ、結論する。「すべての物は、結局、無から、無を背景にして現れている、と言わなくてはならない」(P222)と。「無(現れに過ぎないもの)は、有(本質・イデア)という形式を帯びるほかない。」(P223)イデアは無が仮にとる形であり、内容ではない。「現れが「無」であるのは、それが内在的に矛盾しているがために、いかなる同一性をももちえないからである。」(P223)自己否定を孕んでいる現れも、常に同一の内容はとり得ない。「イデア→現れ」なのではなく、「無→無(イデアという運動を伴う現れ)」なのである。ただひたすらに、だけがたゆたっているのだ。

 無はもちろん、人間の認知構造では把握することができない。対象として「有」らしめなくては、認識することができないのだから。けれど、それをなんとか把握しようとして、人間が仮に生み出したものがふたつある。ひとつは、まばたきによって切り取った現れ。そして、もうひとつが現れの残像の束から相似を検出して束にしたイデアというもの、なのではないだろうか。

 この節で(写実的な)絵画が再現しようとしているものとして「現れ」が語られているように、現れは任意の瞬間で切り取ることができる。しかし、運動であり、出来事であると述べられているイデアは、静止画で切り取ることはできない。イデアは、永遠の無のたゆたいの中で、不断に残像を生み出して、人間の認識の中で、動的平衡を保っているのである。つまり、イデア:現れと記述して比較できるようには、様態が揃っていないのではないだろうか。

 ここで、父:母の一対に準じて取り出した、神:自然の一対も疑ってみる。『〈世界史〉の哲学』で中心的に述べられているキリスト教の神で考えると、絶対神が運動であり出来事としか語れないものであるはずがない。一方、自然は、気候ひとつとっても変転するものであり、運動以外の見方で性質を正確に切り取ることはできない。

 となると、さかのぼって、あまりにも当然のように対で語られる、父:母の様態の揃いも疑ってみる。有性生殖する個体の生物学的な父・母は当然ながら一対で語られるものであろう。ただ、そのまま神へと概念をスライドできるような、「父なる神」というときの「父」は、はたして生物学的な性質をもっているのだろうか。

 『現代宗教意識論』には、「人間の社会においても、「父的な機能」を果たすのは、必ずしも(生物学的)父によって担われるとは限らない」(P158)と書かれている。となると、父:母もやはり、自明の一対ではなくなってくる。父も母も子からみた関係性を表した名である。子はどのように、父(的なもの)・母(的なもの)を経験するのか。揺らいできた二項対立構造は、それによって見え方が変わるかもしれない。

 

 

  • 第二章 触れて見つめて

 

 父も母もそれ自身だけでは存在しえない。必ず、誰かからみられた他者である。『近代篇2』に以下の記述がある。

 

〈私〉に立ち現れているこの世界は、なおすべてではない、という否定性こそが、他者の顔や、他なる自己意識の顕現の仕方である。これが、〈遠心化(遠隔化)〉という概念の趣旨である。(P153)

 

 この遠心化作用と求心化作用の表裏一体性を実感できる体験は、他者に触れることと、他者の顔を見ることだという。触れることは即座に触れられることである。他者の顔を見て目が合った時にどきっとするのは、〈私〉が〈他者〉に現れている世界に存在していることを瞬間的に理解するからだろう。

 この眩暈がするような求心化作用/遠心化作用は、私の心にどんな帰結をもたらすだろうか。

 

 私が、私に触れていたり、私を見ていたりする「もう一つの心」(他者)に瞬間気がつき、それを積極的に捉えようとすると、それは、私によって触れられたり見られたりしている事物、つまり単なる対象と化してしまう。したがって、私を見たり、私に触れたりする作用は、私の視線、私の触覚から、逃れ去っていくのだ。それゆえ残存するのは、他者が私を見ている、他者が私に触れている、という現在性ではなく、他者が私を見ていた、他者が私に触れていたという過去性である。

『意味と他者性』(勁草書房)P79‐81

 

 恋している人に見つめられたり触れられたり、人前で緊張しながら話したりするときのことを思い浮かべると理解しやすいように感じるが、他者が存在することの現実性が私自身の存在を凌駕すると、他者が私を見ていた/触れていたという過去性と、他者が私と同時に存在しているという現在性が分離してしまう。そして、他者の過去性が目の前の二人称から分離し、第三者的な超越性を帯びる。

 このように、求心化作用/遠心化作用が第三者の審級を生み出していたのだ。では、求心化/遠心化作用は人間にどれだけ深く組み込まれているのだろうか。『動物的/人間的』(弘文堂)の第4章「〈社会〉の起原へ」を参照して、赤ちゃんの成長過程を見てみよう。

赤ちゃんが仰向けで寝ることや、「何を見ているか」見抜かれる白目をもっていることは、ほかの動物にはみられない人間の特徴だ。これは「私があなたの眼を見ているとき、あなたもまた私の眼を見ていることの確証が得られるようにする仕組み」(P131)である。つまり、人間は赤ちゃんのときから、求心化作用/遠心化作用を感じるように生まれてきているのだ。

 この顔に相対する態勢は何かに似ている。そう、を覗き込むときだ。先に覚えるのはどちらか。もちろん、他者の顔を見ることのほうである。ヒトとチンパンジー以外のたいていの動物は、鏡に映った自分の像をそれとして認識できないという。それは鏡なしには自分が知覚しえないものなのだから、当然なのかもしれない。鏡の中にいるのは、自分が見たことのない他者だ。けれど、自分を見ている他者を感じる体験によって、鏡の中の自分を他者の眼で認めることができるようになるのではないか。つまり、鏡の中の自分は、他者の世界の住人なのである。

 

鏡の中にいるのは誰?

 

 東洋篇にこんな記述がある。

 

〈他者〉は、〈私〉ないし〈われわれ〉に欠けている何かを、それなくしては〈私〉や〈われわれ〉が十全な自己に到達できないと感じられる何かを最初から所有している(ように見える)のだ。だから、〈他者〉と〈私〉(あるいは〈われわれ〉)の関係は、〈他者〉からの贈与の形態をとる。(P589)

 

 この他者が所有している「それなくしては〈私〉や〈われわれ〉が十全な自己に到達できないと感じられる何か」とは他者の眼で見た自己像なのではないだろうか。まさに自己認識の鍵を他者が握っている。

 もちろん、赤ちゃんには、視覚に先行して触覚がある。出生後、羊水から離れ、あらゆるものを皮膚で感じ始める。その中で、触れると同時に反対側からも志向性を感じる対象があることに気づくだろう。それから、外界の光に目が慣れていくにつれ、ものの輪郭を捉えられるようになる。その中で、触れられるかのように、こちらに目の注意が向けられている対象があることに気づく。そちらに目を向けると、相手は表情をくずしたり、なにか音を発したりするかもしれない。外界に出てきて最初に繰り返す、求心化作用/遠心化作用の相手、これが(たとえ生物学的な母親でなくても)「母」である。

 『憎悪と愛の哲学』では、母を「前駆的な第三者の審級」と呼び、「全能の神に等しい」(P84‐85)と書いている。ただし、あくまでも「前駆的」である。母は同じ場を共有して直接的に触れられる対象であるから、超越的な「第三者」にはなりえない。当然ながら、母がその場を離れて超越的になることをこそ赤ちゃんは恐れている。そこで、もしも母が自分を置き去りにするような気まぐれを否定してくれる第三者を発見したら、赤ちゃんはこの不安を解消することができるだろう。こうして、母以外に、第三者の審級である「父」が必要とされる。もちろん母同様、この第三者の審級の機能が果たせれば、生物学的な父でなくても構わない。

 『現代宗教意識論』を引用して、まとめておく。今西錦司以来の霊長類学が「家族」と呼ぶものの4つの条件のうち、人間以外の社会では非常に稀なものとして、「家族が上位の共同体に組み込まれていること」(P154)が挙げられている。これを担保するために、「集団内の先行世代の男性が、男性という(女性とは異なる)固有の役割において、同じ集団内の次世代に対して行う教育」(P158)が父的な機能として成立する。そして、父と母はこのように整理される。(P160‐161)

 

 女性的な他者(母):近くの親:直接性

 男性的な他者(父):遠くの親:直接的な二者関係を禁止・否定する、間接的な第三者

 

 ここで、前章の最後に立てた、子はどのように、父(的なもの)・母(的なもの)を経験するのかという問いに戻ることができるだろうか。子は、その場を共有し触れ合い見つめ合う母(的な他者)と、その恣意を抑制する(と見なせる)超越的な(的な他者)を経験する。水平的な他者と垂直的な他者、ということができるかもしれない。

 この「見なせる」もポイントである。父は超越的であるから、子がそのようにみていれば必ずしも実在しなくてもいい。信仰する人が実在を前提としてみている超越神、現れの超克を目指すイデアも、垂直指向的というイメージを共有できるだろう。

 父の論理のあり方が垂直指向的であることは、父権社会の特徴からも検出できる。J・J・バッハオーフェンの『母権論』は、原初の母権的思考から父権的思考への移行にともなって現れたものとして、養子制度をとり上げ、「物質性から完全に解き放たれた父性、母なき父性を実現し、またこのことによって母系制には存在しなかった直系の継承という観念を完成した」(P66)と説く。自らの身体から子どもが出てくるのではない男性は、生まれた子が誰の子であるかを明らかにしなければならない。直系を証明する家系図こそ、垂直的に表現される。

 こうして子への権力を打ち立てた父は、それを確実にするために、国家というシステムを生み出す。バッハオーフェンは、ローマの国家理念と法律によって、父権が独立・安定したという。

 生命を喚起するが、物質的な生命の誕生には関わらない父性は、本質的に非物質的性質を備えている。ゆえに、「父権優位を確立するためには、精神を自然の諸現象から解放することが必要であり、それを達成するには人間存在を物質的な生の法から超越させる必要があった」(前掲書P63)。天空を目指し、精神を地母神のもとから離陸させたのである。この精神は、『近代篇2』で「ヘーゲル的な意味での「主体」としての「精神」とは、資本のことなのだ」(P317)と述べられた。変化することを本性とし、他者の注意を必要とする精神も資本も、父性の原理から生まれたものだったのである。

 『資本主義のパラドックス』に描かれるように、エディプス・コンプレックスは、男の子の精神に宿る仮象だった。(ペニスという)持っているものを超越者に奪われるのではないかという恐れに急き立てられて、父殺しを繰り返し夢に見ながら、終わりへの過程を繰り返して資本を循環させている。『近代篇2』は「エディプス・コンプレックスが、まるで人間の普遍的な条件のようなものとして見出された」と結ばれるが、この「まるで」が近代の結晶化であり、誤解なのだ。それは人間の普遍ではない、男の子の、父の原理である。上野千鶴子が『ナショナリズムとジェンダー』で「フェミニストの「国民国家」分析は、近代・家父長制・国民国家の枠の中での「男女平等」が原理的に不可能だということを証明した」(P94)と書いたように。では、母の原理とはどのようなものだろうか。それは水平性というイメージに重なるものだろうか。

 

 

  • 第三章 贈られたもの、こぼれていくもの

 

 〈世界史の哲学〉が近代を語り終える第17章、「母の欲望」では、次のように論が進められる。

 

母は僕以外の何を欲望しているのか、という謎がある。(中略)父――第三者の審級――によって承認される言語こそが母が欲していたものだった、と見なされるのだ。(中略)母の欲望をめぐる謎は、父(第三者の審級)の機能に媒介されることで有意味化された言語に、いわば翻訳されたのだ。その言語はもともと、母にとって私が何であったかという問いに対する回答である。つまり、この言語は、わたしの〈内面〉との合致を可能にする言語だ(と見なされる)。要するに、これが母語となる俗語だ。(P437)

 

 まだ言語を知らない子にとって、「母が自分と二人だけの世界に充足していない、自分以外に必要としているものがある」という実感は、抱えきれない満たされなさだろう。(引用文では、エディプス・コンプレックスにつながる流れの中で「僕」と表現されているが、これは男児・女児問わないのではないかと思う。)子が「母が自分以外に必要としているのは父ではないか」という仮説を得たとき、自分が母に渡せなくて、父が渡せるものとして言語を発見する。その言語によって、自分の満たされなさが表せると気づいたとき、「ああ、お母さんもこれがほしかったのか!」とわかる。

 アリソン・ゴプニックは『哲学する赤ちゃん』で、人間にエピソード記憶ができるのは5歳ごろからだという。自伝的記憶の形成には言語能力が関わっていて、幼児は、告白を必要とするような、目の前で起きていることと独立した内面をもたない。内面が先にあってそこに言語があてはめられるのではなく、言語構造に沿った内面が立ち上がってくるのである。まるで無が現れのかたちをとるように。

 子である「わたし」にとって、「〈内面〉との合致を可能にする言語」が、父と母からの贈与だと捉えるとしたら、それをどう扱えばいいのだろうか。贈与について多くのページが割かれた東洋篇のP332に「モースは、贈与は三つの義務よりなる、とした。贈り物を与える義務(提供の義務)、それを受け取る義務(受容の義務)、お返しの義務(返礼の義務)」だと紹介されている。子はどのようにして返礼の義務を果たせるのだろうか。

 言語は今あるものに似ているものしか表現できない。そのため、常に語り切れない残余を感じる。近代篇の第17章で、「厳密には、「私」(を主語として述定されること)が他者に認知されうる音声的な記号として外化されたとたんに、その「私」と〈内面〉の「私」との乖離ははじまっているので、両者の間の一致は完全ではありえない」(P427)と語られているように。また、言語を文字化すると、告白の音声から離れていき、内面との合致度もさらに低下するだろう。そこで子は、内面の面影を追って、言語の別様の可能性を求めることになる。現れが自己を否定し、自らをイデアへと超克しようとする(その運動こそがイデアである)ように。

 父が象徴する第三者の審級が、母が生み出す息を分節して、言語を生み出した。もともと父なる第三者の審級は、母と赤子からはじまる、求心化作用/遠心化作用をともなう関係から生み出された、仮象である。だから、子は、父(が母を承認した言語)を殺して、絶えず意味を再生させなければならない。

 

 

結   あなたの人生の物語

 

 『考えるということ』はこんなふうに語っている。

 

 時間は、何らかの意味で「不在」の様相をもつ他者との関係である。存在の最も確実な相が現前(現在)だとして、「すでに(いない)」「いまだ(いない)」という様相をもっている他者たちを、それ自体、存在として受け取ったとき、時間は現れる。(P81)

 

 時間は、誰かがいない、と感じることからはじまったのか。

 2017年に公開された『メッセージ』という映画を思い出す。この選択の先にあるのは、娘を10代で亡くす未来だとわかっていても、果たして今このパートナーの手をとる(そして、娘を生む)か、という分岐点にヒロインが立つことになる。ヒロインは、非線形な時間感覚をもつ宇宙から来た生命体の言語を解析することで、自身も非線形な時間感覚を垣間見るようになり、現在に未来を重ね写しに見るようになった言語学者だ。

 中沢新一の『レンマ学』に付録として収められた「レンマ的算術の基礎」という論文の中で、この映画と映像化されたエイリアンの文字が取り上げられている。中沢によると、この文字は、「非線形思考によって、集合を全体として直感的に把握する」(P384)レンマ的論理によってつくられているという。

 

映画『メッセージ』でエイリアン(ヘプタポッド)が使う文字

 

 『新世紀のコミュニズムへ』は、「資本主義を成り立たせているのは、終末の「救済」を指向する時間」(P91)であり、その時間は、直線と円環の形式の組み合わせでできているという。そして、そのどちらでもない第三の時間は、「今ここ」の時間」(P94)だと述べる。『メッセージ』のエイリアンの文字は、逐次的でなく、「今ここ」で全体を捉えるものである。「今ここ」の時間は、非線形の時間のない思考によって感覚できるだろうか。バートランド・ラッセルが唱えた「世界は五分前にはじまった」という仮説を、誰も否定することができないように、もしかしたら、ほんとうに今しかないのかもしれないのだから。

 『戦後思想の到達点』に「今ここ」の時間を感じるヒントがある。終章の結びで、「「存在」の特定領域ではなく、存在そのものに根をおろす」「遊動し続けることが存在に定住していること」(P237)というあり方が示されている。この遊動性は量子の非局所性を、動き続けることで存在が保たれることは動的平衡を思わせる。『〈自由〉の条件』に、私は「原理的に解消しえない不確定性として現れる」(P109)と述べられていたように。他者に自己認識の鍵を握られ、運動というあり方しかできないものなのかもしれない。第一章で考えたイデアのように。そうだとしたら、「今ここ」しか認知できないほうが本来だ。

 そして、私には私の「今ここ」しか認知できなくても、他者にも他者の「今ここ」がある。私の「今ここ」の裏側で、未来の子どもが庭を駆け回っているかもしれない。

『メッセージ』の原作小説のタイトルは、『あなたの人生の物語』だ。「あなた」と呼びかけられる、いつか死ぬことになる子どもは、遠い彼方にいるようで、「今ここ」で背中合わせに、ずっと一緒にいるのかもしれない。

 

 他者と一緒にいることの不可能性を思い、考えを起こしてきた。けれど、他者の不在を感じる「今ここ」に、未来の他者が胚胎していることがあったのだ。時間という概念の父殺しをし、過去も未来も可能性と化したら。ただお互いの世界の中で、お互いを含みあっているのかもしれない。「〈私〉であることにおいて、すでに、〈他者〉が入るべき場所は用意されている」(『近代篇2』P110)のだから。

 『戦後思想の到達点』は、「〈私〉にとっての謎は、〈他者〉にとってもなお深い謎であった」というふうに、「謎が二重化すると、偶有性に向かい合い、選択可能な複数の意味の空間を開く」ことになるという。(P235)

 直線的時間感覚では、娘が死ぬ未来はただただおそろしい。でも、すでに娘がいる今が満たされている、という感覚に基づけばどうだろう。この非線形思考こそ、「存在論的に未完成」な直線的時間感覚を生み出した父の原理と対をなす、母の原理ではないだろうか。

 父の原理の生み出した三位一体をネーション国家資本とすると、柄谷行人が「近代社会の構造を形成する三つの実体」とし、『NAM―原理』でそれを超えることを目指したものとなる。近代社会から疎外されたところに、母の原理があるとすれば、それは資本主義から降りることができない現代の、裏庭への回転扉の鍵になるのではないだろうか。

 垂直性と水平性は、同じ軸の上で対立する概念ではない。ゆえに共存が可能である。垂直性と水平性のそれぞれでイメージした父の原理と母の原理も、そのふたりの子であるわたしたちの中で、併存が可能ではないだろうか。原初には母の原理を生きていた人間として。幼児期には父の機能である言語をもたなかった子として。エマニュエル・トッドが『家族システムの起原Ⅰ』で、「そもそも出発点においては全世界に普遍的な、核家族的にして個人主義的、双方的にして男女平等主義的なものであった一つの人類学的形態」(下巻P736)と見出したシステムのように。

 『資本主義のパラドックス』では、「ある経験の(心的)領域が、それ自身の同一性の内部に、隔たり(差異)」を含んでいるために、「一つの経験であると同時に、自ら自身に対する差異すなわち他者(に帰属するもう一つの経験)を同時に含みこんでいるような経験」(P123)の形象化を楕円に託している。そして、「資本主義とは、たえず楕円を円へと変換していく運動」(P128)だと述べているが、その運動に割く労力を減らして、父の原理と母の原理という二重の焦点をもつ楕円状の経験を生き、資本主義をすり抜けたい。もちろん使い続けてきた力を抜くのは難しいだろう。だからまずは時折、少しずつこっそりとでいいから。

 人新世感染症と隣り合わせで生きるために、これから監視国家や監視資本の力は増していくのだろう。イメージで捉えればクラウドも垂直的だし、アバターも非身体的だ。監視に使われるテクノロジーも父の論理が生み出したものなのかもしれない。だからやはり、それに頼ることが多くなるこれからは両輪でいきたい。バランスをとって、時には母の論理にチャンネルを切り替えて、地に触れ、身体を使って、水平性の要素を取り入れてみたらどうだろう。貨幣を介さない糧を少しずつ生み出してみたり、それを交換したり。存在論的に未完成ゆえに天空を目指す思考に対し、すでに完成しているゆえに地に根を下ろす思考によって、自然の産物のように年をとる通貨を試してみてもいいかもしれない。

 遊動性を担保する、移動の自由に対する制限も目立ってきた。しかし、国家間の移動は父が禁じているかもしれないが、天の父の視力で捉えられない、森を逍遥するような移動は忘れずにいよう。子どもが隠れ家を探すように、常に抜け道を見つけよう。

 自分の中に母の原理を見出すことが難しく、やはり母が遠いシンボルにしか思えなかったら、そんな母の面影を言葉にしてみよう。『資本主義のパラドックス』で取り上げられた(P73)、花田清輝が『復興期の精神』で女の論理と表現した修辞を使って。

 

 父と母から言葉を受け取った子どもたちが、贈与に対してできる返礼はなんだろう。そもそも父と母は、なにを望んでいたのだろう。父も母も、自身はまず、子だった。であれば、欲しているものはわたしたちと同じはず。触れて、見つめて、言葉を贈って。父殺しすら無意識にでも望まれているのかもしれない。再編集の契機として。直接返せなくてもいい。あるかなきかに見える光が数億光年前のものであるように、今ここで、すべての生ある存在が、量子のようにわたしたちが感知できない方法で繋がっているのだから。

 

 

Info


⊕多読ジムSPコース「大澤真幸を読む」⊕

課題図書:『〈世界史〉の哲学 近代篇2 資本主義の父殺し』大澤真幸(講談社)

スタジオ☆ヨーゼフ(浅羽登志也冊師)

 

⊕参考文献⊕

大澤真幸『恋愛の不可能性について』(ちくま学芸文庫)

大澤真幸『考えるということ』(河出文庫)

大澤真幸『現代宗教意識論』(弘文堂)

大澤真幸『社会システムの生成』(弘文堂)

大澤真幸『意味と他者性』(勁草書房)

大澤真幸『動物的/人間的』(弘文堂)

大澤真幸『憎悪と愛の哲学』(角川書店)

J・J・バッハオーフェン『母権論』(三元社)

大澤真幸『資本主義のパラドックス』(ちくま学芸文庫)

上野千鶴子『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)

アリソン・ゴプニック『哲学する赤ちゃん』(亜紀書房)

中沢新一『レンマ学』(講談社)

大澤真幸『新世紀のコミュニズムへ』(NHK出版)

大澤真幸編『戦後思想の到達点 柄谷行人、自身を語る 見田宗介、自身を語る』(NHK出版)

大澤真幸『〈自由〉の条件』(講談社文芸文庫)

柄谷行人『NAM―原理』(太田出版)

エマニュエル・トッド『家族システムの起原Ⅰユーラシア上・下』(藤原書店)

大澤真幸『〈世界史の哲学〉古代篇』(講談社)

大澤真幸『〈世界史の哲学〉東洋篇』(講談社)

大澤真幸『社会学史』(講談社現代新書)

大澤真幸『コミュニケーション』(弘文堂)

大澤真幸『量子の社会哲学』(講談社)

大澤真幸『自由という牢獄』(岩波書店)

大澤真幸・國分功一郎『コロナ時代の哲学』(THINKING O第16号)

大澤真幸・稲垣久和『キリスト教と近代の迷宮』(春秋社)

橋爪大三郎・大澤真幸『ゆかいな仏教』(サンガ新書)

大澤真幸『行為の代数学』(青土社)

東浩紀・大澤真幸『自由を考える』(NHKブックス)

東浩紀『ゲンロン12』所収の

 「訂正可能性の哲学、あるいは新しい公共性について」という論文

東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)

井筒俊彦『意識と本質』(岩波文庫)

上野千鶴子『家父長制と資本制』(岩波書店)

竹村和子『愛について』(岩波書店)

C・G・ユング『元型論』(紀伊國屋書店)

佐藤優『生き抜くためのドストエフスキー入門』(新潮文庫)

テッド・チャン『あなたの人生の物語』(ハヤカワ文庫)

萩尾望都『残酷な神が支配する』(小学館)


  • 林 愛

    編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。