「どろろ」や「リボンの騎士」など、ジェンダーを越境するテーマを好んで描いてきた手塚治虫が、ド直球で挑んだのが「MW(ムウ)」という作品。妖艶な美青年が悪逆の限りを尽くすピカレスクロマン。このときの手塚先生は完全にどうかしていて、リミッターの外れたどす黒い展開に、こちらの頭もクラクラしてきます。

マッチが一瞬で電車になる。これは、子供が幼い頃のわが家(筆者)の「引越し」での一場面だ。大人がうっかり落としたマッチが床に散らばった途端、あっという間に鉄道の世界へいってしまった。多くの子供たちは、「見立て」の名人。それは、日本古来からの方法だと花伝所にきて気が付いた。
一方、現代に生きる大人はどうだろう。もし、「マッチの使い道を次々に言ってください」と言われたら?
・何かを燃やす
・花火をする
・線香をあげる
・BBQの炭に火をおこす
・ろうそくに火をともす
・暖をとる
体験に基づく使い道もいいが、先の子供たちと一体何が違うのだろう。
■編集とは何か。「知」とは何か。
多くの一般の読者は、雑誌や新聞をつくることをイメージするかもしれない。イシス編集学校ではこうだ。
情報が私たちにとって「必要な情報」=「知」になること。これこそが「編集」なのです。イシス編集学校ではそのために、情報をどのように動かすかといいか、そのプロセスに関わる方法を学びます。
言いかえると、情報を受け取って(in)、何かを出力する(out)のあいだに起こっていること全てを「編集」と呼ぶ。「知」は「心で感じ知る」「認める」「知識」「もてなし」という意味も合わせ持つ。つまり、ある情報が私たちにとって「必要な情報」として見方づけされること、これを編集と呼ぶのだ。
■人間にひそむ能力とは? ー 注意のカーソル ー
基本コース「守」の最初のお題では、連想ゲームのようにコップの言い換え、その使い道を20通り以上考える。人間が<同義的連想>をするとき、アタマの中では何がおこっているのだろう。『知の編集工学 増補版』(朝日文庫)から著者・松岡正剛校長にお出ましいただき、校長の視座を感じながら対話するかのように考察したい。
イシス編集学校 松岡正剛校長
(※『知の編集工学 増補版』からの引用にはページ数を明示した)
校長:机の上にコップがある。コップを見ているということは、そこに注意(attention)を向けているということである。この「注意を向ける」ということが、編集を起動させる第一条件で、そこに注意を向けないかぎり、どんな編集もおこらない。(63頁)
高田:どきっ。注意を向けなければ、自らアフォードされなければ、編集ははじまらないってことですね。
校長:編集工学では、この「注意を向ける」という行為を「注意のカーソル」を動かすというふうに言っている。まさに「意を注ぐ」ということで、その矢印が向くところに「注意のカーソル」があるわけだ。(63頁)
高田:「注意」って何でしょう?
校長:注意とは、わかりやすくいえば、その対象にイメージの端子をそそぐことである。コップならコップという区切りを自分に対応させるのである。コップから注意を離すことも可能だ。机の上のコップの隣にケータイがあれば、そこに注意をすばやく移すことになる。そしてコップとケータイだけに注意が向けられたという記憶が残る。それ以外の、空気とか机とか、机の上にのっているものとか、埃とか色とかは、背景に消し去られる。(63頁)
高田:なるほど、注意は、自分の意図の先端を対象に向けたり、くるりと離したりする情報との向きや接地に大きく関わるのですね。
校長:ひるがえって情報には、情報の「地」(ground)と情報の「図」(figure)というものがある。「地」は情報の背景的なもので、分母的だ。「図」はその背景にのっている情報の図柄をさす。こちらは分子的だ。(64頁)
高田:空っぽのコップの背景には、使い道、使われる場面、使う人、遊び、記憶、転用、経済……などありますが、注意のカーソルは次から次に背景を動かしているんですね。
校長:脳の中は、知識やイメージを多数の「図」のリンクを張り巡らしているハイパーリンクなのである。これを<意味単位のネットワーク>とよぶことにする。コップはひとつの意味単位であり、ガラス製品もひとつの意味単位である。それらが次々につながり、ネットワークをつくっている。一層的ではない。多層的(マルチレイヤー的)で、立体的である。(68頁)
このような<意味単位のネットワーク>を進むことを、私たちはごく一般的に「考える」と言っている。(68頁)
高田:情報の道が多層にダイナミックにできるんですね。同じ道筋しか辿れないと見方も留まりそうで怖いなぁ。一方で、飲み物を容れる入れ物というコップの機能や概念を揺り動かし、別様のコップに<乗り換え>るという方法に焦がれます。情報をみるとき、つい「これって一体何の役に立つの?」とやりがちですが、それよりも、情報にアフォードされ、「注意のカーソル」を意識的に動かす方が発見的ですね。未知の情報でも、「地」や来し方を見る。そうすれば、その情報はどのように必要な知なのか、それはなぜなのか。見方づけを言葉にしていけそうな気がします。
松岡校長、対談させていただいてありがとうございました。
■「知」を起こしていく稽古へ
われわれは自然界の本来の情報を変形して知覚しているのであって、加工した自然像しか見ていないのだということにある。
私たちが情報を受け取るとき、既に加工編集された状態がある。そのプロセスに無頓着なまま情報を速く大量に消費しつづけている社会でもある。既に動かなくなった知識が「知」ではないことも改めて判ってきた。
編集学校のバイブルである『知の編集術』(講談社現代新書)と前出の『知の編集工学』。タイトルの「知」には、松岡校長が「遠慮しないで、おおいに情報を動かしてほしい」と思いをこめたのではないか、と思いを馳せる。その意を汲むように、43[花]の入伝生たちは【001番:コップは何に使える?】の回答から「学ぶモデル」を読み解く演習をする。入伝生M・Nは、「その人を分析するというよりかは、何に向かっていったのか、お題にどう向き合おうとしたか、何を表現しようとしたか、動向になるべく意識を向けてみました」「まさに、地が違う、ですね~」と思考の跡を方法的に読み解いた。「やるねぇ」とニヤリとする校長がうかんだ。
文・アイキャッチ/高田智英子(43[花]錬成師範)
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イシス編集学校 [花伝]チーム
編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。
機があれば、欲張りに貪欲に、くらいつく。 第88回感門之盟に参加できなかった43[花]錬成師範・新垣香子は、インターブッキングに参加することで、残念を果たしたはずだった。しかし、参加したいという念は、それだけでは消化でき […]
その男は、うどんを配り歩いていた。その男とは、香川県在住の54[破]讃岐兄弟社教室・竹内哲也師範代である。彼は学衆の頃からイシスのイベントで会う人にうどんを渡し、P1グランプリではお遍路を題材にする、香川を愛する男である […]
沖縄では新暦の暦のずれを調整するため、約3年に1度、旧暦で同じ月が2回現れる特別な月がある。「ユンヂチ(閏月)」だ。ユンヂチの旧盆はことさら特別なのだが、今年はあろうことか第88回感門之盟と重なった。 叫びとも呻きともつ […]
教室名発表は告白だ。告げられる側なのに、なぜか告げる側のような気持ちになる。「イーディ、入れておいたよ」、松岡校長が言葉をそえる。その瞬間、告白した後の胸が掴まれるような感覚を、私はいまでも忘れない。 ” […]
「アフ感」への参加は感門之盟のあとがきを綴ることである【88感門】
編集稽古では回答の末尾に振り返りコメントを書く。教室では回答したあとでしっかり振り返ることが欠かせない。講座修了を言祝ぐ「感門之盟」を振り返る。その場を提供してくれるのが「アフ感」だ。正式には「アフター感門之盟」である。 […]
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2025-09-04
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2025-09-02
百合の葉にぬらぬらした不審物がくっついていたら見過ごすべからず。
ヒトが繋げた植物のその先を、人知れずこっそり繋げ足している小さな命。その正体は、自らの排泄物を背負って育つユリクビナガハムシの幼虫です。
2025-08-26
コナラの葉に集う乳白色の惑星たち。
昆虫の働きかけによって植物にできる虫こぶの一種で、見えない奥ではタマバチの幼虫がこっそり育っている。
因みに、私は大阪育ちなのに、子供の頃から黄色い地球大好き人間です。