アンスリウム
花屋に行くと探してしまう花がある。それはアンスリウム。一見花びらに見える、艶やかで真っ赤なハート形の葉――正式には仏炎苞という――の切り込みの部分から、一本、黄色い尻尾のようなものが突き出している。正確にはこの部分こそがれっきとした花であるらしい。30年前、6年生の2月、雪の日に滑って厄介な怪我をし、整形外科病棟のベッドで寝たきりになっていた私に、クラスメイトのH君がお見舞いに持ってきてくれたのが一本のアンスリウムだった。生き物が好きなH君のあだ名は博士(ハカセ)で、教室ではよくノートに魚の絵を書いていた。
K
大学時代に知り合った夫はH君ではない。夫(Kと呼んでいる)は私がいくら本を買っても文句を言わない。もっともKは私よりもずっと多くの本を買う。読書が好きになった理由の一つは幼いころからの喘息だった。
マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』は、大学生協で井上究一郎訳のちくま文庫10巻セットを見かけてすぐ買ったらしい。それから10年、結婚するとプルーストも一緒にやってきた。とはいえ、私はすぐには読めなかった。二度の転居や長男の誕生といった大きな変化で、のんびり座っていられる時間がなくなり、一つの小説に長い時間、モードを合わせることができなくなったのだ。その傍らで、Kは家事雑事には我関せずという姿勢を貫き読み続けた。私はプルーストに、反感にも似た感情を抱くようになっていた。
が、Kの入院で、読書は前触れもなく途絶した。半年あまり後、病室から生還したあとは仕事に身を投じることが不安をまぎらわせる方法となったが、それは共に過ごす時間が減るという副作用をもたらした。
ぎりぎり均衡を保っていた新しい生活は、2014年、入学をきっかけに顕在化した長男の母子分離不安によって再び破れた。長男を家から無理に連れ出して付き添い登校をしている時、偶然、H君が市の昆虫館で主任研究員をしていることを知る。もし、まったく別の人生を歩んでいたら。誰も望んでいないうえに、絶対にかなわないからこそ、「もし」と思いめぐらせることは昏い愉しみとして日々の隙間に忍び込んでくるようになった。
再会
2年ほど経ったある日、Kが興奮気味に帰ってきた。「岩波文庫で『失われた時を求めて』の新訳が刊行中なのに気がついた。あちこちで絶賛されているみたい」。
Kはその時点で既刊だった7巻まで一気に買い、それ以降は刊行ペースと歩調を合わせながら読み進めていった。移動の電車で。リビングで。プルーストが評した絵や劇を見るために、美術館や劇場にも足を運んだ。
2019年の晩秋、最終巻である14巻が出版された。訳者あとがきによると、プルーストの研究者だった吉川一義氏が、思いがけず新訳プロジェクトの依頼を受けてから完結に至るまで、20年の歳月が必要だったという。「俺も、吉川さんも、途中で死んだりせずに最後まで読めてよかった」。Kは何度も同じことをつぶやきながら、14冊揃えて専用ケースに収めた。
2020年の春、長男は中学1年生、長女は小学1年生となっていた。Kは、今度はプルーストの関連本を買い始めた。その一つがフランスコミック版だった。学校も公共施設も休業し、一人の時間を持つことがままならぬ5月、みながテレビを見ている中、リビングの隅で開いてみた。
第一編の「スワン家のほうへ」がフルカラーでコミカライズされている。舞台は19世紀末のパリ郊外コンブレー。興味をひかれたのがレオニ叔母というキャラクターだった。2階のベッドに引きこもる生活を送っているが、誰もレオニ叔母のことを冷たくは遇しない。少年マルセルが「おはよう」の挨拶をしにいくと、お茶にひたしたマドレーヌを差し出し、食べさせる。これこそ、中年となった主人公が記憶を呼び覚ますきっかけとなった香りであり味だった。最も無為なキャラクターの習慣的ふるまいが鍵と鍵穴になり、物語の伽藍の土台となったのだ!
粋筋の女オデットと裕福なユダヤ系株式仲買人スワンの恋愛は、カトレアをきっかけに一線を超える。主人公と、2人の一人娘であるジルベルト嬢の恋は対比するようにじれったく描かれる。満開のサンザシの生垣ごしの出会い。このシーン、原文ではどう書かれているのだろう。
紗のカーテンが開く時
踏ん切りをつけるまでもうあと少しだった。同じ時代の日本の憂鬱をつかんでおきたくて『漱石文明論集』を読み直す。「私の個人主義」と「自己本位」の宣言に背を押され、6月、ついに『失われた時を求めて』の第1巻を手に取った。
再開した小学校に長女を送り出したあと、Kの部屋に閉じこもり、床に足を投げ出して読み始めた。吉川氏の訳の方針は、可能な限り、原文に出てくるイメージの連鎖やリズムをそのままに、日本語にしていくことだった。
マドレーヌをきっかけに取り出されたプルーストの無数の「過去」の触知感覚は私の内なる記憶と響き合い、既知であり未知でもある面影が、幻燈のように次々に頭の中のスクリーンに映し出されていった。作品と私を隔てていた薄い紗のカーテンが少しずつ開いていく。コミック版にはなかった感覚だった。
「その快感のおかげで、たちまち私には人生の有為転変などどうでもよくなり、人生の災禍も無害なものに感じられ、人生の短さも錯覚に思えたが、それは恋心の作用と同じで、私自身が貴重なエッセンスで充たされていたからである」。
窓の外から、マンションの通路を箒ではく音、誰かの話し声、車のエンジン音が聞こえる。そのむこうには、山の辺の道に並行する国道がある。南へ向かうと香久山のふもとに昆虫館がある。そこでは大人になったH君がチョウやハエを何代も育て続けているのだろう。オオゴママダラが無数に飛び交うガラス張りの温室は、1本のアンスリウムの記憶と結びついているからこそ、特別な場所となっているのだ。一緒に釣りをした大和川のゆるやかな流れ、釣り針にエサのミミズを刺したときの手ごたえ。瑞々しく甦ってくる多重多層なイメージに包まれながら、私は何年も覚えなかった静けさと強い喜びを味わっていた。
読むことと書くこと
次の日、もう一度この感覚を味わうべく、部屋にこもって第2巻を読み始めた。最初のうち、昨日ほどの強い喜びは感じられなかった。けれども精神の内側に目を凝らして、この経験をどう書こうかと考えはじめると、奥からさらに多くの記憶が再生されてきた。
少年マルセルは、走る馬車からマルタンヴィルの鐘楼の風景を見て強い感興をおぼえる。それをそのままにせず、鉛筆と紙を借りてすぐ文章にすることを試みる。その時「鐘楼とその背後に隠されていたものから完全に自由」になれたように感じ、歓喜する。書くことだけが我々を有為転変や善悪の軛から解き放ち、自由の方へとむかわせる。そして、一枚のウロコのきらめきを書こうとすれば、そのイメージに連なっている無数の言葉が必要なのだ。正午を告げるお寺の鐘が聞こえた。向こうの部屋で長男が起きて何かしている気配がする。立ち上がった。今すぐ、書き始めなければ。
不安が薄らいでくるとともに家で過ごす時間が少し増えたKに、「『失われた時を求めて』を読めたわ。22年越しに。おかげさまで」と伝えた。この一言をやっと言うことができた。プルーストを読み通すたった一つの方法。それは共に読む人を持つことなのだ。
●3冊の本:
『失われた時を求めて スワン家のほうへ』(1巻・2巻)マルセル・プルースト作・吉川一義訳/岩波文庫
『失われた時を求めて―スワン家のほうへ フランスコミック版』マルセル・プルースト作 ステファヌ・ウエ画 中条省平訳/祥伝社
『漱石文明論集』三好行雄編/岩波文庫
●3冊の関係性(編集思考素):三間連結型
松井 路代
編集的先達:中島敦。2007年生の長男と独自のホームエデュケーション。オペラ好きの夫、小学生の娘と奈良在住の主婦。離では典離、物語講座では冠綴賞というイシスの二冠王。野望は子ども編集学校と小説家デビュー。
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