【三冊筋プレス】妄想、異界への扉(田中泰子)

2021/04/29(木)10:01
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◆ 鏡のリフレクション

 

 「鏡だけなのだろうか!」

 1890年、横浜に到着したばかりのハーンは、早速神社仏閣をめぐる。そしてある寺の須弥壇の本尊があると思しき場所に鏡を認め、その表に映り込んだ自身の顔と、その奥にはるかに見える海の幻影に驚く。これは何を象徴しているのか、何かの啓示なのか。

 のちに日本に帰化し小泉八雲となり『怪談』や『骨董』など日本の伝承を世界に紹介するジャーナリスト、ハーンの紀行文『日本の面影』の第一日目の一節である。

 ハーンは、アイルランド人を父に、ギリシャ人を母に持ち、ギリシャのレフカス島に生まれる。4歳でダブリンの大叔母に預けられ、イギリスのカトリック神学校に13歳から17歳を過ごす。その間に、左目を失明。大叔母の破産を機に退学。19歳でアメリカに渡り、ジャーナリストとして署名記事を書くまでになる。フランス語が堪能で、ボードレールやゴーチェの詩などフランス文学を翻訳。作家としても頭角を現し、多様な文体の形成を意識的に行なっている。

 雑誌社の美術主任に勧められて読んだ、イギリスの言語学者バジル・ホール・チェンバレンによる英訳の『古事記』に感銘を受け、その雑誌社の特派員として日本行きを決意した。

 桜舞い散る町の佇まいを「妖精の国」と例え、その色調を「北斎絵画から抜け出たよう」と表現し、人々の笑顔に礼節と癒しを認めたハーンは、日本に残り見聞を広げることを決意。松江に移り、節子と巡り会い、家族を持つ。以来日本を離れることはなかった。

 寺で鏡と対面したあの日「私が心に思い描く空想以外のところで、見つけることができるのだろうか」と怪しんだもの、家族の愛を、ハーンはついに手に入れることができた。

 あの鏡が、ハーンにとっての異界への入り口だった。

 その後も異界とのコンタクトは続く。妻節子がハーンに読み聞かせた日本の民話の中に、それはあった。ハーンは自分の血の中に流れるケルトやギリシャの多神教と、空と海の青に惹かれて2年を過ごしたマルティニークのクレオール文化の中に、節子の選ぶ民話を受け入れ、融和させ、独自の文体を駆使して、新しい作品として生み出した。

 近代化の波の中で埋もれ忘れ去られようとしていた日本の異界の情報は、このようにして発掘され蘇り、今も読む人の心を打つ。

 「不可知なるものが、私を代弁者に、言葉の媒介者に選んだ」。日本に来る以前に、ハーンにはこのような予感があった。地中海、アイルランド、イングランド、フランス、アメリカ、西インド諸島、そして日本。流浪の旅の果てに、ハーンは、その使命を全うする。発見者として、また翻訳者として、暗く深い人間の精神の世界を探り、「再話文学者」として時をつなぎ、「日本の面影」を永遠の価値あるものにした。

 

 

◆ 月のテレ・ヴィジョン

 

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ」

                (新古今和歌集 秋上・363)

 

 定家は、『定家明月記私抄』の著者堀田善衛によると二流貴族だ。政治的要職に恵まれない宮廷歌人『千載和歌集』の選者藤原俊成を父として生まれ、56年間に渡り、有職故実を詳細に書いた日記を子孫に残した。『明月記』である。

 時代は平安末期から鎌倉初期。王朝文化から武家文化への転換期にあたる。群盗放火の横行や天変地異の多発する激動の時代にあって『明月記』の定家はいたって冷静だ。日記を始めた19歳の年に「世上乱逆追討耳ニ満ツト雖モ、之ヲ注セズ。紅旗征戒吾ガ事ニ非ラズ」と書く。徴兵に怯える若き日の堀田は、その潔さに感じ入ったのだった。

 三十一文字の中で定家が描き出す宇宙は、色彩に富み、重なる色の合間に音楽があり動きがある。時間が表現され、物語が展開する。絵画的でありながら、高度な文化が表現されていると堀田は見る。

 本来「和する歌」であった和歌の果たす役割が、ほとんど挨拶程度のものとなってしまっている時期に、定家が一つの和歌に込めた情報は、読む人の五感に働きかけ、魂を揺さぶる。そして、「では今はどうなのだろう?」と問う時には、すでにその存在を消している。そんな幽けき面影の気配を描き出している「見渡せば」の句。この句について堀田は、雅楽風の対位法の流れているシンセサイザーによる音楽のように聞え、かつ見える、と言うのだ。

 堀田はまた「月は定家にとってテレヴィジョンのような役を果たしていたかに思うこともあった。……いまテレヴィジョンと言ったのは、これらの月や星の運行が、ある種の予言的な報道機関のような役を果たしているかにも思われるからであった」と、書いている。

 月から届けられた音楽やヴィジョンは和歌に託され、はるか未来まで届けられる。「ない」ものがあることを表現する和歌、定家の紡ぐ「ない」から「なる」を表わす三十一文字は、芸術の源泉となった。   

 

 

◆ 生命のコミュニケーション

 

 石牟礼道子は詩人だ。『苦海浄土』三部作を書いた。水俣病患者たちの抗議活動に参加し、最後まで患者の側に寄り添った。行政に働きかけるに当たり、一主婦の立場を貫いた。しかしまぎれもなく彼女は詩人なのだ。

 「春の花々があらかた散り敷いてしまうと、大地の深い匂いがむせてくる」という書き出しで始まる『椿の海の記』は、道子がまだ「みっちゃん」と呼ばれていたころ、工場廃液の影響が目に見える形で現れてくる前の美しい水俣が描かれている。山に住む「あの人たち」や、豊富な魚介を無償で与えてくれる海を敬うことを、父や母に教えられ、野山にひとり遊ぶうちに、彼女は山や海がもたらす恵の意味を体感していく。

 同様に、彼女は大人たちの言動にも意味を求め、なぜ、と問い答えを求めることをやめない。精神を病む祖母、青い人魂を連れ帰り灯にすると噂される火葬場の隠亡、人との交わりを控えて山奥に住む癩病患者の家族、町の中心の通り沿いの曲輪に住む娘たち。さまざまな人との交流を通して、そのひとりひとりの人生に思いを巡らし、なぜ、と問う。4歳の道子は、このようにして摂理を学んでいった。   

 道子にたくさんの美しい水俣の記憶と、わからないことを疑問形のままにしておかない気質があったから、水俣病の人々と最後まで関われたように思う。それは同時に、自然界が発する警告を人々に理解させ、言葉に残し伝えてもらいたいと、水俣が意図し、みっちゃんをそのように育て、「あの人たち」とのコンタクトの経路を開いておいたのではないか、そんな風にも読めてくる。それほどに行間に込められた意味は深く重い。

 これはみっちゃんの歳時記などではない。4歳のみっちゃんのフィルターを通して伝えられた道子の半生の物語なのだ。

 

 

◆ そしてイリュージョン

 

 ハーンの14年間、定家の56年間、そして道子の一生でもあるみっちゃんの1年間。これらが、異界とのコーリングの期間であったというのは、妄想でしかない。しかし、ヨーロッパに生まれアメリカを経由して日本に渡ったハーンの、民話の発掘・再話と、定家の歌学の研究とその作品、そして道子の書く、水俣の自然と住民の健康を犠牲にし推し進められる近代化への警鐘。これらは、「そこ」にいた彼らしか成し得なかった仕事であったととらえたとき、人智を超えた力が働いているように見えてくる。

 日本は八百万の神の国、きっとあらゆるところに異界につながるドアがあるはずなのだ。そして、その扉を開ける鍵は、言葉に寄せた思いであることに、間違いはあるまい。その思いを受け取れるかどうかは、言葉に対する感受性の精度にかかってる。

 

 

Info


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ラフカディオ・ハーン『新編 日本の面影』(角川ソフィア文庫)

堀田善衛『定家明月記私抄』(ちくま学芸文庫) 

石牟礼道子『椿の海の記』(河出文庫)

 

多読ジム Season05・冬⊕

選本テーマ:日本する

スタジオだんだん(新井陽大冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体


  • 田中泰子

    編集的先達:ブルース・チャトウィン。29破を突破後も物語講座、風韻講座、そして多読ジムを開講と同時に連続受講中。遊読ナチュラリストである。現在は健康にいい家庭料理愛好家として、アレンジシフォンケーキを編集中。