【イシスの推しメンSP/17人目】一級建築士・山田細香は、なぜ震災を機にイシス編集学校を選んだのか

2023/03/11(土)08:31
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人生に、転機はふいに訪れる。道端で出会った風景に心動かされ、たまたま見たテレビの言葉に救われて、そして突然起きた地震になすすべもなく翻弄される。

遊刊エディストの人気連載「イシスの推しメン」17人目は、一級建築士の山田細香さん。なぜ彼女は、慣れ親しんだ建築デザインの仕事を辞め、まったく未経験の「構造設計」へ転身したのか。なぜ寝る間もない激務のなか、並行して学んでいたイシス編集学校が「救いの場」になったのか。
本記事は特別に1万字インタビューとしてお届けする。これは、イシス編集学校の[守][破][離][花伝所][多読ジム]風韻[遊]など、ほとんどの講座を網羅した稀有な体験記であるとともに、ひとりの人間が「好奇心」をエンジンに未知へと突き進んでいった傷だらけの冒険譚でもある。

プロフィール
山田細香

一級建築士、大阪在住。イシス編集学校には2016年、基本コース37期[守]に入門。応用コース37期[破]、風韻講座15季[遊]、編集コーチ養成コース28期[花伝所]を修了後、B面方眼教室師範代として41[守][破]に登板。世界読書奥義伝13季[離]、[多読ジム]スペシャル「村田沙耶香を読む」を受講。建築家・村野藤吾を敬愛し、村野が設計したホテルの見えるアパートを借りたほど。趣味は1945年から65年頃に日本で建てられた小住宅の模型づくり。ものづくりにかける熱量は全国展開された「千夜千冊エディションフェアin大阪梅田」でも喝采を浴びた。

 


■ 神戸・須磨で見た「1本のつっかえ棒」
  それが一人の人生を変えた

 

――建築のお仕事をなさっているとお聞きしましたが。

 

はい、建築士として働いています。いまは構造設計をしているんですが、もともとは意匠設計をしていました。社会人になって5年、学生時代を含めると10年間、意匠設計に携わって、30歳を前に構造設計に転身しました。

 

――ひとくちに「設計」といっても「意匠設計」と「構造設計」という区別があるんですね。

 

建物全体の計画や形、デザインを決めるのが意匠設計。そのデザインを成立させるために柱や梁のサイズ、鉄筋の本数、床の厚さなどを決めるのが構造設計です。人体に例えるなら、意匠設計は容姿や服装を、構造設計は骨格や筋肉を扱うというイメージでしょうか。

 

――なるほど。仕事内容にはかなり大きな違いがありますし、一般的に「建築士」と聞くと意匠設計が思い浮かびます。なぜ転身を?

 

一軒の住宅がきっかけでした。意匠設計をしていたときは、神戸市須磨区の設計事務所に勤めていました。須磨って坂が多いんですが、ある日、いつもとは違う道で帰宅しようと思って、ある家の前を通りかかったときに「ん?」と違和感を覚えたんです。よく見ると、坂道に建っているその家はかなり傾いていました。これは大変だと思って建物の裏手にまわってみると、壁につっかえ棒がしてあったんです。

 

――つっかえ棒! 住民の方が、なんとか傾きを抑えるために工夫したのでしょうか。

 

技術的に言えば、棒を1本立てたところで効果はありません。でも、その棒に住む人の切実さを感じたんです。そして、ここは阪神淡路大震災の被害地域だと思い出しました。

 

――あの震災はもう28年前。細香さんは当時から関西にお住まいでしたか。

 

はい、中学生でした。あの日は私が住んでいた大阪もすごく揺れて、母が「布団かぶって!」と叫びながら部屋に入ってきたのを覚えています。テレビ報道を見てその悲惨さに衝撃を受けたし、神戸方面の友達はしばらく学校に通ってきませんでした。つっかえ棒を見て、震災のことをすっかり忘れていたことに気づいたんです。

 

――地震の記憶のある土地では、「家」というものへの思い入れも強いものがあるんでしょうね。

 

それまでは、私にとって「建築をつくる」ことは「先生の作品をつくる」というイメージだったんです。そこに自分が携われることに誇りをもっていました。でも、建築は建築家にとっての「作品」ではなくて、持ち主の「財産」なんだって思い直したんです。

 

――建物を使う側への意識が強く湧いてきたんですね。

 

マイホームは一生をかけた買い物で、壊れては困るし、修理にもかなりのお金がかかります。傾いた家を見て、とにかく建物を支える骨組みについて知りたくなって転身を決めました。恥ずかしながら、意匠が専門だと構造のことは全然分からないんです。

 

――好奇心ゆえの転身でしたか。念願の構造設計を学んでみてどうでしたか。

 

それが、めちゃめちゃつらかったです(笑)。意匠設計と構造設計では使う言葉も全然違っていて、外国に来たような感覚でした。当時の事務所所長から「意匠が〈あ~ん〉で建築を語るなら、構造は〈0~9〉で建築を語る」と教わりましたが、2年くらいは本当に大変でした。

 

――30歳直前でまったく未経験の分野に飛び込むというのは、並の社会人にはない度胸に思えますが。

 

うーん、勇気を出したわけではないですね。構造のことを知りたいのに、知らないままでいることのほうが私にとってはつらかったので。

 


■地震の生存者を「車中泊」で亡くした悔しさ
 建築業界の矛盾にあえぎ、出会ったのがイシス編集学校

 

――イシス編集学校を知ったのも、構造設計に転身してからなんでしたっけ。

 

そうですね、転身して2年目でした。2010年7月、TBSテレビ「情熱大陸」に松岡校長が出ておられたんです。松岡正剛というお名前は、学生時代に寺山修司のことを調べていたときに何度か拝見していました。番組内ではイシス編集学校も紹介されていて、面白そうだなって思ったんですよね。それに当時は、意匠設計をしていたとき以上に建築業界に対する矛盾を感じていたので、「矛盾は抱えたままでいい」っていう校長の言葉が印象に残ったんです。

 

――そのとき感じていた「矛盾」ってどんなものだったんでしょう。

 

たとえば、コンクリートで建物を計画する場合、まず「計画供用期間の級」という建物の耐用年数を決めます。「30年は問題ないようにつくりましょう」「200年は建物の寿命がもつようにしましょう」とか。
でも、日本で200年も使い続ける建物ってあるのかなって。いまは、親が建てた家でさえ、間取りが生活に合わない、使いづらいという理由で建て替える人が多いと思います。ヨーロッパならいざ知らず、日本人にはひとつの建物を長く使う感覚は薄いと思うんです。

 

――たしかに……。実際の状況と法律の乖離は気になります。

 

当時はマンションも設計していましたが、私が住んでいる大阪府の空き家率は15%、市内で20%超の地域もあります。それでも100m級のマンションがいくつも建設されています。「こんなに家が余ってるのに、まだつくるんかい!?」って憤りを感じます。そこに少なからず自分が加担していることにも、何とも言えない気持ちになります。
私はいわゆる工学部ではなく、環境システム学科で建築を学んだんです。最初の講義は、建物の建設から解体までにCO2(二酸化炭素)がどれだけ排出されるかでした。だから、環境破壊をしてでも必要な建物を設計せねばと思っていましたが、働きはじめるとそんな綺麗事だけでは済まなくて。

 

――理想と現実の矛盾などを痛いほど感じておられた細香さんにとって、「矛盾を抱えたままで」という松岡校長の言葉はよりどころになったんですね。

 

「未知と既知はいっしょにある」という言葉も覚えています。構造設計って、目に見えないものとの戦いなんです。一般的な構造設計では地震時に建物にかかる力をX軸方向とY軸方向に分けて計算します。でも、地震発生時にきれいにX方向に力がかかるとは思えません。45度方向にかかったり、ぐるぐる回されたりすることもあるはず。地震の力は目に見えないし、どう動くかも分からない。私たちは実験や記録データに基づく仮定に対して計算することしかできません。地中に杭を打つときも、土の中を実際に目で見れるわけではないので、私たちが扱うのはそこにあるだろうと想定した地層なんです。


構造設計は「未知」を想定しながら「既知」のデータを使って計算や設計することばかりだと思っていたので、「既知と未知はいっしょにある」という校長の言葉でさらに納得がいきました。

 

――細香さんは「知りたい」という好奇心をエンジンに未知のフィールドに挑戦して、そこでもたくさんの問いを抱いてというお仕事人生ですね。2010年にイシス編集学校を知って、実際の入門は2016年。入門のきっかけはなんだったんでしょう。

 

東日本熊本の震災ですね。東日本大震災のあと、また疑問を感じたんです。95年の阪神淡路大震災の被害を受けて、97年から2000年にかけて建築基準法が改正されました。地震で倒壊した建物を検証することで構造設計の基準も見直されました。でも、2011年の東日本大震災の後に大きな法改正はありませんでした。建物が津波で流されて、残ってないからだと私は思っています。あれだけの被害があったのに見直す方向へ動かなかったことに対して、それはあかんのちゃうかって、思ったんです。

 

――あぁ。津波というのは、被害を検証する機会さえも奪ったのですね。それに加えて、細香さんにとっては2016年4月の熊本地震も重大なきっかけだったんですか。

 

阪神淡路大震災以降、児童の安全確保や避難所としての利用の観点から学校の耐震化が重視されて、国が公立学校の耐震化促進の方針を打ち出しました。その時期は、関西だけでなく四国・中国・九州まで、私ひとりでも100棟以上は担当するほど忙しくて。事務所のスタッフ全員、寝る間を惜しんで仕事をしてました。私たちは必死だったし、耐震化が進めば地震が起きても以前より状況が良くなるはずだと信じていました。

でも違ったんですよね。熊本では震度7が2度発生するという想定外が起こったこともあって、学校や体育館に避難するのではなく、車中泊を選んだ人が多かったんです。その結果、エコノミー症候群で亡くなった方が相当数いらっしゃったと知りました。あまりにもショックでした。「せっかく地震で命が助かったのに、狭い車内で過ごして亡くなるってどういうこと?!」「私たちが耐震補強した建物をなんで使わないの?!」って。いま思い出しても悔しいです。

 

――あまりにも無念ですね。

 

でも、そんな気持ちを同じ業界の人に漏らすと、みんなが口をそろえて「そんなことは考えなくていい」って言ったんです。思い返せば、「技術者は事後を思い悩むより、やるべきことをやる」ということだったと思いますが、ショックを受けていた私は突き放された気分になりました。

 

学生時代に「建築は問題解決だ」と教わりました。耐震補強は一棟あたり数億の費用がかかります。それなのに利用もされず、命も守れない。「なんにも解決してへん、おかしいやんっ!」そんな気持ちでいっぱいでした。と同時に、技術者はどこかで一般的な感覚からズレてしまったんじゃないかとも思いました。

 

だから、違う世界の人と話がしたくなったんです。そのときたまたま見かけたブログに「[守]を受けました」って書いてあるのを見て、「あの学校や。情熱大陸のあれや」と思い出して。異業種の方たちに出会いたいという期待をもって入門しました。


■講評に記された課題を6年越しにリベンジ
 山田細香がつねに思考を自由にしていられるワケ

 

――そして入門。基本コース[守]では、大音美弥子師範代の凱旋シラブル教室に入ることになったんですね。入門者は教室を選べないので、出会った教室がイシスにとっての「故郷」になるわけですが、それがホン・ゴジラという異名をもつあの大音師範代だなんて、イシス入門者はドキドキしていることと思います。

 

なんといいますか、面食らったって感じでしたね(笑)。最初に届いたメールに「正解はありません」「回答はすべて仮留めです」とあったんですが、「仮留め」の意味がわからない。学生時代でも仮留めで課題提出したら落とされちゃうし、自分にとっての100%に仕上げないと見てももらえません。それに構造設計は数字で表現することもあって、出てくる答えはひとつです。だから「正解がない」ということもよくわからない。

 

――意匠から構造へ移ったときのように、イシスはこれまで慣れていたルールが通用しない世界だったんですね。

 

でも教室で稽古していると、10名の学衆それぞれの回答が違うことにびっくりしました。編集学校では本当に正解はないんだなって実感しました。そしてなにより大音師範代の指南がすさまじかった。どんなことでも受け取って応える、なんでも知ってる。どれだけの人間の幅があるんだろうって、ただただ衝撃でした。

 

――そのあと[破]に進もうと思ったのはなぜですか。

 

[守]の稽古はすごく楽しかったんですが、方法はたくさん教えてもらったけど、使える感覚がないまま終わってしまったのが心残りだったんです。パレットに絵の具がたくさん出してあるだけで、絵はまだ描いてない。それで、応用コース[破]にいこうと思いました。

 

――[破]はどんな体験だったんでしょう。

 

ちょっとこれ、恥ずかしいんですけど、[破]のアリスとテレス賞でもらった講評を、いまでもずっと持ち歩いてるんですよ。書き写して手帳に貼ったりして。

 

――えっ!? イシスでは折に触れて、師範が学衆たちの作品に「講評」を届けていますが、その講評メールを読み返すとかではなくて、手元に保存して何度も読み返すという人は珍しいかもしれません。講評がうれしかったからですか。

 

いや、「残念」があったからだと思います。自分の作品を読んで、伝えてくださった課題を克服したかったんです。師範たちが心を尽くしてくださった言葉に対して報いたいというか。それで、2022年10月の多読ジムスペシャル「村田沙耶香を読む」では、もらった講評に書いてあった課題に挑戦しようと思ったんです。

 

――なんと6年越しのリベンジ! もらった講評はどんな内容だったんですか。

 

このページにあります(ノートを開く)。知文AT賞では福田容子師範から「自分ではない何者かに自分を明け渡したときに出てくる言葉と、別様の可能性に悦楽せよ」。これはモード編集に対してのコメントですね。
物語AT賞は原田淳子師範に書いていただきました。「世界の秩序やルール、因果関係をきちんと用意して、地を固めることで増す説得力」。私の物語には説得力がないという指摘でした。

 

――黒い付箋に真っ白い文字で、講評のキーフレーズを書き留めたんですね。それをどのように昇華しようとしたんでしょう。

 

[破]学衆当時を思い返すと、作者のモードに浸かってはいるけれど、プールに足元を浸すくらいの浅さだったように思います。福田師範からいたたいだ言葉を受けて「今回は村田沙耶香さんの世界観に頭までしっかり浸かろう。そうすればフィルターも変わって注意のカーソルがもっと違うものを捉えるかもしれない」「プロフィールが違う方向に動いて、私の書こうとするターゲットも変わるんじゃないか」って思いました。
原田師範の講評では「リアリティ」を問われていると感じていました。作り話でも、単なる思いつきでは説得力がない。どれだけ自分にとってリアルにできるかを考えていきました。

 

私が多読ジムで書いたのは「メタモルフォーゼ」という作品で、村田さんの『タダイマトビラ』に書かれてある「…淡いグレーをした星の表面を、生命体たちはひしめきあい、蠢いている」という、地球の表面を覆う人間の様子と、エディション『理科の教室』の前口上にある「…タングステンおじさんやシダの密生に憧れた」のシダが一面に広がっている様子が似ていると思ったことから発想した、植物を自分の身体に移植して融合していく物語です。でもこれが現実に全くありえないことだったらリアリティがないので、植物と人間の細胞が本当に融合できるのか、大学の研究を調べました。そして、リアルにするための手順(ダンドリ)をしっかり踏んでいこうと決めて、その手順を最終作品にしました。手順ごと作品にしようと思ったのは、錬成師範を務めた際に校長から頂いた花伝扇が「下書き線」を残した書だったことも影響しています。

 

――あのときの[破]の講評をバネにして作品を書いたものは、多読ジムスペシャルの「メソッド賞」に輝いたんですよね。

 

自分としてはあのときやれなかったことを、やりきった感があります。もらった講評に応えられたかなっていう嬉しさもありましたね。

 

――イシスの講評はたいへん手厚いですから、何年経っても、指針になってくれるんですね。話は[破]学衆時代に戻りますが、突破して、次に進んだのは風韻講座[遊]だったんですね。編集コーチ養成講座[花伝所]ではなくて。

 

花伝所は大変そうだったんで、「イシスの温泉」と聞いていた風韻講座[遊]にしました。でも、ぜんぜん温泉じゃなかったんですよ(笑)。連歌を巻くときも、方法をふんだんに使ってくる人のあいだに自分が入らないといけないのがつらかったですね。「なんで自分とこんなに違うんやろ?」って思っていたら、師範代を経験された方が多いことに気づきました。師範代経験者のすごさを知って、花伝所行ってみたいなって思ったんです。花伝所に行かないと、温泉にすら浸かられないのがわかったんで(笑)

 

――温泉に浸かるのにも方法がいるわけですか。ためらって進んだ[花伝所]はいかに。

 

実は、師範代に登板するつもりはなかったんです。私にはできないと思ってました。意匠設計をしていたときに大学の非常勤講師や専門学校の講師をやっていて、教える役割は自分には向いてない、苦手だなって感じたからです。

 

でもそのとき、[破]で講評をくださった福田師範が「苦手っていうけど、得意なことなんてそもそもないんちゃう?」って言ってくださったんです。「先達がやってきたことを見て、自分の方ができるって思えることなんてないやろ。自分に得意なこともないねんから、不得意なこともないやん」って。それでやる気になりました。

 

――勇気を得て[守]師範代へ。その頃はお仕事がとてもお忙しい時期だったと伺っていますが、どうでしたか。

 

教室があって救われましたね。師範代になると「仕事の世界」と「イシスの世界」という2つの世界を持てますよね。仕事がしんどくても別の時間軸があるって思うと、居場所があるというか。師範代って、指南を返さないといけない責任感はありますが、それ以上に回答が届く嬉しさがあります。師範代経験者の方はわかると思いますが、学衆さんの回答はどれもキラキラしてるんですよ。それぞれのダントツを見つけるたびに、伝えたいことが溢れてきて。
花伝所では、的を絞って分量も抑えた指南を書く方法も教わりましたが、そんなの吹っ飛んじゃうくらい伝えたいことがいっぱいでした。イシスに来て、師範代をやらないのは損だと思いますね。

 

――師範代の感覚は、お仕事にも生かされたのでは。

 

相手の方法を見るのは、施主や意匠担当者の想いを汲むときに意識しますね。構造設計では新築設計とは別に、既存建物を評価する分野があるんですが、方法を読み解くイメージで図面を見ています。過去の手書き図面を一つひとつ丁寧に見ていくと、図面を引いた人が私の身体にすっと入ってきて教えてくれているような感覚になって、当時の設計意図が読み取りやすくなったかもしれません。線の消し跡なんかもプロフィールを広げてくれます。

 

――編集も構造を扱うものですから、構造設計と似たものがやはりありそうですね。その後は[離]にも進まれて。

 

[離]では校長から忘れられない言葉をいただきました。私は宗教にトラウマがあって、どうしても乗り切れない、これ以上知りたくないという感覚があったんです。表沙汰でそのこと話をしたら、校長から「知りたくないというのは傲慢だ」と叱られて号泣しました。いまも「絶対に傲慢になったらあかん」と常に思うようにしています。

構造設計では、地震の力も、建物の耐力も、数字に置き換えます。数字に置き換えると、わかった気になっちゃうんです。でも、自然の力なんてそう簡単にわかるものじゃない。私たちが扱っているのはある特定のフィルターで取り出したひとつのスコアに過ぎません。これが全てではないと日々思ってます。

 

――細香さんって、AT賞の講評や校長からのコメントなど自分に宛てられた言葉をずっと大事に持ち続けておられるんですね。

 

表沙汰のときに、嫌な経験が思い出されてつらくなりますとお話ししたんです。そのとき校長は「思考はいつもつらいほうへ繋がるの? もしそうなら、繋ぎかえればいい」って伝えてくださいました。はっとしました。いまの自分に足りないのは、思考を繋ぎかえる先。接続先の選択肢を増やしていけば、思考の自由度も、精神の自由度も増すんだって気づきました。


■レゴで遊んだ少女時代
 これからの「弱い建築」を目指して

 

――そもそも細香さんが建築に興味をもったのはいつ頃なんですか。

 

小学生のときからですね。中学生になる直前までレゴで遊んでました。低学年の頃はとにかくレゴがやりたくて、友達との遊びを早く切り上げられないかなってそわそわしてました(笑)。

レゴではいつも家を作ってましたね。セット一式買ってもらうと、まずは参考モデルどおりに作って、それが終わったら手持ちのブロックと混ぜて新しい形を作ってみたり。

当時、16時頃からNHKで世界各地の風景を映すだけの番組があったんです。草原の風景とか、外国の風景とか。私は作ったレゴの家を持って、テレビの前にかざして「この色は街に合わんな」とか「屋根の形がうまくいったな」とか確かめて楽しんでました。

 

――建築家の片鱗がすでに。

 

もうひとつのきっかけは、演劇ですね。当時は奈良に「あやめ池遊園地」があったんです。そこに大阪松竹歌劇団の常設劇場があって、小学生の頃によく連れて行ってもらいました。

 

――あやめ池遊園地! 関西在住者としては懐かしい限りです。大阪松竹歌劇団って、宝塚歌劇団のような華やかな演出が魅力の女性劇団ですね。何に惹かれたんでしょう。

 

小学生だったこともあって、正直、物語の内容はよくわからなかったです(笑)、でも、最後にスターが降りてくる「階段」がとにかく好きでした。電飾が付いたり、スポットライトを当てたりして、スターをさらに輝かせる儀式に登場する階段がかっこいいと思ったんです。

当時は舞台美術も建築家が作っていると勘違いしていて、6年生の文集に「将来は建築士になりたい」って書きました。いまもその夢にしがみついてる感じです…。

 

――さきほど、学生時代には寺山修司に興味があったっておっしゃっていましたが、舞台に興味があったのはその流れで?

 

そうですね。中学生の時に蜷川幸雄さん演出の『身毒丸』を観ました。松竹歌劇団の華やかさとは違う、地下に潜ったようなほの暗い世界観に惹かれました。寺山さんが常設劇場ではなく仮設劇場や市街劇を上演されていたのを知ってからは、公演時にだけ巨大な野外劇場をつくる「維新派」にも興味を持ちました。建築もずっとそこに存在し続けなくてもいいんじゃないかと思い、大学時代は「仮設性」について研究していました。

 

――建築といえば強固なものが求められ、仮設性というはかないものは二の次になりそうですね。

 

地震大国の構造設計では「強さ」が求められます。でも、自然の力に対して「強さ」で解決するのは限界があると思っています。私は「弱さ」も考えていきたいんです。

よく考えてみると、自分の家を壊れないように作っているのは人間だけです。木の上にある鳥の巣はすぐ壊れるし、土の中にあるアリの巣も崩れます。壊れて自然に戻る。でも、人間だけが壊れないように作ろうとしているし、鉄とコンクリートの建築は自然に戻らずゴミになるだけ。壊れやすいけどその分建て替えやすい建築があってもいいと思います。

それに構造設計では、一気に建物が倒壊しないように、床よりも梁、梁よりも柱が強くなるように設計します。これは「強さ」を求めながらも、弱くなる部分を設定して「壊れる順番」を決めているとも言えるので、私は強さがもてはやされる建築であっても「弱さ」を見つめていきたいと思っています。

 

アイキャッチ:山内貴暉

 

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  • 梅澤奈央

    編集的先達:平松洋子。ライティングよし、コミュニケーションよし、そして勇み足気味の突破力よし。イシスでも一二を争う負けん気の強さとしつこさで、講座のプロセスをメディア化するという開校以来20年手つかずだった難行を果たす。校長松岡正剛に「イシス初のジャーナリスト」と評された。
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