本の読み聞かせでは、読み上げる者とそれを聞く者のあいだに読書世界が立ち上がる。ふたりで面と向かって話し合うよりも、一冊の本から生まれる読書世界を通じて交歓する方が、ずっと分かり合えることもある。老いた母の介護では小さな行き違いが絶えずおこり、心がささくれ立っている。そんな心の荒地を読書世界の効能で少しでも減らせればいい、という思いで始めた読み聞かせであった。しかし、「荒地」と「家族」を題名にもつ本書が母と私にもたらした変化は、想像をはるかに超えるものであった。
八十五歳の母の指が、『荒地の家族』の32ページの文章をなぞっていく。リウマチ気味の関節が算盤の珠のように膨れているせいか、指がよけいに細く弱々しく見える。私は指の動きに合わせて、文章を読み上げる。小さい字を読むのは眼に堪えるというので、ズームができる電子端末を買ってはみたが、乾燥した年寄りの指では画面がきちんと認識してくれないらしく、リクライニングベットの脇にそのまま放り出してあった。ということで今は、私が介護の傍ら、母の読みたい本を読んで聞かせることにしている。
文章をなぞる指のスピードに合わせて、元の生活に戻りたいと人が言う時の「元」とはいつの時点か、と読み上げ、私は言葉をつまらせた。
33ページに添えられている母の左手の甲は、私が記憶している「元」の甲よりもずっと骨っぽく、皺が目立ち、血管が浮き出ていた。それはなぜか、幼い私の髪をわしゃわしゃと掻いたり、死んだペットの文鳥をとまらせていた母の若い手を想起させ、介護の要らない、若い母のいた「元」の世界に戻りたいという思いを突沸させる。そして母は母で、読み上げる私を「今」に置き去りにして、不帰の客となった親族や旧友、文鳥がたむろしている「元」の世界にふらっと遊びに行ってしまう。
「元」を意識してしまうのは、「元」における喪失が取り返しのつかないほどに大きいために、「元」と「今」が完全に異なる世界となったからだ。もしそれほどの喪失がなければ、「元」も「今」も明確に区別されず、絶え間ない変化の一部として受け流すことが出来る。元々できていたことが今はできない。元の身体にあった若さが失われ今は老いている。元は自分の傍らにいた家族が今はいない。元々あった街が震災でいちどきに失せて、今は跡形もない。たとえ道路やビルを建て直したとしても、「元」の街に息づいていた人間の営みをそっくりそのまま回復させることはできない。そのような喪失により世界に生じた決定的な違いを、変化として甘受できるほどのしなやかさを、多くの人間の魂は有していない。
とくに喪失が愛する者との永別であった場合、「元」を生き残って「今」も生存する者は、なぜ自分だけが生き残ったのか、自分が代わりになるべきではなかったのかという罪悪感に苛まれることもある。母は十二歳の頃に弟を結核で亡くしているが、いつも夢想の果てに行き着くところは、「弟に家の事をやらせすぎた。私が代わってやればもう少し長生きできたかも」「弟は頭が良かった。弟の代わりに私が病気になればよかった」という呵責の涙だ。こうなると、「弟さんの代わりに母さんが死んじゃったら自分はこの世にいないね」と声をかけても、母には一向に届かない。
『荒地の家族』の主人公もまた、狂おしいほどに「今」を生きていることを罪悪と感じている。植木屋として独立したばかりのときに津波で商売道具を全て失い、その二年後に妻をインフルエンザで亡くし、再婚相手は死産により精神的に不安定になり、主人公のもとを離れた。息子の啓太は再婚相手と反りが合わず、父である主人公も疎ましく思っている。震災により家族を失っているのではなく、震災による経済的困窮が間接的に妻の命を縮めたのだが、主人公はそれを自分のせいだと責めている。再婚相手のお腹のなかの子が成長をやめたのも、息子から母を奪ったのも、すべて自分が悪い。これだけの辛苦を家族に与えながら、「今」をのうのうと生きていることを主人公は恥じている。その魂の疼痛に耐えかねて、植木屋としての仕事に没頭し、罪の意識を消そうとしている。時間が消えると感じるまでひたすら刃物を研いだり、身体の節々が軋んで音を立てるくらいに肉体を酷使することを、むしろ喜びと感じている。暇になれば疼痛がよみがえり、ハンガーにかかった雨合羽を白装束の妻と見てしまう。
隠れた者の幻影を見てしまう主人公の苦悩を読み伝えることは、「元」の虜になりかかっている母の状況を悪化させることになるのではないかと懸念した。70ページを読み終えたところで本を替えようかと思ったが、母は「気持ちが分かる」と言い、さらに読み進めるよう私に要求した。
私は「しめた」と思った。闘争を続ける主人公は、いずれ「今」に帰還する。それは母にとっても「元」の幻想から「今」へと意識を切り替えるきっかけになるだろうと思ったからだ。ただ、「今」を生きる罪悪感に苛まれたとき、ふと私だったらどうするだろうかと考えた。主人公のように仕事に逃げるというのもあるが、酒や快楽に逃げるほうがよくある形ではないかと感じ始めたとき、そのフィルターにとびきり強い反応で捉えられたのが、酒浸りで、癌を患い、密漁を犯した明夫だった。
明夫は主人公の幼なじみで、愛想を尽かして出て行った妻と娘を震災で亡くしている。主人公と同じように、妻と子が儚くなったにもかかわらず自分だけが生き残っていることを恥としている。主人公と明夫は一対のキャラクターで、互いによく似ているように思われたが、31ページのローラー車の話から、明夫の方が主人公より「元」の虜になりやすい質であることは明らかだった。
主人公と明夫が初めて取り返しのつかない喪失を認識したのは、小学生の頃。工事現場で遊んでいた主人公たちを注意した誘導員が、同じ日の夜にローラー車に轢かれて亡くなったことをニュースで知り、「元」はいた誘導員が「今」はいないこと、ついさっきまで確かにあった生命が、瞬く間に消失したことを二人は認識したのだが、二人の反応は全く対照的であった。「人が亡くなったという事実がピンとこなかった」という主人公に対し、明夫はローラーでぺしゃんこになった誘導員の苦痛を想像し、涙するのである。
明夫は主人公よりも、儚くなった者に寄り添える人間である。だから、家族を亡くして「今」を生きる罪悪感は、主人公よりも数段強かったはずだ。彼は魂の疼痛を酒でごまかし、癌になって命のリミットを認めると、家族に顔向けできないという焦りからか、残された生を少しでも充実させようと、犯罪に手を染めてまで金を稼ごうとした。主人公が母の心を捉えたように、明夫は私の気持ちをわしづかみにする。私の中の明夫は、いよいよ読み上げる語気を強めてゆく。
全てを読み終えたとき、明夫はすでに「元」の世界の住人となっていた。あたかも映画『インターステラー』で、クーパーが自分の小型ポッドを切り離してアメリアをブラックホールの重力圏から脱出させたように、明夫は主人公を「元」の重力圏から脱出させ、「今」へと帰還させた。その役回りになったことを明夫は「報いだ」と評したが、主人公もまた、明夫の贖罪の感情を含め、「元」の世界の人々の気持ちを背負って「今」を生き続ける存在となった。主人公の髪と髭が真っ白になった描写は、まるでウラシマ効果のように、主人公の生きる時間が他と異なるものとなったことを印象づける。そして、それでも飯を食うという行為が、すなわち生きることがこれからも続いていくことを、主人公の母の和子が告げるエンディングが、私と母の読書世界に啓示となって響いていた。
本を閉じると、すでに朝であった。庭の石榴の木にシジュウカラが群れている。いつもの母であれば、その泣き声をすぐに昔飼っていた文鳥だと言い張った。しかし、「今」の母は「あれは何の鳥だえ、文鳥ではないね」と私に尋ねてきてくれた。
●読み解く際に使用した編集の型:
物語マザー、フィルター、編集思考素●型の特徴:
書評では読前・読中・読後を描く、すなわち本が読者にどのような変化をもたらしたかを
描くという観点から、「母と私の関係」を読者として、本書がその関係にどのような変化をもたらしたかを描くこととした。本書では「今」と「元」の<二点分岐>が「生」と「死」の<二点分岐>にも読み替えられることを踏まえ、主人公や明夫の<彼方での闘争>や
<彼方からの帰還>が「母と私」にも生じているように描くことで、小説での変化と「母と私」の変化を同調させるようにした。主人公と明夫の死別は、主人公が明夫という犠牲を伴いながら<彼方からの帰還>を達成したことを示すシーンであるが、その説明のために、<似たものフィルター>を用いて映画『インターステラー』のブラックホール脱出シーンを引用した。
著者: 佐藤 厚志
出版社: 新潮社
ISBN: 978-4-10-354112-7
発売日: 2023/1/19
単行本: 160ページ
サイズ: 19.1 x 13 x 2 cm
宮前鉄也
編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。
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