声なき死を、語りがそっと掬い上げる。封じられた語りの上に、雪が降り積もる――それは、すべてを覆い尽くす沈黙か、それとも、別世から届いた語りの余白か。たった一人の語り手の静かな一言が、文化の蓬莱をそっと開いていく。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第十六回は、「語られなかった死」と「語らせなかった制度」をめぐる、文化と権力の本質的対立を真正面から描き出した回です。将軍家の嫡男・家基の突然の死、幕府の重鎮・松平武元の暗殺、そして文化の異才・平賀源内の獄死――これら三つの死はすべて、「真相」が語られることなく処理され、制度によって“封じられたまま”歴史に埋められようとしています。制度は語ることを恐れ、沈黙によって政の安定を維持しようとします。それに対して、蔦屋重三郎をはじめとする文化の担い手たちは、語られなかった者たちの声を記憶に変え、未来に語り継ごうとします。本話で浮き彫りになるのは、「語ることは命を危うくする」制度の構造と、「語らなければ命は失われたままになる」という文化の倫理であり、そのせめぎ合いこそが、この第十六回の核心です。
源内の崩壊――制度が作り上げる“狂気”
平賀源内が制度に捕らえられることになったのは、一件の不可解な殺人事件が発端でした。町人・久五郎が斬殺され、その場に居合わせた源内が“犯人”として訴えられます。事件当夜、源内は下戸であるにもかかわらず酩酊状態であり、帯刀していた竹光が“真剣”にすり替わっていたという証言が、奉行所の記録には都合よく整えられていきます。
さらに、事件前から源内へ煙草を持ち込む男の存在が描かれており、杉田玄白は源内の異常な言動と状態を観察したうえで、その煙草に薬物のようなものが仕込まれていた可能性を、医学的な所見として慎重に示唆します。
しかしこの科学的推理は制度に取り上げられることなく無視され、吟味はすでに出来上がった筋書きをなぞるかのように儀礼的に終息します。制度は直接手を下すことなく、状況を整え、“狂気に堕ちた者”という物語を完成させることで、語り手の人格を破壊し、語る資格のない者へと貶めていくのです。牢内に繋がれた源内は、そうして制度に仕立て上げられた“語り得ぬ存在”として、自我の輪郭を失い始めます。彼の語りは断絶し、現実と幻覚の境界も曖昧になっていきます。
「俺には声が聞こえるのに、そこには誰もいねぇし、覚えがねぇのに人を殺してて…何が夢で、何がうつつだか…」
この台詞は、制度に語りを奪われた者が、語りの場を封じられたまま内側から崩壊していく過程を、痛切に浮かび上がらせます。それは制度が手を汚すことなく行う“静かな暗殺”であり、語る力を奪われた人間が制度の論理に回収され、消されていく仕組みそのものの帰結なのです。
田沼と源内――友情と非情の境界線
源内の牢を訪れた田沼意次は、かつて志を共にし、夢を語り合った友の変わり果てた姿を前に、言葉を失います。かつて快活だった眼差しは曇り、語ることの意味さえ見失った源内が、ただ涙を流す様子を見て、田沼は呟きます。
「夢ではない。俺はここにいる、源内……」
この台詞は、かつて語り合うことで築かれていた信頼と共鳴の関係が、制度と現実の力によって断ち切られてしまったことを強調しています。“語り合える関係”から“語り得ぬ存在”へ――ここに、制度が友情をも壊す構造が露わになります。田沼は、源内を助ける術を持たなかったわけではない。しかし、それを選ぶことはできなかった。家基の急死によって幕府の中枢が動揺し、手袋事件の余波が将軍家にまで波及しかねないなかで、息子・意知の忠告もあり、「源内という火種」を排除するほかなかった――それが田沼の沈黙の理由です。ここで田沼が選んだのは、制度の論理に殉じるという非情な決断でした。それは「正しい判断」であったかもしれません。しかし、「誠実な選択」ではなかった。田沼は、制度の都合のために、一人の人間――そしてかつての友――を切り捨てたのです。彼はそれを語らない。だが、その顔には消え難い罪が沈殿しています。
源内の裁きは、もはや裁きと呼べるものではありませんでした。奉行所の吟味は儀式化され、検証されるべき証言は封じられ、杉田玄白の科学的推理(煙草に仕込まれた薬物)も一顧だにされないまま、源内の死は「公式な記録」として処理されます。ここで浮かび上がるのは、近代的法制度以前の“語りの構造”です。制度は事実を問うのではなく、「秩序が揺らがない語り」を選ぶ。それがたとえ嘘であっても、秩序が保たれるならば正義とされてしまう。冤罪とは、証拠の不備によって生じる誤判ではなく、語ってはならない真実を隠蔽するために制度が積極的に選ぶ語りの形なのかもしれません。
田沼と蔦重――語る者と語らせぬ者の対決
平賀源内の冤罪を信じて疑わぬ蔦重たちは、事の真相を求めて田沼意次に直談判を試みます。「酩酊して人を斬るなんて、下戸の源内にはありえねえ」「竹光を真剣に持ち替えるなんて、そんなの仕組まれたに決まっている」――事実をひとつひとつ積み上げ、語ろうとする者たちの言葉に、田沼はあくまでも冷静に、しかし突き放すように応じます。
「この前、源内に会うてきた。奴はもう、我らが知る源内ではなかった。今の奴ならやりかねん。それが、わしの見立てだ」
この言葉に露呈しているのは、「事実」よりも「制度の都合」が優先されるという、幕府の論理そのものです。危険なのは事実ではなく、それが語られてしまうことで政が揺らぐこと――だからこそ、最初から“語らせない”という沈黙の戦略が取られるのです。この冷徹な判断の直後、源内の獄死が伝えられます。田沼はあたかも他人事のように「まこと、無念であった」と呟き、その場を立ち去ろうとします。しかし、蔦重は激しい怒りを抑えきれず、田沼の背に声を投げつけます。
「田沼様は、源内先生に死んでほしかったんじゃねえんですか!」
「源内先生は、気を回して普請の話も回してきたって…そう言ってましたよ!」
怒気と涙が入り混じる声に、田沼の付き人や須原屋が蔦重を制止しようとしますが、蔦重はなおも叫びます。
「源内先生になにか、まずいことを握られてたんじゃねぇすか!」
この問いに対して、田沼は立ち止まり、静かに返します。
「ありがた山、察しが良いな。俺と源内との間には、漏れてまずい話など山ほどある。何を口走るかわからぬ狐憑きは、恐ろしいからな」
田沼は、制度の側に生きる者として、「語る者」を処理する必要性を認めつつも、その選択が「制度のための倫理」であって、「人間としての倫理」と相容れないものであることを知っている。それゆえの一瞬の沈黙、表情の翳りは、彼がこの処理を「完全に正義とは思っていない」ことを静かに示唆しています。
見立てられた墓前――語り直す決意の場
物語のクライマックスは、制度の言葉に敗れた蔦重が、文化の言葉を立ち上げ直す瞬間に置かれています。その舞台は平賀源内の墓――正確には、“墓に見立てられた”場所があります。源内の遺体は、罪人として牢内で処理されたため、友人のもとへ引き渡されることはありませんでした。つまり、物理的な遺体の所在が失われたまま、彼は制度に処理され、記録としてだけ存在する者となったのです。
このとき、墓とは“実在する亡骸”を納める場所ではなく、語られなかった死を、語ることで弔い直すための場=文化的儀式の空間として機能しています。その「語りの空間」に蔦重は座り込んでいます。制度によって黙殺された源内に、言葉を捧げる場所として“墓”を見立てているのです。
須原屋が近づき、問いかけます。
「まだ受け入れねえかい?」
蔦重はぽつりと答えます。
「俺、信じねぇことにします。源内先生が、死んだって」
「誰も亡骸は見てねえんでしょう。罪人の躯は、引き渡してもらえねえからな」
ここで蔦重が語っているのは、死そのものの否認ではありません。制度が「語らなかった死」を、“語りによって生かし直す”という文化的態度への転回なのです。その語りは、冗談の形を取りながら、次第に確信を帯びていきます。
「そこを逆手に取るやつがいたってのはどうです? 源内先生の熱心な読者がいて、ここは死んだことにして、とんずらしましょうってね」
「どうせ躯は引き渡しされない。誰もわかりゃしませんよって…そんなこと、ねぇとは言い切れねぇっすよね」
「わからねぇなら、楽しいこと考える。それが俺の流儀なんで」
涙を滲ませながらも、蔦重は語り続けます。彼の言葉は、制度が遮断した「死の記憶」に対して、文化の側から開く“新たな記憶の扉”なのです。須原屋もまた、その想いを受け止め、笑いながら応じます。
「そうかい。じゃあ俺はな――平賀源内を生き延びさせるぜ」
蔦重が顔を上げると、須原屋はまっすぐ前を見据えて言います。
「この須原屋、源内先生の本を出し続けることでさあ、ずうっと、ずうっと――それこそ俺が死んでも、源内さんの心を生かし続けることができるだろう」
蔦重はその言葉に何かの確信を得たかのように驚き、そして墓に顔を伏せて嗚咽します。須原屋はその背に、静かに語ります。
「伝えていかなきゃあ。どこにも収まらねぇ男がいたってことをよぉ」
この言葉は、「制度には収まらなかった者」を、「語りの場=出版」においては“収め直す”という、文化の側の葬送であり、継承の宣言でもあります。そして、その声に重なるよう
に、かつて源内が蔦重に語った言葉がよみがえります。
「おめえさんはこれから版元として、書をもって世を耕し、この日の本をもっともっと豊かな国にするんだよ」
この言葉が墓前で響くのは偶然ではありません。源内の言葉は、文化の倫理として“再起動”しているのです。制度に葬られた命を、文化の語りによって生かし直す。その営みこそが、「語り直し」であり、出版の根源的な使命であり、見立てとしての墓は、その営みの出発点として据えられた“象徴空間”なのです。
語り直すことは、制度に対する文化の祈り
『べらぼう』第十六回が描いたのは、制度と文化、沈黙と語りという根本的な対立構造でした。田沼意次は語らないことで政の均衡を守ろうとしました。それに対し、蔦屋重三郎は語ることで、制度に葬られた者たちの命をもう一度、生かし直そうとしたのです。出版とは、制度が黙殺した声を、物語として未来に編み直す祈りの営みであり、編集とは、記憶に新たなかたちを与えることで、命を語り継ぎ、生き延びさせる倫理の技術です。そして、その決意が静かに形を取ったのが――雪の降る夜の吉原でした。
蔦重は、制度が抹消した源内の声を、もう一度拾い上げる覚悟を、ひとり噛みしめていました。
「おれも、伝えていかねえとな」
この一言は、制度に押し黙らされた声に対して、自らの語りを差し出す者の宣言であり、語り継ぎの火を、自らの手で再び灯そうとする者の決意でした。降りしきる雪は、白く世界を均していきます。それは制度が、あらゆる記憶を白紙に戻そうとする力の象徴のようでもあります。しかし、そんな無音の統治のなかで、蔦重の声は沈黙に吸い込まれることなく、逆にその静けさのなかでいっそう強く響きわたっていきます。
雪は、沈黙の象徴であるのと同時に、語りが浮かび上がる余白でもある。この演出は、記憶の白紙化を望む制度に対して、文化が再び言葉を書き加えていくという対比に他なりません。蔦重が掌に雪を受けるその仕草は、まるで別世からの声を受け止めるかような、慎ましくも、確かな編集者のジェスチャーでした。その掌の上に、これから語られていくべき物語が、ひとつひとつ、降り積もっていく――そんな兆しが、このシーンには確かに存在しています。
蓬莱とは、語られなかった者たちが再び語り直されるための、文化の理想郷の名。そしてその入口は、たった一人の語り手の、たった一つの静かな言葉から、静かに開かれていくのです。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十一
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その九
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一
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