草むらで翅を響かせるマツムシ。東京都日野市にて。
「チン・チロリン」の虫の音は、「当日は私たちのことにも触れてくださいね」との呼びかけにも聴こえるし、「もうすぐ締め切り!」とのアラートにも聞こえてくる。

「語ること」が評価され、「沈黙」は無視される。けれど私たちは、ほんとうに語りきれているだろうか。語る資格を問う社会、発信する力に価値が置かれる現代。そのなかで、“語れなさ”が開く物語が、ふたたび私たちに、語りの意味を問いかけてくる。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
第二十六回「三人の女」
語りの政治とパフォーマティヴィティ──許されざる声の倫理
物語において、「語る者」とは主人公、あるいは実際に最も多く発言しているキャラクターを指すわけではありません。もっと深く問うべきなのは、「誰が語ることを許されているのか」ということです。つまり、ある出来事や気持ちについて“語っていい”とされる人と、そうでない人がいるとしたら──その差はどのように決まっているのか、という問題です。
これは、単なる個人の話術や才能ではなく、社会や制度がどのような人の言葉を「信じるに値するもの」とみなすかという構造の問題です。たとえば、肩書のある人の話は重く受け止められ、名前のない人の声はかき消される。これは語りの内容ではなく、「誰が語っているか」によって、その重みや正当性が左右されてしまうという現象です。
このように、語りとはただの表現ではなく、何をどう語れるか、そもそも語る権利が与えられるかという〈見えないルール〉に支配されているのです。これを「語りの政治」と呼ぶことができます。
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』は、まさにこの「語りの政治」を根底から問い直す試みとして構築された物語です。とくに第二十六回では、制度的な語りの外側に位置づけられてきた三人の女──つよ・唐丸(歌麿)・てい──が、それぞれの〈語れなさ〉を抱えたままに発する周縁の語りによって、蔦屋重三郎という「語りをつなぐ者」に新たな中心性を与えていくプロセスが描かれました。
ここで言う「女」とは、生物学的な性別ではなく、〈制度〉が規定する語りの枠組みに対する〈逸脱〉としての立場を意味します。換言すれば、「男=制度=語れるもの」とされてきた構造の外に置かれた存在としての「女」です(※本稿での「女」という言葉は、社会的に語ることを許されにくかった立場を象徴的に指すものであり、性差に基づく価値判断とは一線を画しています。実際、近代文学における語りの変革は、しばしば女性の筆によってもたらされたことを忘れてはなりません)。この構造的な位置づけは、哲学者ジュディス・バトラーが提唱する「パフォーマティヴィティ」──つまり性別や主体性が社会の中で繰り返し演じられ、制度的に形づくられるという考え方とも通じています。
つよ──制度の外部に棲む「身体知」としての語り
蔦重の母・つよは、江戸という制度都市の〈外部〉から流れ込んできた、語りの野生とも言える存在です。飢饉と貧困に喘ぐ下野で髪結いとして生き延びてきた彼女は、戸籍にも、問屋制度にも記されることのない「名を持たぬ者」として、社会の網の目からこぼれ落ちた場所に身を置いてきました。理屈ではなく勢いで、計画ではなく嗅覚で、人と場を読み取り動かすその身ぶりには、制度が語りを整序する以前の、より根源的な力が宿っているように見えます。
例えば、人の家に居候するやいなや、勝手にお客を呼び込んで髪結いを始め、そのついでに新刊の本を宣伝してしまう。この行動は、言葉で説得するのではなく、その場の空気を瞬時に読んで状況を自分のペースに塗り替える「生きる知恵(身体知)」の発露です。そして、息子・蔦重の「編集者」としての才覚も、この母の「身体知」がルーツになっていると考えられます。ルールに全面的に従うわけでもなく、ほんの少しだけ“ズラして”面白くするという彼の手法は、つよの「身体知」を出版の世界で応用したものと言えるでしょう。
ここで重要なのは、つよが社会に反抗して、意図的にルールを壊そうとしているわけではない点です。彼女はただ、自分らしくパワフルに生きているだけ。しかし、その生き方自体が社会の「当たり前」とズレているため、結果的に制度のルールを揺さぶってしまうのです。
こうした「ズレが社会を動かす」という考え方は、ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」とも重なります。これは、「男らしさ」や「女らしさ」といったものは生まれつきではなく、社会のルールに従って皆が演じることで作られる。しかし、誰もその役を完璧には演じられないため、必ずそこに“ズレ”が生じる。そして、その“ズレ”の積み重ねが社会を変えていくきっかけになる、という考え方です。
つよはまさに、この“ズレ”を体現する存在です。彼女は制度の中心にいるわけではありませんが、その周縁から、静かに、しかし確実に社会のバランスを揺さぶっています。このパワフルで逸脱的な生き方は、目には見えない形で、息子・蔦重の中に確かに受け継がれているのです。
唐丸──自己なき模倣者の創造性とズレの倫理
唐丸(歌麿)は、絵師として並外れた模倣の技術を持ちながら、「自分の絵がない」「固有の様式を確立していない」と評されてきた人物です。しかし、まさにこの「自分を持たない」ことこそが、彼の創造の中核にあるとも言えるのです。
制度はしばしば「自分らしさ」や「唯一性」を価値の基準とします。語りの制度においても同様に、特異な文体や独自の視点といったオリジナリティが、承認や評価の前提とされます。けれども唐丸(歌麿)は、その軸を意図的に、或いは無意識に、するりとすり抜けて生きてきました。彼は自己を内面に確保するよりも、他者の語りや形式を写し取り、自らを媒介の場として構成していきます。
唐丸(歌麿)の語りは、「私が語る」のではなく、「語りが私を通過する」に近い。それは、ジュディス・バトラーが論じる〈パフォーマティヴィティ〉──制度的規範を反復しつつ、そこに生じるズレや逸脱を通して制度を内側から撹乱する行為──のもうひとつの変奏でもあります。唐丸は「語る主体」になることを拒みながら、むしろ「ズレとして語られる身体」そのものへと変貌していくのです。
このような唐丸(歌麿)の在り方は、現代のデジタル文化にも接続可能です。たとえば、SNSのなりきりアカウント、Vチューバー、ボーカロイド、ミーム──いずれも「自己なき模倣」「オリジナルの不在」を前提にした表現です。そこでは、「誰が語ったか」よりも、「どのようにズレて再演されたか」が創造の鍵となる。唐丸(歌麿)は、まさにそうした〈再演の回路〉として作動しているのです。
蔦重にとって唐丸(歌麿)は、語りの自我を持たないが故に、他者性を無限に引き受けられる存在でした。媒介であることを引き受け、自己を主張せずに通過させる──それは、編集者にとって扱いやすいだけでなく、制度を内側から変容させるラディカルな可能性を秘めています。蔦重は唐丸(歌麿)を通じて、制度の形式を壊さずにすり抜け、逸脱の種を蒔くことができる。だからこそ蔦重は、唐丸(歌麿)を弟と呼び、語りの制度を更新する存在としての可能性に賭けているのです。
てい──語らないことの倫理、逸脱の力としての沈黙
蔦重の妻・ていは、自らを「つまらぬ女」と称し、「華やかさも商才もない」として、蔦屋の女将に相応しくないと語ります。その語りは、反抗でも戦略でもなく、ただ誠実な自信のなさと、率直な劣等感の表出にすぎません。しかし、この“語れなさ”の身ぶりこそが、制度の語りを揺るがす倫理的な逸脱として機能していくのです。
ていは語ります。
「江戸一の利き者の妻は、私では務まらぬと存じます。私は、石頭のつまらぬ女です。母上様のような客あしらいもできず、歌さんや、集まる方たちのような才があるわけでもなく、できるのは帳簿をつけることくらい。今をときめく作者や絵師や狂歌師、さらにはご立派なお武家様まで集まる蔦屋でございます。そこの女将には、もっと華やかで才長けた、例えば、吉原一の花魁をはれるような、そういうお方が相応しいと存じます」
この語りは、自分を「語るに値しない」とみなす感情に動かされています。けれども、ていがその理由として挙げる「華やかさ」「社交性」「目立つ才能」こそが、語りの制度が無意識のうちに語り手に課している条件なのです。つまり、ていの沈黙や引き下がりのふるまいは、そのまま制度が規定する「語れる者/語れぬ者」の境界線を露呈させる行為であり、結果として制度そのものを批評する力を帯びていきます。
このような「語らなさ」が制度批評として立ち上がる構造は、ジュディス・バトラーの「パフォーマティヴィティ」──語りやジェンダーの役割は社会制度の反復的演技によって形づくられ、常にズレや破綻を含みながら再生産されるという思想──とも通じます。バトラーは、語ることの不可能性や沈黙そのものが、制度の裂け目を指し示すことがあると論じています。ていの「語れない語り」は、まさにこの沈黙のパフォーマティヴィティに他なりません。
ここで重要なのは、ていが「黙ること」で物語から消えていくわけではないという点です。彼女は、ただ「語らない」のではなく、「語れないということを語る」存在なのです。そのパラドクスにこそ、語りの倫理の原点があります。
その語りを受けた蔦重の応答は、彼女の“語らなさ”を、別の角度から肯定します。蔦重の十八番である“ズラし”の語りです。
「そりゃあ、随分な言い草ですね。あんたは江戸一の利き者だ。けど、てめえの女房の目利きだけはしくじった。おていさんはそう言ってんですよね」
さらに、蔦重は続けます。
「おれは、おていさんのこと、つまんねぇって思ったことねえですぜ。説教じみた話は面白えし。陶朱公のように生きろって。この人、まともな顔してめちゃくちゃ面白れぇって思いましたぜ」
ここで蔦重は、ていの「逸脱の語り」を読み取り、その面白さを認めています。すでに彼女には「語りの形式」を変える力が備わっていると断言しているのです。そして最後に、蔦重はこう言葉を重ねます。
「出会っちまったって思ったんです。俺と同じ考えで、同じ辛さを味わってきた人がいたって。この人なら、この先、山があって谷があってもいっしょに歩いてくれんじゃねえか。いや、いっしょに歩きてえって」
この言葉には、語りの“能力”ではなく、語りをめぐる“経験”を共有する者としての、深い共振が宿っています。制度にうまく適応できなかった記憶、語ることを許されないと感じた時間──そうした〈語れなさの記憶〉こそが、語りの倫理の出発点たり得る。蔦重は、かつての自らの漂泊と挫折のなかで、痛みとともにそのことを体得しました。そして今、目の前に、同じ痛みを知る女性がいる。だからこそ彼はていに語ります。あなたこそが、語りの倫理を共に歩める存在だ、と。
ていは、自らを「つまらぬ女」と呼びながらも、その沈黙と語れなさのうちに、物語を組み替える力をひそかに宿していました。彼女の語りは、制度を声高に告発するものではありません。むしろ、語りの片隅で微かにずれていくことで、その輪郭を静かに揺るがせていく。その身ぶりは、語りの資格を〈声〉ではなく〈経験〉に、〈中心〉ではなく〈周縁〉に見出そうとする蔦重の編集倫理と深く響き合っています。
このシーンが描くのは、「語られなさ」にこそ語りの未来が宿るという逆説です。編集工学における「地と図」の型に照らせば、語れなかった者が語りに触れようとする──その祈りにも似た運動こそが「図」となり、それを支える蔦重とていの契りが、沈黙の深みに根ざした「地」として提示されているのです。
中心に触れる涙──唐丸の「語られなさ」への祈り
夜、蔦重とていがようやく本当の夫婦として関係を結ぶその傍らで、唐丸(歌麿)がそっと涙を流しながら「よかったな、蔦重」とつぶやくシーンがあります。このささやかな挿話は、『べらぼう』という物語の深部にひそむ〈語りの政治性〉が最も繊細に浮かび上がった瞬間です。
唐丸(歌麿)は、自分には語る資格がない──そう感じるあまり、蔦重のもとを離れようとしていました。画才はあっても自我はなく、制度に名を持って参入することができない。そんな彼にとって、蔦重とていの契りは特別な光景でした。「耕書堂にふさわしくない」とされていたていが、語れなさごと包み込まれて承認された。そして同時に、吉原者として軽んじられてきた蔦重が、日本橋の格を象徴する女性に受け入れられた。その瞬間、唐丸(歌麿)は、他者の語りを通して“代わりに救われた”ような感覚に満たされたのです。
語られなかった者が、他者の語りによって、間接的にではあれ制度の中心に一瞬触れることができた──この構造は、ジュディス・バトラーが論じた「言語化されない存在が、他者の承認によって可視性を得る」という倫理的契機とも重なります。
ていの「語れないということ」をめぐる語りは、唐丸(歌麿)の孤独を濯ぎました。唐丸(歌麿)の涙は、制度の周縁から放たれた、ささやかで深い祝福であり、語りの未来への祈りにほかなりません。
語りたくなさの文学──現代、そして文学史への接続
『べらぼう』が提示する批評性は、あからさまな制度批判ではありません。むしろ、「語れなさ」や「語りたくなさ」「自信のなさ」といった素直な感情のなかに、語りの制度を内部から照らし出す力が宿っているのです。語れない者がいる、語りたくない者がいる──その事実が、誰に語る資格があるのかという前提を揺るがし、制度そのものの輪郭をあらわにしていきます。
この問いかけは、現代においてとりわけ切実な響きを持ちます。SNSに代表される表現の時代において、「語らない」ことは、単なる沈黙や発信の失敗として切り捨てられがちです。しかし、ほんとうにそうでしょうか。語らないという選択そのものが、むしろ語りの構造への異議申し立てとなりうるのではないか──『べらぼう』は、こうした逆説に私たちの視線を向けさせます。
このような「語らなさ」の倫理は、現代文学の核心的テーマであり、歴史的にも深い表現の源泉でした。その傑出した実践が、トニ・モリスンの『ビラヴド』に見ることができます。
この作品は、アメリカ奴隷制という国家的トラウマを背景に、「語りえなさ」と共に生きる者たちの沈黙を描き出します。主人公のセテが、奴隷から逃れるために自らの娘を手にかけた──その痛ましい出来事は、誰も語ることができず、物語の中心にぽっかりと穴を開けています。作中の登場人物たちは、沈黙し、断片的に回想し、忘却しようとします。しかしその不在こそが、逆説的に圧倒的な存在感を放ち、制度が押し隠してきた歴史を浮かび上がらせるのです。
特筆すべきは、「ビラヴド」として現れる亡霊の娘が、自らの素性を語らず、ただその“いる”という存在の重みで過去を侵入させてくること。語られぬままの記憶が沈黙を媒介に現在へと押し寄せる──モリスンはこれを「リメモリー(再記憶)」と呼び、語れないことの文学的、歴史的意義を深く掘り下げました。
このようなビラヴドの構造に照らせば、『べらぼう』における「てい」や「唐丸」たちの語らなさ──語る資格がないとされた者の沈黙──もまた、単なる抑圧ではなく、語りの刷新を導く潜勢力として浮かび上がってきます。制度の外部から語られる声なき声。それがもっとも深く、制度の構造に亀裂を入れる力を持っているのです。
逸脱が中心を立ち上げる──蔦重という〈場=トポス〉の生成
『べらぼう』における蔦重は、語りの中心として物語を牽引する人物でありながら、その成立のあり方は決して自己完結的なものではありません。むしろ彼は、制度の外側にいた者たち──つよ、唐丸、てい──という周縁的な存在を媒介することによって、〈中心=トポス〉として構成されていったのです。
中心とは、制度における権威や発信力を象徴する「主語」ではなく、語り得ぬものたちのズレや逸脱を編み込み、位置づけ直すための「交差点」として立ち現れる。蔦重はまさにそのような〈場〉=編集的中心として構築された存在でした。
言うまでもなく、蔦重が語りの〈中心〉となったのは、彼自身が力強く語ったからではありません。語られぬ声を聞き、逸脱を受け止め、形式をズラすことを可能にした「トポスとしての編集性」に、その本質があったのです。この「場としての中心」は、まさに制度の語りが無視し続けてきた「語れなさ」から生まれました。語りとは、語れる者が主導するものではなく、語れないものたちとの関係性の中で編まれていく。その構造を体現しているのが、蔦重というキャラクターなのです。
「語れなさ」からひらかれる編集の倫理
ていは自分を「華やかさに欠ける」「蔦重の女房にはふさわしくない」と評し、語る資格などないと身を引こうとします。ところが、その自己否定の言葉こそが、〈吉原一の花魁のような女将が相応しい〉という語りの制度が抱える虚構を静かに揺さぶりました。ていが口にしたのは主張ではなく、語れなさそのものを正直に差し出す言葉です。だからこそ、それは制度を外から攻撃する叫びではなく、制度の内側に亀裂を入れる“沈黙の編集”となりました。
ここで蔦重に突き付けられたのは、「何を語らせるか」ではなく、「どのような語りを語りとして迎え入れるか」という、編集者としての倫理的選択でした。制度の中で機能する“巧みなレトリック”ではなく、制度に居場所を持たなかった声に耳を澄ませること──それが蔦重の語りを支えた基盤でもあります。
ていの言葉は、新たな正統性を掲げるのではありません。むしろ「語ることが怖い」「自分には価値がない」という揺らぎを、そのまま語りの場へ持ち込む。ここに、制度が当然視してきた前提――語る者は才気と自信を備えているべきだ――が内側からほつれ始めます。確信ではなくためらいが、語りの入口になり得ると示した瞬間、制度的語りに小さな裂け目が開き、物語の空気が入れ替わるのです。
こうして『べらぼう』が提示する語りの力学は、強い主語や華やかな才気に支えられるのではなく、語れない/語らない当事者が周縁からじわじわと中心を組み替えるプロセスに貫かれています。この構造は、ジェンダー批評が扱う〈語られなさ〉の政治性や、SNSで「発信しない」態度が孕む批評性、さらには文学・人類学が問い続けてきた「語る資格」の問題とも響き合います。
語られなかったこと、語りたくなかったこと、語る資格がないとされた声――それらが制度の語りに裂け目を穿ち、新たな倫理と関係性を浮上させる。『べらぼう』が私たちに示すのは、語る者の力を称賛する物語ではありません。「語られなかった者が語られる」ことの重みと、その声を受け止め形式を編み直す〈編集の倫理〉こそが、語りの未来を開く鍵である――その静かで力強いメッセージなのです。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十一
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その九
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
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