井上ひさしさんは、先の戦争――広島・長崎・沖縄を書くことが自身の使命だと考えていたという。広島は『父と暮せば』になり、長崎は井上麻矢さんによって『母と暮せば』として結実した。残された沖縄――ひさしさんの“思い残し”を麻矢さんはどう受け止めたのか。53[守]の景山和浩番匠が、7月14日の特別講義「井上麻矢の編集宣言」と関係づけながら、“思い残し”を語り直します。
井上ひさしさんの作品に、宮沢賢治の評伝劇『イーハトーボの劇列車』がある。劇中、「思い残しきっぷ」というものが登場する。人が死ぬとき、この世でやり残したことへの思いをきっぷに託し、後の人に受け渡していくというものだ。
ひさしさんは5歳の時に父を亡くしている。仲間と劇団をつくっていた父。「サンデー毎日」の懸賞小説に応募し1等になったこともある父。脚本家の仕事が決まった矢先、病に倒れた父。ひさしさんが作家を目指そうと思ったのは、作家を夢見ていた父から「思い残しきっぷ」を託されたからだと話す。
こまつ座を託された井上麻矢さんも、ひさしさんから「思い残しきっぷ」を受け取ったのだろう。53[守]特別講義で、「芝居を消耗品にしない」と語った麻矢さん。「井上ひさし」「こまつ座」という型があるからこそ、継承と更新に向かえるのだ。
そのひとつが幻の作品といわれた『木の上の軍隊』の上演だった。
◆ ◆ ◆
「私はいつも沖縄がどこかにこびりついている」。沖縄の地元紙に語っていたひさしさんは、広島、長崎に加え、沖縄を書くことを使命だと考えていた。タイトルも決まっていた。それが『木の上の軍隊』だ。
戯曲は、ある実話が元となった。
沖縄の北西に浮かぶ伊江島に大きなガジュマルの木があった。沖縄戦が激しさを増すなか、米軍に追われた2人の日本兵が木の上に隠れる。周囲には夥しい日本兵の死体と米軍のキャンプ。降りられなくなった2人は終戦を知ることなく、2年近く木の上で暮らしたという。
1990年、2010年の2度上演が計画されたが、実現には至らなかった。ひさしさんは作品を完成させることなく、この世を去った。
遺されたのはたった1枚のメモ書きと沖縄に関する膨大な資料。ひさしさんの思いを若い作家で遂げたい。麻矢さんは、こまつ座と縁の深い演出家の栗山民也さんに相談したという。指名されたのが蓬莱竜太さんだった。劇団モダンスイマーズの座付き作家であり、舞台版『世界の中心で、愛を叫ぶ』『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』などを手掛けた脚本家。当時30代だった。
「僕は井上ひさし氏に会ったことがない」。蓬莱さんは公演パンフレットで語っている。「あまりに偉大で、あまりに超人、そして伝説」だというひさしさんから受け取った「思い残しきっぷ」。蓬莱版『木の上の軍隊』は何度も書き換えられ、初日を迎えたのはひさしさんの死から3年後の2013年だった。
登場するのは3人だけ。宮崎県出身で軍隊教育を受けて育った上官。地元・伊江島出身のおおらかな新兵。そして、2人の心情を代わって言葉にするガジュマルの妖精だ。
木の上の2人は次第にかみ合わなくなる。
新兵は言う。「その背中を見ていると、何でそうゆうことをするのかねぇと、出来るのかねぇと、へんな気持ちがこみ上げてきます」
上官は返す。「お前は、この国の人間じゃないのか? この島の人間はやっぱり国民じゃないのか?」
上官を演じたのは山西惇さん。「これは“日本”という役じゃないだろうか」と稽古を重ねるなかで思ったそうだ。2人は日本と沖縄の象徴でもあったのだ。ラストシーンでは、そんな2人の頭上にオスプレイの轟音が迫ってくる。
沖縄は今も続いている。
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『イーハトーボの劇列車』では、客席にたくさんの「思い残しきっぷ」がばらまかれる。人はだれでも、亡くなった者の思いを受け継いで生きているのだ。麻矢さんの特別講義を聞いたみなさんは、だれの思いを受け継いでいくのだろうか。
『木の上の軍隊』は戦後80年の来年2025年、沖縄出身の監督によって映画化される。ひさしさんの「思い残しきっぷ」は、今も新しい世代へと受け継がれている。
文/景山和浩(53[守]番匠)
参考資料/
舞台『木の上の軍隊』(演出:栗山民也/出演:藤原竜也、山西惇、片平なぎさ)
『木の上の軍隊』公演パンフレット/こまつ座・ホリプロ
『ふかいことをおもしろく―創作の原点 (100年インタビュー)』井上ひさし/PHP研究所
『イーハトーボの劇列車』井上ひさし/新潮文庫
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