【三冊筋プレス】賽は投げられたのか(中原洋子)

2021/02/06(土)10:02
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 「神はサイコロ遊びをしない」とアインシュタインは述べた。量子論の創始者ハイゼンベルグは「サイコロ遊びが好きな神を受け入れればよい」と反論した。

 

 物理学者の池内了は『物理学と神』の中で、神の姿の変容という切り口で近代科学史を神話のように語る。節目節目に目撃される神は、社会の権力構造や世相を反映していてとても興味深い。現代では、神は経済市場にまで姿を現すようになり、その見えざる手で市場の動向を操っているらしい。ホーキング博士は、神は宇宙を創る前もサイコロ遊びをしていた、と肩をすくめる。宇宙開闢のときが、神の振るサイコロによって決まったのだとしたら、人類をはじめとする地上の全ての生物や出来事は、そのゲームの偶然の景品として誕生したのかもしれない。

 

 2020年、地上に新たな「創造」が生まれた。Covid-19と名付けられたウイルスの出現は、世界中の昨日までの日常を非日常へと変えてしまった。突然失われた働き場所、会うことを禁じられた家族、不要不急の外出禁止要請。ステイホームの日々、暇を持て余し、退屈に襲われた人も多かったに違いない。「暇がない」と嘆くわりには、現代人はいそいそとスケジュール帳を埋め、スマホ操作に余念ない。私たちは「暇」が苦手だ。「暇だ」と誰かが口にした場合、それは「退屈だ」と言い換えられることが多い。暇と退屈はセットで考えられがちである。

 

 『暇と退屈の倫理学』は、イケメン哲学者の國分功一郎の出世作だ。

 

『僕らの社会主義』國分功一郎(右)

      國分功一郎は、人類の「退屈」の起源を「定住革命」に置く。遊動生活で十分に発揮されていた人間の能力は行き場を失い、人類には「暇」ができたのだ。人類は「暇」をもとに文化を発展させたが、一方「退屈」もまたそこに発生したのである。身分制や権力の偏在が横行した社会では、暇はある一部の人間に与えられた特権であったが、資本主義が高度に発達して階級差も縮まると、大衆も暇を得るようになった。だが、彼らは暇をどう使ってよいのかわからない。「退屈」が牙をむいて襲いかかる。退屈する人間が求めているのは興奮であり、気晴らしである。そこに資本主義がつけ込む。

 

 ジェレミーはカナダの新聞社で犯罪記者をしていた。最初のうち仕事は楽しかった。〆切に追われ、ライバル紙と競い合う興奮。たっぷりもらう給料で毎晩のように外食して酒を飲み、冬の休暇に太陽の輝く島に飛び、たいして必要でもない高級車を購入し、めったに聴かないCDを山のように買いこむ。 

 消費社会は退屈と強く結びついている。気晴らしとしての消費の対象は物ではない。消費行動において店や物は完全に記号化するのだ。消費で人が満足に到達することはなく、延々と繰り返される。現在では労働までもが消費の対象になっている。労働は、いまや忙しさという価値を消費する行為だ。労働で「生き甲斐」という観念を消費し、余暇は「私は好きなことをしているのだ」と全力で周囲にアピールしなければならない時間である。

 

 ジェレミーは、消費社会の悪循環に絡めとられた生活の中で、しだいに蝕まれていった。酒量が増え、犯罪者がらみで危険な事態に陥り、2000年初頭にパリに辿りつく。所持金も尽きかけた頃に、たまたま「シェイクスピア&カンパニー書店」に転がり込むことになった。『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』は、ジェレミーのそこでの暮らしを綴ったものだ。

 

(シェイクスピア&カンパニー書店)

 「シェイクスピア&カンパニー書店」は、パリ左岸にある、ジョイスの『ユリシーズ』を生み出した伝説の書店である。二代目店主のジョージは貧しい作家や詩人に食事とベッドを提供してきた。寄宿の条件は簡単な自伝を書くこと。一日に一冊は図書室の本を読むこと。

 

(シェイクスピア&カンパニー書店の店内)

 ジェレミーはジョージになぜか気に入られ、店の住人やスタッフと奇妙な共同生活をしながら友情を深めていく。膨大な本とガラクタに囲まれてカオスと化した部屋、ここに集う人たちは「暇」はたくさんあるけど、退屈は抱いていない。有り余るほどの豊かな「暇」を贅沢に浪費する。ジェレミーは「暇」をもとに自分の過去と向き合い、一度は見失った自分の人生を見いだしていく。

 

 「シェイクスピア&カンパニー書店」は、密接も密集も奪われた今の時代からすると強烈に羨ましいアジ―ルだ。本書からはモラトリアムの美しさと切なさが活き活きと伝わってくる。編集学校に似ている、と思うのは私だけではないはずだ。再び海外に自由に行ける日が来たならば、絶対に訪れたい場所である。

 

  コロナウイルスのおかげで私たちは生活を大きく見直さざるを得なくなったが、家族と過ごす時間が増えた人もいれば、新たな楽しみを見つけた人もいる。「暇」は敵ではなく、友人なのかもしれない。「創造」とはそれまでの枠組みから対称性を破って新たな質を生み出す作業だ。既存の枠組みから出てみる機会が与えられたと見ることもできる。何か新しい「創造」をしたい時、自分の可能性を拡げたい時、私たちはその枠を超えていく必要があるのだ。ユリウス・シーザーはルビコン川を越えた。それが神のサイコロの目のなせる技なのかどうかは、「神のみぞ知る」であり、それを不幸と捉えるか、恩寵と捉えるかは人間しだいである。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕
∈國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(朝日出版)
∈ジェレミー・マーサー『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』(河出文庫) 
∈池内了『物理学と神』(集英社新書)

 

⊕多読ジム Season04・秋⊕
∈選本テーマ:2020年の三冊
∈スタジオ凹凸(景山卓也冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):一種合成

『暇と退屈の倫理学』 『物理学と神』
     └――――+――――┘  

          ↓

『シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々』

 

⊕著者プロフィール⊕
∈國分功一郎
1974年7月1日生まれ。日本の哲学者。東京大学大学院総合文化研究科准教授。17世紀の哲学と、現代フランスの哲学を主な研究対象とする。著書に『スピノザの方法』(みすず書房)、訳書にデリダ『マルクスと息子たち』(岩波書店)、コールブルック『ジウ・ドゥルーズ』(青土社)ドゥルーズ『カントの批判哲学』(ちくま学芸文庫)、共訳として、デリダ『そのたびごとにただ一つ、世界の終焉』(岩波書店)、フーコー『フーコー・コレクション4』(ちくま学芸文庫)、ガタリ『アンチ・オイディプス草稿』(みすず書房)などがある。『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)、『来るべき民主主義』(幻冬舎新書)など一般読者にわかりやすく哲学を説いている。

∈ジェレミー・マーサー
1971年カナダ、オタワ生まれの作家、ジャーナリスト。元「オタワ・シティズン」紙の犯罪記者。深刻なトラブルに巻き込まれ、99年パリに渡る。シェイクスピア・アンド・カンパニー書店に滞在した経験をもとに本書を執筆。他に『ギロチンが落ちた日』など。フランス、マルセイユ在住。
∈池内了
1944年生まれの日本の天文学者、宇宙物理学者。総合研究大学院大学名誉教授、名古屋大学名誉教授。理学博士(京都大学)研究テーマは、宇宙の進化、銀河の形成と進化、星間物質の大局構造など。現在は、科学・技術・社会論に傾注。新しい博物学を提唱。科学エッセイや科学時事を新聞や雑誌に執筆している。「お父さんが話してくれた宇宙の歴史」(岩波書店)で、第13回(1993年度)日本科学読物賞、産経児童出版文化賞(JR賞)を受賞。「科学の考え方・学び方」(岩波ジュニア新書)で、第13回(1997年度)講談社出版文化賞(科学部門)、産経児童出版文化賞(推薦)を受賞。2000年からの一連の著作物に対して、関科学技術振興財団より第6回(2008年度)パピルス賞を受賞

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。