【三冊筋プレス】時を翔けるオデュッセウス(小路千広)

2021/02/16(火)10:14
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 ヒトの遺伝子には、太古の昔から未知の国を放浪した記憶が刻まれているのかもしれない。その面影がふっとよみがえり、無性に旅をしたくなるときがある。
 2020年、新型コロナウイルスの感染を避けるために移動が制限され、国内はおろか、世界のどこへも行けなくなった私たちは、せめて想像の中で旅をするしかなくなった。いや、ここは前向きに考えよう。こんなときだからこそ、日ごろは手にとることのなかった長い物語を読んでみることにした。

英雄は祖国をめざした

 

 オデュッセウス。その男は知略にすぐれ、たくましく、忍耐強かった。20年前にトロイア戦争に駆り出され、本当は行きたくなかったのだけれど、妻と生まれたばかりの息子をおいて故郷のイタケを出発した。機略縦横な男の働きもあり、ギリシア軍はトロイア軍に勝利する。なかでもオデュッセウスが企てた木馬の計略は敵を見事に欺き、英雄の名を広く人々に知らしめた。紀元前12世紀ごろのことだ。
 10年におよぶトロイアへの遠征が終わり、英雄は祖国にむけて船団を組み帰路についた。だが帰還は簡単ではなく、さらに10年も地中海とおぼしき海や沿岸の地を彷徨うことになる。ここまでを前提に英雄譚『オデュッセイア』が始まる。オデュッセイアは、オデュッセウスの物語という意味だ。語り部は盲目の吟遊詩人ホメロス。トロイア戦争を題材にした『イーリアス』とともに、世界最古の叙事詩をギリシア語で書いた詩人でもあった。ちなみに二つの物語に登場する地名は架空のものが多いが、トロイアの遺跡は現在のトルコ西部、エーゲ海を臨む丘に現存し、世界遺産に登録されている。

 

 六脚韻と定型句を駆使して書かれた『オデュッセイア』は、長いけれどストーリーはシンプルだ。帰国を許されたオデュッセウスが相次ぐ苦難に耐えて祖国イタケに帰還し、妻と財産を狙う悪人どもを討つ物語である。大筋は行く手に立ちふさがる敵をどう騙し、倒して生き延びるか。そこに智謀知略の英雄の面目躍如たる所以がある。思わぬ失敗をしたり、部下を失いながらもあの手この手で乗り越えていく手練手管は痛快だ。それと並行して成長した息子テレマコスが父の消息を訪ねたり、機織りの上手な妻ペネロペイアが並みいる求婚者をかわそうと知恵を絞る話が進行する。『オデュッセイア』は家族の関係を取り戻す物語でもあるのだ。あまり複雑なことは書かれていないので筋も追いやすい。
 ただ、ギリシア神話の神々、たとえばゼウスやアテネ、ポセイダオンが出てきたり、アガメムノン、アキレウスといったトロイア戦争の英雄たちの名前も出てくるため、注釈を見ながら読まないと先へ進めない。さらにオデュッセウスが語る漂流譚は、古代ギリシアの民話や伝説をもとにしたものも多く、怪物や魔女、仙女、亡霊などがつぎつぎと登場する。それらのエピソードが現在まで数多くの物語に翻案され、欧米人の精神の血肉となり教養となっているのだから奥が深い。『オデュッセイア』の記憶は彼らのDNAに刻まれているのだろう。

 

智謀知略の記憶をたぐる旅

 

 ブルース・チャトウィン。その少年は祖母の家で見た一片の恐竜の皮に魅せられて、20数年後の1974年、南米大陸の最南端をめざして旅立った。サザビーズで名画の鑑定家として名をなし、エディンバラ大学で考古学を学び、新聞記者となって著名人のインタビューをものしていた英国人。20世紀の知のオデュッセウスである。
 一片の皮は、1万年前に生息していた巨大なナマケモノ・ミロドンの皮で、祖母のいとこが大英博物館に売った化石の一部だった。チャトウィンは彼の足跡をたどる途中、世界各地からパタゴニアに入植した人々を訪ねて開拓の話を聞いた。それを紀行記にまとめたのが『パタゴニア』である。
 本書には、ダンテの『神曲』地獄篇、コールリッジの詩『老水夫考』やポーの短編の引用、原住民を滅ぼしたダーウィニズムと銃と疫病、映画のモデルにもなったアメリカ人ギャングの後日談など、さまざまなペダントリーと諧謔に満ちた逸話が挿入されている。紀行記と思って軽い気持ちで読むと、情報量の多重多層に当惑し、チャトウィンの智謀知略にはまってしまうのだ。

 

 オデュッセウスの冒険譚は現代の日本にも聞こえている。
 松村圭一郎。その青年は大学を休学し、1年近くをエチオピアの農村で過ごした。堂々と物乞いをする老婆やコーヒーを飲むときに必ず隣人を招く村人の振舞いに、人間同士の関係が希薄になった日本との違いを見出す。そして自分が彼らより不当に豊かだという「うしろめたさ」を感じるようになる。20年間、エチオピアと日本を往復するなかで世に問うたのが『うしろめたさの人類学』だ。
 松村は、本書で構築された仕組みや構造を人類学の視点から問い直す「構築人類学」を提唱する。京都大学で人類学を学び、エチオピアでのフィールドワークをもとにした論文「土地所有と富の分配をめぐる人類学的研究」で博士号を取得した。その思索は人類学の枠組みを超えて、国家、市場経済、グローバル資本主義にも向かっている。大上段ではなく「わたし」の視点から世界を観ているところに共感がもてる。此方と彼方の往還が生んだ、やわらかい智謀知略をもつ日本のオデュッセウスかもしれない。

 

Info
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●参考千夜
∈0999夜『オデュッセイアー』ホメーロス
∈1467夜『ウッツ男爵』ブルース・チャトウィン
∈1747夜『うしろめたさの人類学』松村圭一郎

 

●アイキャッチ画像
∈『オデュッセイア』ホメロス/岩波文庫
∈『パタゴニア』ブルース・チャトウィン/河出文庫
∈『うしろめたさの人類学』松村圭一郎/ミシマ社

 

●多読ジム Season04・秋
∈選本テーマ:2020年の三冊
∈スタジオゆいゆい(渡會眞澄冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型

          ┌『パタゴニア』
『オデュッセイア』─┤
          └『うしろめたさの人類学』


  • 小路千広

    編集的先達:柿本人麻呂。自らを「言葉の脚を綺麗にみせるパンスト」だと語るプロのライター&エディター。切れ味の鋭い指南で、文章の論理破綻を見抜く。1日6000歩のウォーキングでの情報ハンティングが趣味。