【AIDA】シーズン1ボードインタビュー:佐倉統さん◆前編「間」を取り払う科学の役割

2023/04/03(月)12:33
img
佐倉統

今年度もハイパーエディティングプラットフォーム[AIDA]がはじまっている。「生命と文明のAIDA」を考えたSeason1から、Season2では「メディアと市場のAIDA」に向き合い、現在開講中2022年10月から始まったSeason3のテーマは「日本語としるしのAIDA」。新シーズンの展開とともに、過去シーズンのボードメンバーからの声に耳を傾けてみたい。

 ※内容は取材時のもの

 


編集工学研究所が主催するHyper-Editing Platform [AIDA]では、新しい時代の社会像を「編集的社会像」として掲げ、この問いをめぐる思索と活動を進めています。固定化された価値観から脱却し、本来の生き生きとした社会を描くために、いまわたしたちは何を考えるべきなのでしょうか。

1つのキーワードに「科学」があります。コペルニクスが地動説で明らかにしたのは地上世界と天上世界のつながりであり、ダーウィンは進化論で動物と人間の連続性を提示しました。科学は人間が別々の領域だと認識していたものに対して、そのつながりを指摘し続けてきたといえます。科学技術の存在意義を人間の進化の観点から位置づける東京大学教授 佐倉統さんに、科学的な視点からみた「編集的社会像」の輪郭を聞きました。

 

佐倉統(さくら おさむ):1960年8月13日生まれ。日本の科学技術社会論研究者。東京大学教授。専門は進化学を中心とする科学史、科学技術社会論、サイエンスコミュニケーションに関する研究。科学技術を人間の長い進化の視点から位置づけていくことを興味の根本として挙げている。NHKの科学教育番組「サイエンスZERO」コメンテーターも務めた。近年は脳神経倫理学や人工知能と社会の関係を中心に扱っている。東京大学科学技術インタープリター養成プログラムの教員も務めている。ほか、理化学研究所革新知能統合研究センターのチームリーダーも兼務。

 

生物とのアナロジーから見る「編集的社会像」

 

―― 編集工学研究所は現在、新しい社会の捉え方として「編集的社会像」というコンセプトを打ち出し、各界の有識者の方々と一緒に思索を深める活動を行っています。佐倉さんが考える「編集」の解釈、あるいはイメージとはどのようなものでしょうか。

 

佐倉統さん(以下、佐倉) 松岡正剛さん(編集工学研究所所長、イシス編集学校校長)が提唱する「編集」という言葉には、松岡さん独自の世界観が込められているように思います。人間や社会、世界の在りようを考えるうえで非常に重要であり、面白いコンセプトですね。そもそも生き物はゲノムの遺伝情報を編集して進化してきました。また、人間社会の文化や宗教、経済機構や政治のイデオロギーも、様々な過去の成果を編集し、手を加えていくことで変遷してきました。しかし、要点を突いているはずの「編集」という概念自体が、これまで人間社会のなかで重要だと考えられていなかった点は気になります。

 その理由ははっきりとは分かりませんが、1つにはグーテンベルクが発明した印刷技術の影響があるのかもしれません。紙の上に情報が固定され、かつ大量生産と流通が可能になったことにより、テキストの「正統性」が問われるようになりました。その結果、情報には印刷されたオーソドックスな「正本」があり、他のものは「異端」だと捉えるような価値観が広がったのではないでしょうか。本来はすべてのものが編集され続けており、まさにその「編集されること」によって生物は生き残っていくことができます。しかし、「編集」という概念の持つ「オリジナルから変わること」や「違うものを受け入れること」に対する忌避感が、人間社会のなかには確実にあります。松岡さんが提唱されてきた「編集」という概念がなぜこれまでスポットを当てられてこなかったのか、という根本的な問いは一考の余地があると思います。

佐倉統研究室

―― 社会像を編集的に考える「編集的社会像」というコンセプトを佐倉さんはどのように捉えていらっしゃいますか?

 

佐倉 私の研究者としてのルーツはニホンザルやチンパンジーの生態研究にあるので、ここでは「社会像」を生物のアナロジーで考えてみましょう。人間社会を生物の生態から考える方法は「社会有機体論」とも呼ばれ、古代ギリシア時代からあります。社会全体を1つの有機体だと捉えると、個人は社会を構成する一要素に過ぎないという話になってしまうかもしれません。すると、たとえばアリのコロニーに見られるような「個人が社会に奉仕する」図式が連想され、個人の自由度が少ない、全体主義的な社会の見方に終始してしまう危険性があります。

 そうではなくて、ここで「編集的社会像」という言葉を持ち出すと、個人が社会を変えていくんだというあり方が浮かびます。確かに社会は非常に強い力を持っていて、個人に対し、さまざまな制約を課しますが、編集的な社会と考えてみると、それぞれの個人が社会に働きかけることで「編集され、変わっていく」というイメージに転換されるのです。変化を容認することで個人がダイナミックに活躍できる余地が社会の中に生まれる。「編集的社会像」という言葉が提示するのは、そのような社会形態なのではないかと考えます。

 もう1つ、社会の変化を生物進化のアナロジーで考えてみます。生物の進化の特徴の1つは、ある1つの種が異なる環境に適応して2つの異なる種に分岐していく点にあります。一方「生物の種」とは、お互いに配偶相手となれる個体の集合です。つまり、生物と環境の関係の細分化が進んで多様性が増すことは、同時に、「閉じた仲間うち」が増える状況を作るのです。これを社会に当てはめて考えてみれば、何もしなければ社会も細分化が進み、差異が強調されるようになるということを意味します。そこで、意識的にかつ積極的に、そうはならないような働きかけとして、異なる価値観を受け入れるような「編集」が必要だと思います。

佐倉統研究室

分断される社会に橋を架ける方法はあるのか

 

―― 翻って、いまの社会の現状を佐倉さんはどのようにみていますか。

 

佐倉 さまざまな種類の分断を感じます。

 ソーシャルメディアで流通する情報の多くは文脈を取り除かれた「生のもの」だといえます。そんな情報の、さらにいうなら断片が、ものすごいスピードで世界中に拡散されていく。現在、世界で流通する情報の量はあまりにも膨大なため、すでに1人の人間が消化できる許容範囲を超えています。そのため人々は何を見ればいいか分からず、自分が好むと考えている情報だけを摂取するようになっています。前回のアメリカの大統領選挙でもこの傾向は強く現れていました。かつては民主党と共和党の2大政党の間にも重なり合う意見が見られました。しかし、現在では意見はみごとに真っ二つに割れ、1か0、白か黒という状況になっています。そして、それは、アメリカだけでなく、インドやヨーロッパ、そして日本も似たような状況になっています。

 社会の分断に橋を架けるために科学が貢献できる例として、私は「当事者研究」に注目したいと考えています。たとえば、精神障害などを抱えた当事者の地域活動拠点である北海道「浦河べてるの家」では、患者が自分の考えた/感じたことを自分の言葉で語り、同じような状況を抱える人と共有しました。そして、当事者たちが試行錯誤しながら自分たちの状況を言語化していき、お互いがフィードバックし合うことで、精神疾患についての「統一モデル」をつくり上げていきます。ここでのポイントは、自分の状況を語る上での最初の拠りどころとして医療の用語を使うところにあります。当事者研究者の1人である綾屋沙月さんは精神医学的に自閉症スペクトラムという診断を受けました。しかし、症状とされる「一度に複数のタスクをこなすのが難しい」といった状況は、外部の目から見た記述であり、綾屋さんにとってはピンとくるものではありませんでした。そこで、自閉症スペクトラムの症状をベースにしながら、内的な状態を記述する言葉を自ら探り当てます。そうすることで、長い間苦しんでいた日常の社会生活への対処の仕方を身につけたといいます。


 このように、医療の用語などの「科学知」は、理解できない対象を理解するためのきっかけとなり得ます。あくまでもきっかけだけであって、その先は当事者が自分の思索や言葉で掘り下げていく必要があるわけですが、科学は、使いようによっては、私たちの日常生活における無意識の偏りや気づかないことをあらためて気づかせ、壁を壊す力を持っているのです。

佐倉統研究室の本の写真

―― さきほど、ソーシャルメディアの話が出ましたが、最近は「Clubhouse」も話題になっています。

 

佐倉 Clubhouseについてはまだよく分からないのですが、だいぶ流行っているようです。ただ、このような現象をみていると、「Winner Takes All」、つまり、デファクトスタンダードを早く取った者が勝つという状況を感じないわけにはいきません。新しい技術やサービスの登場に紐づく「Winner Takes All」の意識は、現在のマーケットを形作る大きな要因となっているため、この傾向は今後も継続していくのだと思いますが、一方で、新しい技術やサービスが廃れていくまでの速度も速くなっています。この話の流れで注目すべきなのは中国の状況です。中国ではBaiduやAlibabaなどのインターネットサービスが国の権力と結びついて運営されています。ただ、この(最近の中国のような)あり方はインターネットが誕生した時には想定されていなかったように思います。むしろインターネットは、ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたようなディストピアを打ち壊す存在、民主主義を補強するプラットフォームだと期待されていました。しかし今や中国では、まさにそのインターネットによって、ある種の『1984年』的な社会の形成が可能になっているようにもみえます。

 一方で、EU諸国は個人情報を含めた人権保護の意識が強まっています。「EU一般データ保護規則」(GDPR:General Data Protection Regulation)などのルール決めの議論も盛んに起こっています。中国が一帯一路構想で支配圏域の拡大を狙うなか、個人の人権保護に進むヨーロッパとの対立や、東アジアの諸地域を巡るアメリカとの対立が起こる可能性も見過ごせなくなっており、これからの世界の流れは一体どうなるのだろう、ということも気になります。

 残念ながら現在の日本には、いまの中国やアメリカのような力はありません。政治的にも経済的にも今後、日本が世界のトップを走るのは難しいでしょう。それを踏まえた上で私は、今後の日本の強みとして「衣食住」に注目をしています。「衣食住」は政治的、経済的なパワーがダイレクトに働く領域ではありません。人々がどういう風に自分たちの生活を編集していくかという視点が求められる領域です。日本人は身の回りの半径50mをきれいに整えることに精魂を尽くす人々で、世界のほかの国の人たちと比べてもその水準は高いレベルにあると言えるでしょう。特に料理に関して、日本食のクオリティの高さは他国に秀でていると思います。フランスでは、日本の「お弁当」がブームになっています。

 料理の「科学」に目を向けると、地中海料理が無形文化財となったり、フランス料理の科学的な分析が最近流行っているという状況が目につきますが、「日本食の科学」はまだ黎明期と言えるでしょう。現在だと、たとえば、京都大学が京都の料亭とコラボして日本食の研究を進めていたり、あるいは科学コミュニケーションの文脈では、料理教室と科学教室を併設して、科学現象を身近に感じられるような取り組みが行われたりしています。

 ただ、それ以外の本格的な科学研究はまだ行われていないのが現状です。分子料理学という学問はありますが、非常に複雑な料理のプロセスを科学で明らかにするのはかなり難しいようです。科学が料理の世界に貢献するというよりは、料理の世界で行われていることを、科学や文化に結びつけながら語るフィールドという位置づけでしょう。ただ、いずれにしろ、この領域は素材の宝庫だと思いますし、日本の科学ならではの強みが見い出せるのではないでしょうか。

 

 

取材/執筆:弥富文次
取材/編集/撮影:谷古宇浩司(編集工学研究所)

 

※2021年4月26日にnoteに公開した記事を転載


  • エディスト編集部

    編集的先達:松岡正剛
    「あいだのコミュニケーター」松原朋子、「進化するMr.オネスティ」上杉公志、「職人肌のレモンガール」梅澤奈央、「レディ・フォト&スーパーマネジャー」後藤由加里、「国語するイシスの至宝」川野貴志、「天性のメディアスター」金宗代副編集長、「諧謔と変節の必殺仕掛人」吉村堅樹編集長。エディスト編集部七人組の顔ぶれ。