べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十二

2025/06/13(金)22:15 img
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 語れない時代に、屁で叫べ。通じない言葉はもういらない。意味から逸脱し、制度を揺さぶる「屁」という最後のメディアが、笑いと痛みのあいだから語りをぶちあげる。春町、沈黙の果てに爆音を放つ。

 大河ドラマを遊び尽くそう。歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)、宮前鉄也と相部礼子が、めぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第二十回も、狂い咲く余白から、もうひと声、お届けいたします。

 


 

第二十二回「小生、酒上不埒にて」

 

断筆と再起──春町のドラマトゥルギー

 

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第二十二回では、筆を折った春町の不在が耕書堂に重苦しく影を落としています。第二十一回のラストで、春町は自らの作品である『辞闘戦新根』が山東京伝の『御存商売物』に模倣されたと感じ、筆を折りました。しかしそれは、単なる著作権的な怒りや対抗意識ではなく、「ことばが通じなくなった時代」への深い絶望の表明でした。春町は、戯作を“言葉の霊を宿す芸”と信じ、その語りに誠実であろうとしてきました。だからこそ、その語りが形式だけをなぞられ、空疎に消費される現実に、深く傷ついたのです。

 

『恋失』と書いて『未練』、『川失』で『枯れる』、『春失』で『外す』、『町失』で『不人気』。恋川春町とはそういう男だ……。

 

 これはのちに記される図像「屁屁屁/屁屍屁/屁屁屁」と同様、語りを絶った春町が、語れない自分を嘲りながら見つめ直した自己批評の詩形でした。語ることを断ち、それでもなお語らずにはいられなかった語り手が、自身の痛みを笑いにすり替えてでも語ろうともがく。まるで、繭の中に閉じこもった幼虫が、かつてのかたちを一度融かし、自己の輪郭を失ったのちに、新たな存在へと変態(metamorphosis)を遂げていくように。春町は、語りの限界にあって、自らの語りの形式そのものを変えようとしていたのです。

 

ミメーシスからパロディアへ──逸脱による再生

 

 春町は、もともと模倣(ミメーシス)を重んじる人物でした。ミメーシスとは、ギリシャ語mimesisに由来し、「模倣」あるいは「再現」を意味します。芸術とは現実の忠実な写しであるという古典的理念に基づき、春町にとって戯作とは、言葉を通して“世界の本質”を映し出す営みでした。語るとは、誠実に真実をすくい上げることだったのです。しかしその信念が、山東京伝による形式の借用によって踏みにじられたと感じたとき、春町の中で何かが崩れます。語りに込めた“本質”が、通俗的な笑いのために空しく模倣され、消費されていく――そんな時代の空気に絶望した彼は、語ることそのものを手放し、筆を折ったのでした。

 

 そんな彼が沈黙の只中で見出したのが、「皮肉」という語りの可能性でした。この語はもともと、禅宗の開祖・達磨大師が弟子の修行の深度を評価する際に用いた仏教用語「皮肉骨髄」に由来します。「皮」や「肉」は修行の入り口にすぎず、「骨」や「髄」こそが仏法の核心、本質の理解を象徴するとされました。つまり、「皮肉」とは本来、表面(皮)や中間層(肉)にとどまり、核心に至っていない理解を指す言葉だったのです。この語が転じて、やがて「表層と真意のずれ」を意識的に示す修辞、すなわち西洋のirony(アイロニー)と重ねられるようになり、現在のように「皮肉」と言えば、表の言葉とは裏腹の意味を含む表現として理解されるようになりました。

 

 春町が辿り着いたのは、まさにこの“ズレ”を操る語りの構えでした。言葉がもはや真実をそのまま映し出すものではなくなったとき、彼はむしろ、ズレた語りを通して、これまで語りえなかったものを匂わせる表現に転回しようとしたのです。その象徴が、「屁屁屁/屁屍屁/屁屁屁」という図像でした。京伝のような諧謔的表現を「俺たちは屁だ!」と笑い飛ばす面々のなかで、ただひとり言葉を失い、屍のように沈黙する春町。〈屁〉という笑いの形式のただなかに置かれた〈屍〉の文字からは、自分の声が誰にも届かぬことを痛感する語り手の、語れぬ自己をめぐる皮肉の匂いがします。

 

 こうした語りの転回を可能にしたのが、「パロディア」という形式でした。パロディアとは、ギリシャ語の”parōidia”に由来し、傍(para)に歌(ōidē)を置くもの、すなわち本歌をズラして模倣する滑稽詩を意味します。山東京伝の作風はこのパロディアの志向に満ちており、春町にとってはまさにミメーシスの対極にあるものでした。彼はかつて、その逸脱に傷つき、形式をなぞられることに怒りを覚えましたが、皮肉という視点を得たことで、「ズラすこと」こそが語りの誠実さを別のかたちで立ち上げうるという逆説に気づきます。

 

 つまり、模倣の純粋性にこだわるのではなく、制度や形式を意図的にズラすことで、語りの枠組みそのものを問い直す。それが春町にとっての再生の道でした。ミメーシスが「写す語り」だとすれば、パロディアは「ずらして照らす語り」。春町はその逸脱のなかに、新たな語りの倫理を見出していったのです。

 

屁というメディア──『放屁論』のパロディア的逆説
 今回と前回の二回にわたって、物語の中核をなしていたのは、「屁」という一見くだらない現象が、語りえぬものの媒介として機能するメディアの象徴として描かれていた点です。平賀源内の『放屁論』は、取るに足らない生理現象である「屁」をあえて論説形式で高尚に語ることにより、正論や制度が前提としている“理性的な語り”の構造そのものを揺さぶるパロディア的戦略を展開していました。

 

 屁は言語ではなく音であり、意味を持たないにもかかわらず、強烈な存在感と社会的な含意をもって周囲に作用します。屁とはすなわち、“身体が発したが、意味を伴わない音”。そこには語りの前段階、あるいは語りの断片としての性格が潜んでいます。言葉にならない情動や不条理、あるいは制度や常識が抑えこもうとする異物的なものが、不可避の音響として噴出する。つまり屁とは「語りえぬものが語られてしまう」瞬間であり、意味と意味の制度から逸脱した、生の表現行為なのです。

 

 だからこそ、屁は笑いと痛みの両極を同時に含みます。滑稽であると同時に、羞恥や屈辱、不快感をも喚起する。それゆえに、屁は「社会的に語ってはならないこと」「語っても意味が生じないこと」に触れることで、制度の裂け目を照らす“メディア”となり得るのです。春町が「屁屁屁/屁屍屁/屁屁屁」という図像詩で、屍とともにその只中に自らを配置したのは、まさに「語れぬものの中で語る」ことの限界と可能性を引き受けた語りの姿勢に他なりません。

 

 屁は、意味の体系からはみ出した“余剰”でありながら、その存在が否応なく感知されてしまうという点で、まさに言語の周縁に位置する“表現の極北”なのです。春町は、その極北において、語りえぬ自己の沈黙と痛みを、なおも「差し出す」ために、今まで「屁」のようなものと思っていたパロディアを選んだのだといえるでしょう。

 

吉原という“語らぬ語り”の空間──制度と逸脱の編集知
 春町が再起する契機となったのは、パロディ往来物『廓𦽳費字盡(くるわあらましもじづくし)』でした。往来物とは、もともと寺子屋などで使用される教育的な教科書体裁の出版物であり、制度に従順なジャンルの代表格といえます。春町はこの制度的枠組みに、最も非制度的で逸脱的な空間=吉原を挿入しました。そこにこそ春町の皮肉と倫理、そして戯作の再構築に向けた決意が込められていたのです。

 

 吉原とは、語りの形式が複雑にねじれた場です。遊女の恋は“演技”でありながら、“真実”である。遊びは“契約”であると同時に、“夢”でもある。言葉は“交わされる”が、本音は“交わされない”。語りながら、語らない。交わしながら、かわす。吉原はそのような「語らぬ語り」を日常的に成立させている時空間であり、そこには明確な“語りのズラし”が、制度として内在しています。

 

 このズラしは、「屁」というメディアとも響き合います。屁とは、語るまでもなく“出てしまったもの”、そしてその存在があえて語られぬがゆえに強く感じられるものです。吉原もまた、制度の外に置かれながら、制度の奥深くに染みこんでいる。すなわち「忌避されながらも語られてしまう」という矛盾を抱えた空間なのです。

 

語りの形式を反転させる──ミメーシスからパロディアへ
 ここで注目すべきは、春町がこの吉原を描くために「往来物」という教育的ジャンルを選んだことです。教育書の文体や構造はそのままに、内容だけを逸脱させる。制度のなかに逸脱を流し込むというこの編集的手法は、まさにパロディアの実践でした。

 

『辞闘戦新根』において春町が重んじたのは、ミメーシス(mimesis)=語ることの誠実さ。

『廓𦽳費字盡』において選ばれたのは、パロディア(parōidia)

=形式をズラすことで語りの倫理を立て直すこと。

 

 この対比は、春町の語りの思想の転回を象徴しています。かつて彼は、模倣を通じて「真実」を写し取ることこそが誠実だと考えました。しかし京伝によって形式をなぞられたとき、形式の純粋性にこだわるあまり言葉を手放しました。その彼が今度は、制度的ジャンルの内部にズラしを仕掛け、逸脱により制度の枠組みを照らし出す。そのズラしは、かつての自分が拒絶した「不誠実」なはずの形式によってこそ可能であり、かつ語りの誠実さは何ら損なわれないことを、春町は見出したのでしょう。

 

 こうして『廓𦽳費字盡』は、単なる風俗の紹介本や滑稽なパスティーシュではなく、制度の構文を借りて制度を批評する“語りの再設計”となりました。それはまた、「皮肉」というズラしの技法と「パロディア」という語りの倫理の交点に咲いた、編集的知性の結晶でもあったのです。

 

 この春町の編集的知性は現代文学にも通底しており、たとえば、マーガレット・アトウッドの『獄中シェイクスピア劇団(Hag-Seed)』におけるアイディアは、春町の試みと驚くほど似ています。アトウッドは、権威的な「シェイクスピア」という正統の文学を、社会的に逸脱者とみなされた囚人たちによる演劇教育という場に持ち込みます。ここでは、「教育」と「囚人」、「形式」と「逸脱」という対立が重ね合わされながらも、ズラしの実践を通じて、まさに制度の“内側”から語りを反転させていくのです。アトウッドの囚人たちは、『テンペスト』を演じる過程で、支配と復讐、自由と赦しという物語の根幹に自らの境遇を重ね合わせ、演じることを通じて「語りなおし」を遂行します。これは、形式をなぞることで「語るに語れぬ痛み」を浮かび上がらせる、模倣=ミメーシスと逸脱=パロディアの交差点に他なりません。春町が、教育ジャンルの形式を借りながら吉原という“制度からこぼれ落ちた空間”を語った構造と、相似的な構造がそこにはあります。

 

 つまり、『廓𦽳費字盡』も『獄中シェイクスピア劇団』も、制度が保有する語りのフォーマットに「ズラし」を仕掛けることで、語ることが許されなかった現実を可視化しようとする編集的実践だったのです。それは、「語らぬ語り」の再設計であり、笑いや戯画を通じて制度を批評しうる語りの臨界点を照らし出す営為に他なりません。

 

笑いと傷──放屁という咆哮

 恋川春町は最後に、「酒上不埒(しゅじょうふらち)」という狂名を掲げて帰還し、大胆にも「放屁」という形式で語りの場に復帰しました。この名乗りは、滑稽な洒落や破廉恥な挑発にとどまりません。むしろそれは、笑いそのものを引き受け、逸脱の倫理を身にまとうという、語り手としての覚悟の表明でした。

 

 春町はかつて、語りとは模倣=ミメーシスによって誠実に成り立つものと信じていました。『辞闘戦新根』において彼は、現実に即した描写や庶民の声を戯作の中でまっすぐに語ることこそが誠実だと考えていたのです。しかし、山東京伝に形式を模倣されたとき、その“模倣される面白さ”を受け止めきれず、春町は筆を折りました。それは、「模倣されるほどの語り手たれ」と願っていた戯作者としての矜持を、自ら裏切ることでもありました。

 

 沈黙の時間を経て、模倣は語りを奪うものではなく、語りとは模倣の先にズラしを加え、逸脱を通して再起動されるものだということに、春町はようやく気づきます。「酒上不埒」という名は、制度の外から制度を照らし返す狂名です。そして「放屁」とは、単なる戯れでなく、語るに語れなかった痛みを笑いに転化しようとする、傷ついた語り手の咆哮だったのです。

 

烏帽(えぼし)着る 人真似猿の 尻笑い
            赤恥歌の 腰も折り助(おりすけ)

                           酒上不埒

 

 春町が最後に選んだ語りの姿は、猿の尻の滑稽さを帯びていました。笑われることを恐れず、むしろ笑いを編集の武器とする。可笑しみのなかに痛みを潜ませ、制度の隙間に逸脱のひだを仕掛ける。そうして彼は、『廓𦽳費字盡』のような制度批評を戯作という形式で成立させていったのです。つまり春町の「放屁」とは、自己批判の果てに見出された語りの再構築であり、「語ること」と「語らぬこと」の臨界に立つ者の、戯作者としての覚悟の表明だったのです。このとき、彼はようやく「滑稽に笑われること」そのものを引き受け、「語らぬ語り」の担い手として、再び筆を執ったのでした。

 

語らぬ語りと現代の表現空間

 『べらぼう』第22回は、「屁」という最後のメディアを通じて、言葉の限界と可能性を問い直したエピソードでした。屁は言葉にならないからこそ、語りの本質を逆説的に映し出します。春町は語ることを失い、なお語りたかった。その矛盾を皮肉という構えで引き受け、逸脱によって言葉の倫理を再構築したのです。この構造は、現代の表現空間にも通じています。たとえば、匿名性のなかで発される断片的な詩句、嘲笑やノイズのかたちをとった非制度的言語、あるいはミーム化された笑いに潜む批評性など、今日の語りにも「語らぬ語り」は息づいています。私たちが「くだらない」と切り捨てるその片隅にこそ、言葉の再起が眠っているのかもしれません。春町が放屁して猿の尻として笑われながら、それでもなお語ったように。

 


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コメント

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山田細香

2025-06-10

 この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
 建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

山田細香

2025-06-10

 藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。

堀江純一

2025-06-06

音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。