べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十四

2025/06/28(土)05:26 img
img NESTedit

 名を与えられぬ語りがある。誰にも届かぬまま、制度の縁に追いやられた声。だが、制度の中心とは、本当に名を持つ者たちの居場所なのだろうか。むしろその核にあるのは、語り得ぬ者を排除することで辛うじて成立する〈空虚な中心〉ではなかったか。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


 

第二十四回「げにつれなきは日本橋」


狂言の語りと正名の壁──名をめぐる攻防

 

 第二十回の解説でも触れたように、大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』には「正名(せいめい)」と「狂言(きょうげん)」という二つの語りの軸が通底しています。正名とは、儒教的な秩序観に基づく語りの形式であり、名と実を一致させることで社会の安定を図る考え方です。江戸期の出版制度や問屋制度においても、書式や体裁、流通の形式といった「名」を守ることが重視され、そこに社会的な信用と「格」が支えられていました。

 

 これに対して「狂言」は、ズラしや逆説、そして笑いを用いて、この語りの秩序が抱える矛盾や限界を照射するものです。もしこの視点がなければ、正名は絶対化し、異なる立場や声を押しつぶす排除の論理が通用してしまいます。そう考えると、狂言は制度の硬直化を抑え、語りの倫理を守る上で欠かせない装置だといえます。ただし、『べらぼう』における蔦屋重三郎の狂言的語りは、理念としての批評ではなく、現実の中で立ち上がる実践でした。彼の語りは、制度の外で生きる人びと──たとえば吉原の者や遊女たち──の語れなさを引き受け、外から語りを編み直そうとする切実な編集行為だったのです。

 

 第二十四回は、この正名と狂言の緊張が際立って描かれた回でした。蔦重は吉原という制度外の出自を持ちながら、日本橋という制度の中枢に進出しようと試みます。まず彼は、書物問屋「丸屋」の買収を画策しますが、「見附内(みつけうち)」──すなわち江戸の中心地──に吉原者が家屋敷を持つことは許されないという制度上の制約に突き当たります。

 この制限を乗り越えるため、蔦重は「扇屋」に借金のある「亀屋」に名義を借り、間接的に丸屋を取得しようとします。この計画は、制度外の者同士が結託する、いわば狂言的な策略でした。しかし通油町の問屋たちはこれを見破り、「所詮は吉原者」と切り捨てて拒否します。

 

 追い込まれた蔦重は、さらに別の手段に出ます。丸屋の女将・ていとの婚姻を申し出たのです。制度上、夫婦になれば家屋敷の名義を得ることが可能になるため、この提案は制度の論理を逆用するものでした。ただしこれは抜け道というよりも、制度の内側に入るために語りの形式そのものを変化させる、蔦重なりの手法だったといえます。

 

 ここで浮かび上がるのは、蔦重の語りの位置にあるねじれです。彼は制度の外に立つ者であり、狂言の語法を通してしか語れません。にもかかわらず、彼が求めているのは、制度が保証する正名という語りの枠組みなのです。この矛盾は、制度の内部にいる者たちには理解されません。通油町の人々は「町の格が下がる」と反発し、ていも「吉原者と夫婦になるなど考えられない」ときっぱり拒絶します。これは単なる偏見ではなく、「語りの正統性は語り手の立場によって決まる」という冷酷な制度的構造が露わになった瞬間でした。


排除が中心をつくる──制度の構造と空虚の力学

 

 蔦重が日本橋に求めたのは、「格」や地位ではありませんでした。彼が欲したのは、語ることの正当性──すなわち〈語りの資格〉でした。ただし、それは制度に従属するためではありません。むしろ、制度によって押し黙らされてきた人びとの声を、遠くまで届けるために必要な通行証のようなものでした。出版物を全国に流通させるには、日本橋という制度的中心に籍を置くことが不可欠でした。「日本橋で売られているものなら信頼できる」「日本橋から仕入れれば間違いない」といった共通認識こそが、商業出版の基盤を支えていたのです。蔦重にとって正名とは、その信頼の回路に乗せて、制度の外で語られなかった声を広く届けるための仕組みだったのです。

 

 この動機の背景には、平賀源内や瀬川、そして語る場すら与えられなかった遊女たちとの時間があります。蔦重は、そうした語りを奪われた人々の思いを引き受け、それを制度の中へ通す道を探っていたのです。とはいえ、蔦重が求めた「正名」は、本当に実体を持つものだったのでしょうか。通油町の住人たちが守ろうとした「日本橋の格」は、実際に何か確かな核に支えられていたのでしょうか。むしろそれらは、「名と実が一致する」という理念に支えられた共同幻想にすぎなかったのではないでしょうか。

 

 哲学者ジャック・デリダは、「制度は常に中心を必要とするが、その中心は実体を持たない」と述べました。制度はあたかも確かな核があるかのように振る舞いますが、そこにあるのは〈空虚な中心〉──他者の排除によって仮構された記号的構造です。意味は常に他の意味との差異(différance)の内にズレ続け、決して固定されることはありません。制度の中心とは、「無いことが有ることになっている」空間なのです。

 

 この構造は、日本橋が吉原を排除する関係とも重なります。「見附内に吉原者は住めない」という規定は、日本橋が制度の中心であることを保つための境界線であり、その権威を成立させる排除の装置でした。つまり、日本橋の「格」や「信用」は、誰かを外に追いやることでこそ内側として機能する──制度の中心は、常に外部を設定することによってのみ維持されるのです。だとすれば、そこへ越境しようとした蔦重の存在は、その中心の虚構性、すなわち排除によって保たれてきた制度の根本を揺るがす存在だと言えるでしょう。

 

 ここで注目したいのが、「権力」の「権(けん)」という文字の本義です。「権」とは本来「秤(はかり)」を意味し、仮構的で、臨機応変に揺れ動くものを指します。「権変」という語も絶対的な理ではなく、その場その場の判断に基づく調整を表していました。制度の中心とは、そうした不安定な均衡点であり、それを保つには、不断の排除と更新が必要となります。つまり、中心が空虚であるからこそ、制度には幾らでもつけ入る隙がある。蔦重は、その構造的な不安定さを直感的に把握していたのでしょう。だからこそ、彼は正面から制度に抗うのではなく、狂言的アプローチによって、その隙間に語りを滑り込ませようとしたのです。

 

不在の中心をめぐる語り──カフカの『城』と『べらぼう』

 

 制度という迷宮構造が、語ろうとする者の願いを繰り返し拒むという主題は、『べらぼう』だけに見られるものではありません。近代以降、語ることの正当性を求めながらも、つねに制度の「外」に置かれてしまう者たちの語りは、繰り返し文学に描かれてきました。その代表的な寓話が、フランツ・カフカの小説『城』です。

 

 『城』の主人公Kは、「測量士」として雪深い村にやってきますが、そこを統治するはずの「城」に、いくら努力してもたどり着くことができません。誰が権限を持っているのか、どの手続きを踏めばよいのか──すべてが曖昧なまま、Kは書類を整え、人間関係を築き、なんとかして城の中枢へとアクセスしようとします。しかし、いつもあと一歩で遮られてしまう。「制度はある」のに、「入口はどこにもない」。その不在の中心をめぐって、Kは迷路をさまよい続けるのです。

 

 蔦重の姿もまた、このKと重なります。彼は吉原という周縁から日本橋という中心に向かって語りかけますが、「見附内の者ではない」「格が下がる」といった理由で退けられる。どんなに理を尽くしても、出自を理由に「語ること」の前提そのものを否定されてしまう。そのたびに蔦重の語りは遮られ、制度はその門を閉ざすのです。

 

 とはいえ、拒絶されたあとの対応において、蔦重はKとは決定的に異なります。『城』では、中心に至ることは永遠に先送りにされ、Kは最後まで語る資格を与えられません。制度の中に入る道は閉ざされたままです。しかし蔦重は、拒絶されながらもなお語りつづけ、その語りの形式を変奏し、制度の側にねばり強く揺さぶりをかけていきます。

 

 『べらぼう』は、たどり着けなさだけを描いて終わる物語ではありません。カフカ的な不在の迷宮とは異なり、『べらぼう』では語りの実践によって制度の輪郭がわずかに揺らぎ、そこに新たな通路が生まれうる可能性が示されているのです。

 

空の正名、語りの奪還──『太平記』にみる逆転の構造

 

 制度の中心へと近づこうとしても、そこに確かな実体はなく、むしろ排除の網によって支えられている──。そうした構造を描いた海外の作品としてカフカの『城』があるように、日本の古典文学にもまた、同じ問いを内包した物語が存在します。とりわけ、第29作目の大河ドラマとなった『太平記』は、制度の正名がいかに空洞化し、そしてその語りを誰が、どのように奪い返すのかという、権力と語りの根源的構造を浮かび上がらせる作品です。

 

 その象徴的なエピソードが、少年期の足利尊氏(又太郎)が神の鎮座する洞窟を訪ねたときのシーンです。神体として祀られていたものは、尊い御神木でも玉座でもなく、ただの“木切れ”にすぎませんでした。名と実の一致を旨とする「正名」の理念が、実は名ばかりの空虚な象徴によって支えられていた──この不一致が、少年又太郎の中に制度への違和と幻滅を芽生えさせたのでした。この“木切れ”は、当時の支配体制──すなわち鎌倉幕府と北条得宗家の構造──の象徴と読めます。幕府の実権は北条得宗家に集中し、源氏の嫡流と目されている足利氏でさえも、制度の外縁に押しやられていました。尊氏は、本来なら語りの主となるべき血筋を有していながら、その語りを許されず、鎌倉幕府の制度を代弁することを求められていたのです。

 

 やがて矛盾が限界に達し、尊氏は後醍醐天皇を担いで鎌倉幕府を倒します。新たに始まった「建武の新政」は、後醍醐天皇が自ら政治を行う体制であり、「正統」の語りをもう一度立て直そうとする試みでした。しかしその理想は、武士の現実的な価値観や政治のあり方とはかけ離れており、武家たちの支持を十分に集めることはできませんでした。尊氏はここで、制度と語りのあいだに生じたずれに再び向き合うことになります。武士にとって納得のいく新たな制度を築くには、語りの形をもう一度組み替える必要があったのです。こうして尊氏は大覚寺統の後醍醐天皇を否定し、持明院統の天皇のもと、自らを将軍とする新しい政権──室町幕府──を打ち立て、武士による現実的な支配が機能する制度を作り上げていきました。

 

 こうして語りの中枢は更新され、足利尊氏は制度の外縁に位置づけられていた「狂言」的な存在から、自らが制度の語りを主導する「正名」の担い手へと移行していきました。かつては幕府の外に置かれ、秩序を揺るがす側と見なされていた彼が、今度は新たな秩序の語り手として中心に据わる──その反転こそが、制度と語りの構造に内在する可変性を如実に示しています。

 

 そして、この構図をさらに反転させたのが、尊氏の庶子である足利直冬です。直冬は、藤夜叉という白拍子の間にできた非嫡子であるため嫡流から排除されたにもかかわらず、足利の血を根拠に自身の正統を主張し、尊氏に刃を向けます。父である尊氏がかつて「狂言」の立場から「正名」へと跳躍したように、今度はその地位を、制度の周縁に立つ直冬が脅かす──この逆転は、「正名」と「狂言」が固定された対立ではなく、語りによって如何ようにも反転しうることを明示しています。

 

 この構造は蔦重の姿にも重なります。制度の正名を持たない狂言的主体でありながら、蔦重の語りは制度の裂け目に入り込み、体制そのものを動かそうとします。婚姻という形式を用いた蔦重の行動は、「正名/狂言」の反転構造をなぞりつつ、その力学を露わにしたものといえるでしょう。「正名」と「狂言」は、もともと固定的に隔てられているわけではありません。両者は流動的に交錯し、反転し、交差しながら、語りの中心をめぐる再編を繰り返していきます。制度は「正名」に依拠しますが、その正名自体が仮構である以上、それは制度による語り直しを通してのみ持続可能なのです。だからこそ、制度にとってもっとも脅威なのは、制度の外から語りの形式そのものを撹乱する「狂言」なのです。

 

語りの門に立つ者──ていという媒介

 

 蔦重が日本橋への進出を試みる中で、制度の中心へと至る最後の道として残されていたのが、「婚姻」という制度内の形式でした。彼が選んだのは、書物問屋「丸屋」の女将・ていとの婚姻という、極めて個人的でありながら制度的な手続きでした。一見すれば、家屋敷取得のための方便のようにも見えるこの申し出は、しかしその奥に、ていという人物への理解と心の響き合いが滲んでいました。

 

 その確信を深めたのは、寺での偶然の場面です。子どもたちに本を手渡すていは、

 

「本が子らに文字や知恵を与え、その一生が豊かで喜びに満ちたものとなれば、本も本望。本屋の本懐」

 

と語っていました。ていもまた、本を通じた語りに宿る力を信じている──蔦重は、そう直感したのです。

 

 ていは、制度の枠内に身を置く者であり、屋号や格式を守ることの責任を真摯に引き受けている人物です。しかし同時に、彼女のまなざしは書物の向こう側──語りが人に届き、受け継がれていく営みそのものにも向けられていました。蔦重は、そうした彼女の姿に、単なる制度の代理人ではない、もうひとつの倫理を見出します。

 

 蔦重の申し出は、制度をすり抜ける狂言的なズラしの手段であると同時に、彼女の在り方への敬意と共闘の意思を込めたものでした。源内の理念を継ぎ、「書を以て世を耕す」という営みに希望を託す蔦重にとって、ていはただの窓口ではありませんでした。むしろ、制度の門を守る者でありながら、その内側にゆらぎや隙間を抱えうる存在──正名と狂言を媒介する可能性をもつ節点として映ったのです。

 

 しかし、ていはこの申し出をきっぱりと拒みます。それは、蔦重という人間を情で否定したわけではなく、「信を託すには値しない」という判断に基づく、制度の門を守る者としての厳格な応答でした。丸屋という屋号が培ってきた信用と、それを支える「格」の重み──それを崩すことは、書物問屋としての責任を自ら放棄するに等しかったのです。

 

 その判断には、てい個人の記憶も深く絡んでいます。亡き夫が吉原に溺れ、店の金を使い込んで屋台骨を揺るがした過去──その傷は、ていにとって「吉原者」への根深い不信を刻みつけました。どれだけ制度の形式を整え、言葉を尽くしても、蔦重の申し出は彼女には「また店を危うくする者」の詭弁としか映らなかったのでしょう。

 

 たしかに、彼女は丸屋という屋号を、いつか本の価値を真に理解する者に託したいと願っていました。けれどその願いがあるからこそ、誰にでも譲ることはできないのです。日本橋という制度の中心で、本を扱うということは、単なる商いではなく、語りの信用を引き受けること──ていにとって、それは一時の感情や奇策では乗り越えられない、語りの倫理に関わる決断でした。


 ていの対応は、制度の側に立つ者の単なる自己守衛ではありません。語りと制度、正名と狂言、中心と周縁。そのいずれにも偏ることなく、むしろ両者のあいだに立って、語りの流通と制度の持続のあいだにある緊張を、ていは引き受けていました。だからこそ彼女の拒絶は、蔦重にとって痛烈でありながらも、制度の内側にもまた、語りの倫理が宿っていることを示すものでした。

 

狂言の回路と現代──空虚な中心をめぐる語りの倫理

 

 蔦屋重三郎が制度の縁(へり)から「正名」の只中を見据え、そこにひとつの裂け目を刻もうとした営みは、一人の出版人の逸話にとどまるものではありません。それは、「正しさ」や「信頼」を決める語りの座標軸そのものが、つねに制度の外側からの問い直し──異なる声、ずらされた語り、滑稽や反語の身ぶり──によって支えられているという、語りの構造そのものに関わる行為だったのです。

 

 蔦重が制度に触れようとしたのは、上昇志向からではありません。むしろ彼は、語りえぬ者たち──名もなき遊女たち、制度の書式にのらぬ語り手たち──の声に耳を澄ませ、その行き先を編集者として探り続けた人物でした。語りに居場所がなければ、自らの語りもまた宙づりになる。だからこそ蔦重は、狂言の語り手であると同時に、「正名」を渇望する者でもあったのです。

 

 やがて彼が目指したのは、「日本橋」という制度の正面玄関でした。そこに入りこむには、制度の文法を一度は引き受けねばならない──しかしそれは、狂言を裏切ることではありません。「狂言として正名を名乗る」という跳躍。それは、語りの倫理をぎりぎりの地点で試みる、危うくも切実な実践でした。

 

 この構図は、現代にも重なります。今日の社会において「正しさ」を保証する語りは、しばしば制度的な記号──学歴や所属、肩書、フォロワー数──によって定義されます。その一方で、周縁にいる語りは聞き届けられず、逸話として消費され、無効化されていく。その風景は、蔦重が立ち尽くしていた地点と地続きにあるのかもしれません。

 

 さらに現代では、SNSのアルゴリズムや生成AIといった新たな〈語りの回路〉が、語りの重みや責任、文脈を剥ぎ取りながら、流通の速度と最適化を優先していきます。誰が、どこから、何を背負って語るのかが問われなくなったとき、制度の中心だけでなく、語るという行為そのものの根が空洞化する──その静かな崩壊が、私たちの足もとに忍び寄っているのです。

 

 だからこそ、蔦重の姿は今なお私たちに問いかけます。「制度の言葉」ではなく、「人の語り」を信じたい。制度を撹乱しながらも、あえてその扉の前に立ちつづけ、そこに語りを届けようとする。その媒介の実践は、語りの正統性が形式やアルゴリズムによって掬い取られるこの現代において、ますます希少で、倫理的な営みとなって映るのです。

 

 『べらぼう』第二十四回が描いたのは、まさにその「人が語るための倫理」でした。制度に従属することもなく、かといって完全に逸脱することもない曖昧な狭間に立ち、声なき言葉を拾い上げてゆく。蔦屋重三郎の狂言とは、逸脱のための道化ではなく、語りを制度の裂け目に通すための回路であり、媒介の形式だったのです。空虚な中心にこそ語りを届けようとするその意志に、現代を生きる私たちの語りもまた、照らし返されているのかもしれません。

 


べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十四

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十二

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十一

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十(番外編)

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十九

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十六

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十五

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十三

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十二(番外編)

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十二

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十一
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その九

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八(番外編)
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その七

べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その六
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その一

  • 大河ばっか組!

    多読で楽しむ「大河ばっか!」は大河ドラマの世界を編集工学の視点で楽しむためのクラブ。物語好きな筆司たちが「組!」になって、大河ドラマの「今」を追いかけます。

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十三

    二代目大文字屋市兵衛さんは、父親とは違い、ソフトな人かと思いきや、豹変すると父親が乗り移ったかのようでした(演じ分けている伊藤淳史に拍手)。  大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出 […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十二

    語れない時代に、屁で叫べ。通じない言葉はもういらない。意味から逸脱し、制度を揺さぶる「屁」という最後のメディアが、笑いと痛みのあいだから語りをぶちあげる。春町、沈黙の果てに爆音を放つ。  大河ドラマを遊び尽くそう、歴史 […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十一

    今回、摺師として登場した方は、御年88歳の現役摺師、松崎啓三郎さんだそうです。西村屋との実力の差をまざまざと見せつけられた歌麿と蔦重。絵の具や紙、摺師の腕でもなく大事なのは「指図」。「絵師と本屋が摺師にきちんと指図を出 […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十(番外編)

    名のもとに整えられた語りは、やがて硬直し、沈黙に近づいていく。けれど、ときに逸れ、揺らぎ、そして“狂い”を孕んだひそやかな笑いが、秩序の綻びにそっと触れたとき、語りはふたたび脈を打ちはじめる。その脈動に導かれ、かき消さ […]

  • べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その二十

    初登場・大田南畝先生の着物が蒲焼き柄だったことにお気づきだったでしょうか。狂歌の会のお題「うなぎに寄する恋」にちなんだお召し物でしたが、そんなおしゃれ心に肖りたいものです。  大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラ […]

コメント

1~3件/3件

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。