べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十七

2025/12/12(金)21:30 img
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 息を詰めるような恐怖は、もう描かれない。代わりにそこに立ち現れたのは、声を上げる必要すらない恐怖だった。誰も叫ばず、誰も罰せられず、ただその存在だけが語りの中心から退いていく。そして世界は、すでに取り返しのつかない〈更新〉を終えている。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。


 

第四十七回「饅頭こわい」

 

英雄なき物語に現れた「悪」の意味

 

 『べらぼう』は、その歩みのなかで、明確な「ラスボス」の存在を前提としない物語として展開してきました。誰か一人の悪を倒して物語が閉じる――そうした構図から距離を取り続けてきたことは、本作の語りの積み重ねそのものが示しています。悪は特定の個人や組織ではなく、構造として立ち上がる。『べらぼう』は、特定の悪を退治する古典的な英雄譚の形式をなぞることなく、その外側を歩むドラマだったと言えるでしょう。

 

 その流れのなかで、第四十六回、四十七回において一橋治済が「ラスボス」として前景化されたことは、やはり強い違和感を伴います。最終話直前になって、突然、英雄と悪役が対峙するかのような構図が立ち現れた。それは、この物語がここに来て、あえて分かりやすい英雄譚へと舵を切ったかのようにも見えました。しかし、第四十七回をあらためて丁寧に見直すと、その違和感は別の意味を帯びてきます。


 ここで行われていたのは、英雄譚への回帰ではありませんでした。この回で『べらぼう』は、すでに通用しなくなりつつある旧来の形式を、一人の人物に集約し、可視化するという編集を行っていたのです。

 

 治済は、単に倒されるべき「悪」としてラスボスに据えられたわけではありません。血による決着(忠臣蔵のような仇討ちも含む)、毒による暗殺、恐怖による支配――こうした旧来のやり方を、最後にまとめて表舞台へ引きずり出し、終止符を打つための物語装置として配置されました。だからこそ、治済の排斥は最終話まで引き延ばされなかった。この『べらぼう』が最終的に問うのは、敵をどのように倒すかではなく、そうした旧来の形式が失効したあとの世界を、どのように生きるのか、ということだったからです。


治済が体現していた「旧メディア」の終結

 

 治済がラスボスとして前景化された理由は、この世界においてすでに通用しなくなっていた形式を、はっきりと可視化するためです。では、その形式とは具体的に何だったのでしょう。


 それを確かめるために、治済という人物の振る舞いを、あらためて見直します。治済は最後まで、きわめて用心深く、合理的に行動していました。饅頭を疑い、自らは口をつけず、将軍・家斉に先に食べさせる。相手の表情や身体の変化を注視し、異変がないことを確認する。これらはいずれも、毒殺という文脈においては、正しく、熟達した判断です。つまり治済は、愚かだったから排斥されたのではありません。

 

 彼はむしろ、ある特定のやり方においては、非常に優秀だった。そのやり方こそが、ここでいう「旧メディア」でした。治済が生きてきた政治の世界において、血と毒と恐怖は、権力を伝達するための有効なメディアでした。誰を殺したのか。どのように始末したのか。その噂がどのように流れたのか。そうした情報の流通そのものが、支配の力として機能していたのです。

 

 この世界では、敵は殺される。仇討ちは血で終わる。毒とは命を奪うために使われる。治済は、この「殺し合いの文法」を疑う必要がなかったし、疑う余地もありませんでした。

 

 しかし第四十七回で明らかになるのは、その文法自体が、すでに時代遅れになっていた、という事実です。

 

 蔦重たちが治済に対して用意したのは、殺す毒ではなく、眠らせる毒でした。命を奪う罠ではなく、入れ替える罠でした。仇討ちではなく、隔離でした。

 

 治済は、何かが仕掛けられているのではないか、と疑っていました。しかしその仕掛けが、もはや殺し合いというジャンルの内部で起きていない、という点には気づくことができませんでした。彼の判断は、終始一貫して、「暗殺があるとすれば、どのような形か」という問いの内部にとどまっていました。その問い自体が、すでにこの場面では無効になっている、という事実が、判断の射程に入ることはなかったのです。

 

 言い換えれば、治済は内容を読み誤ったのではありません。彼は、出来事のジャンルがすでに更新されたあとに、なお旧来のジャンルの登場人物として振る舞うほかない位置に置かれていました。そこでは、気づくか、気づかないかという差異そのものが、もはや結果に影響しない地点にまで、事態が進んでいたのです。

 

 ここで重要なのは、治済が「悪だから」退場したのではない、という点です。彼は古いメディアの内部では、最後まで正しく、合理的に行動していました。ただ、そのメディア自体が、この世界ではすでに機能を終えていた。だからこそ治済は、英雄に倒される悪として殺されることもなく、悲劇の人物として同情されることもなく、ただ静かに、物語の中心から外されていきます。

 

 この退場こそが、『べらぼう』が描いた旧メディアの終結でした。

 

 暴力によって否定されるのではなく、更新された形式によって、使われなくなる。第四十七回で示されたのは、権力の敗北ではありません。旧メディアそのものの失効でした。

 

国家が選んだ「もっとも穏健な犯罪」

 

 治済が退場した理由が、知略の欠如ではなく、すでに失効した形式の内部に置かれていたことにあったとするならば、次に問われるべきは、その新しい形式を、誰が、どのように行使したのかという点です。

 

 第四十七回において、その形式を実際に動かしたのは、蔦重一人ではありません。複数の人物(いわゆる写楽アベンジャーズ)が、それぞれの立場からこの形式を後押ししています。しかし、それらの選択を最終的に確定させ、実行へと移した主体は、やはり国家そのものでした。

 

 治済に対して行われた処理を、事実として整理してみます。

 

 治済は裁かれていません。罪状が公に示されることもなく、処刑もされていない。しかし彼は政治の中枢から完全に排除され、替え玉と入れ替えられ、事実上、幽閉されることになります。

 

 これは救済ではありません。また、正義の執行とも言えない。現代の法治国家の観点からすれば、これは国家による違法行為です。法の手続きを踏まず、罪を確定させることもなく、ある思惑によって一人の人物を政治的に抹消する。それにもかかわらず、視聴者はそこに、ある種の納得感を覚えてしまう。ここに、この回の不気味さがあります。

 

 なぜ国家は、処刑でも断罪でもなく、このやり方を選んだのか。その理由は、治済という人物を恐れていたからではありません。国家が恐れていたのは、「父殺しの物語」「権力の中心が血で汚れる語り」「制度が自壊したと語られてしまう形式」でした。

 

 つまり国家が回避しようとしたのは、行為そのものではなく、その行為が不都合な〈物語〉を伴って流通してしまう事態だったのです。ここで国家は、もはや統治者ではなく、語りの管理者、あるいは編集者として振る舞っています。何を起こすかではなく、何を語らせないか。何を裁くかではなく、何を物語にしないか。その結果として選ばれたのが、「殺さず、裁かず、語らず、無効化する」という手段でした。

 

 この処理は、人道的だから選ばれたのではありません。また、倫理的に正しいからでもない。それはただ、もっとも波紋が小さく、もっとも物語になりにくい方法だった。だからこそ、これは「正義」ではなく、犯罪と呼ばれるべきものです。ただしそれは、国家が自らの存続のために選び取った、もっとも穏健で、もっとも洗練された犯罪でした。

 

 前述のように、治済は旧メディアの体現者でした。血や毒により支配を可視化する形式です。それに対して国家が選んだのは、血を流さず、姿を消し、語りを断つという新しい形式による排斥でした。この瞬間、国家は旧メディア的な暴力から一歩進みます。しかしそれは、暴力をやめたことを意味しません。暴力を、より見えにくく、より語りにくい形へと更新したにすぎない。第四十七回の後味の悪さは、まさにここにあります。

 

 治済は排除された。しかし世界は、きれいにはなっていない。国家は賢くなったが、無垢にはなれなかった。この回で描かれたのは、国家が正義に到達した瞬間ではありません。国家が〈編集〉という力を、統治の技術として獲得してしまった、その決定的な瞬間だったのです。


お膳立てがもたらすメディアの犯罪

 

 国家が行った排斥を「もっとも穏健な犯罪」と呼ぶとき、避けて通れない問いがあります。それは、この犯罪に、蔦重は真の意味でどう関わっていたのか、という点です。

 

 彼は実行者だったのか。それとも、単なる傍観者だったのか。結論から言えば、蔦重はこの犯罪の首謀者でも実務者でもありません。しかし同時に全く無関係だったとも言えない。強いて蔦重に罪があったとするならば、この犯罪が成立するための〈形式〉を、あらかじめ社会に実装してしまった、ということなのです。

 

 蔦重は一貫して、人を直接排除することをしていません。毒を盛ることも刃を振るうこともない。彼が行ってきたのは、語りをズラし、関係の結び目を組み替え、「誰が語れるか」「何が表に出るか」を編集することでした。

 

 この編集は、本来、表現のためのものでした。しかし、第四十七回で明らかになるのは、その編集が国家による排斥においても、同じ形式で作動し得るという事実でした。

 

 治済に対して国家が行ったのは、殺すことではありません。語らせない位置へと移すことでした。政治の中枢から切り離し、物語の外側へと追いやる。この操作は、蔦重がこれまで繰り返してきた「語りの場を移動させる」行為と、形式的によく似ています。

 

 つまり蔦重は、国家が旧メディア的な暴力から、新メディア的な排除へと移行するための技術的前提を、文化の側からお膳立てしてしまった存在だったと言えるのです。

 

 言うまでもなく、蔦重はむしろ、血を流さないために、制度に虐げられた人々を救うために、己の編集力を磨き続けてきました。しかしその選択が、結果として国家に、「殺さずに消す」「裁かずに無効化する」という手法を、与えてしまった。この意味で蔦重は、犯罪の加害者ではありません。けれども同時に、その犯罪が可能になる条件を整えてしまったという点で、共犯的な位置に立っていると言わざるを得ません。

 

 だからこそ、蔦重はいよいよ、『べらぼう』という物語の最前線から退く必要があるのです。それは敗北でも、逃避でもない。自分が作り出した形式が怪物化し、本来の目的のためだけには使われなくなったことの責任を、問われる立場にあるのです。更新に成功したからこそ、その更新が暴力として転用されることも、見えてしまった。その地点に立ってしまった者が、同じ場所に居続けることはできません。

 

 蔦重の退場は英雄の引退ではありません。それは、自分が生み出した形式の危険性を、引き受けて去る者の退場です。治済が、更新できずに退場した旧メディアだったとすれば、蔦重は、更新してしまったがゆえに退場する存在です。

 

 この二つの退場が並んだとき、第四十七回で描かれた「もっとも穏健な犯罪」は、単なる権力闘争の問題ではなく、表現と編集が孕む倫理の問題として、私たちの前に立ち上がってきます。

 

沈黙を作る技法の更新──平賀源内との対照

 

 『べらぼう』という物語には、治済の排斥と明確に対照される、もう一つの国家犯罪が存在します。それは、平賀源内の抹殺です。

 

 源内は、幕府によって公然と処刑されたわけではありません。しかし彼は、思想家としても、表現者としても、社会的に完全に無効化されていきました。そこで用いられたのは入替や隔離ではなく、人格そのものを破壊するというやり方でした。

 

 事件は、源内個人の奇行や暴力性へと還元され、彼が何を考え、何を問い、何を表現しようとしていたのかは、検証されることなく、制度の外へと追いやられます。最終的に残されたのは、「危険な変人」「扱いづらい狂人」という像だけでした。

 

 今回の治済の処理と比べると、平賀源内の抹殺はきわめて粗暴です。なぜならここでは、語りを調整するのではなく、語りそのものを壊すことで沈黙を作っているからです。

 

 この違いは、単なる時代差ではありません。そこには、国家が依拠していたメディアの違いが、はっきりと現れています。源内の時代、国家が用いていたのは、血、恥、狂気といった、直接的で感情に訴えるメディアでした。誰かを危険な存在として名指しし、人格を毀損し、社会から切り離す。それによって秩序を回復するという発想です。ここでは、沈黙は「結果」ではなく「目的」でした。語らせないために壊す。壊すために見せしめる。これが、旧メディア的国家犯罪の論理です。

 

 一方で、治済に対して国家が選んだ手法は、これとは明らかに異なります。彼は狂人にされません。人格を嘲笑の対象にされることもなく、公的な断罪の場に引きずり出されることもない。ただ、物語の中心から外され、別の場所へと移されるだけでした。

 

 この差は、国家が人道を重んじるようになったから生まれたものではありません。国家が、沈黙を作るために、もはや人格を壊す必要がなくなったからです。編集によって、語りの位置を移動させるだけで、十分に無効化できるようになったからに過ぎません。

 

 平賀源内の抹消は、国家がまだ〈語りの位置を移動させる〉という編集技術を持たなかった時代の、もっとも露骨な国家犯罪でした。そして治済の排除は、編集という技術を手に入れた国家が選び取った、より洗練された国家犯罪です。

 

 この対照によって、第四十七回の意味は、より鮮明になります。この物語が描いているのは、「国家が悪から善へ変わった」という進歩史ではありません。沈黙という目的は変わらず、そこに至る技法だけが、より目立たず、より冷酷にアップデートされている。国家がどのようにして沈黙を達成してきたのか、その冷酷な進化を示しているのです。

 

ほんとうに怖い饅頭の悲劇

 

 治済に対して国家が選んだのは、殺すことでも、裁くことでもなく、「語りの中心から外す」という処理でした。これは、旧来の弾圧や抹殺ではありません。これは編集です。同時に、蔦重が行ってきた仕事も、関係を組み替えることでした。こちらもまた、編集です。

 

 第四十七回で起きた決定的な出来事は、この二つの編集が、異なる目的を持ちながら、同じ形式へと収束してしまったことでした。

 

 国家は、秩序を保つために編集を用いた。メディアは、表現を成立させるために編集を用いてきた。本来は異なるはずの二つの力が、「殺さずに消す」「裁かずに無効化する」という一点で、重なってしまった。この瞬間、高度な編集は、表現の技術としてだけではなく、統治の技術にもなりうることが、否応なく明らかになります。

 

 第四十七回が突きつけているのは、国家が突然、残酷になったという話ではありません。国家が権力を行使するための回路を洗練させれば、それを、もはや暴力として知覚されにくい形で運用できるようになるという警句です。『べらぼう』は、この達成を、成功としても、失敗としても描きません。ただ、そこに立ち現れた構造を、静かに提示するだけです。それがかえって、それを視聴する我々自身に、「語られずに処理されること」「静かに無効化されること」に、すでに鈍感になっている世界に生きていることを察知させる。だからこそ、怖い。目を逸らすことができない。怖い饅頭とは、まさにこのことなのです。

 

 そして、ここまで見てきて、どうしても付け加えざるをえないことがあります。それは『べらぼう』はやはり悲劇だった、ということです。

 

 この物語において、誰かが道を誤ったわけではありません。善意が裏切られたわけでも、理念が堕落したわけでもない。女郎を救い、語られないものに居場所を与えようとした蔦重の編集は、最後まで、その動機においては正しかった。にもかかわらず、その編集が、あまりに強力で洗練されていたがゆえに、国家に回収され、「殺さずに消す」「裁かずに無効化する」という国家的犯罪と、同じ形式を持ってしまった。これを踏まえると、「江戸のメディア王」という呼称は、蔦重の功績を称える言葉であると同時に、(毒饅頭のような)取り返しのつかない何かを飲み込んでしまった……とでもいうような、影を帯びた呼称とも感じてしまうのです。

 

 ここにあるのは、裏切りではありません。連続性です。だからこそ、この結末には救いがありません。『べらぼう』が描いた悲劇とは、悪が勝った物語ではありません。表現が、抵抗であると同時に、統治の技術にもなりうる世界を、私たちが既に生きてしまっているという事実を、告発する物語です。だからこそ、この物語は、忘れがたい。

 

 『べらぼう』は、英雄が敗れる悲劇ではありません。編集が、成功してしまった悲劇なのです。


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