稀なる佇まいと思-想(オモイ)をもった、得難い人だった。日常の場で会うときのふとした仕草や声のおちつきと優雅さ、それが私たちに与えてくれる涼風のような心地よさもさることながら、ともに旅した奄美大島の汀や森での些細な一挙手一投足のなかには、至高のグレースとしか表現できないマブライの「気」が満ちあふれていた。ヒトとモノとタマシイとに、同時に触れ、同時に語りかけ、それらの声を同時に聞きとることのできる稀有なる手と舌と耳とを持った人だった。
万巻の書が彼の身体を透過していった。そのすべての軌跡が、南方曼荼羅を凌ぐほどの高次交錯線の混沌たる集積体として、彼の内部に美しくも苛烈な綾織り模様を刻んでいた。そこからくり出される知=イデアは、文法も定理も分別も乗り越える自由さを持っていた。けれどそうした知の内実以上に、その知の「象(かたどり)」、その実践的なスタイルにおいて唯一無二のエレガンスをそなえた存在だった。それがセイゴウさんの名づける「編集」であり、すべてを含みすべてを逃がす彼の究極の「空体」だった。ヴェイユなら「真空」vide と、パスなら「白」blanco と、T・S・エリオットなら「霊交」communion といったかもしれない。
2017年、『クレオール主義』『群島-世界論』を含む私の著作集《パルティータ》全5巻を水声社から刊行する際、告知のために制作した西山孝司氏デザインの四つ折りの内奥見本パンフレットに、セイゴウさんは次のようなすばらしいオマージュ文を寄せてくれた。
「群島をまたぎ、血脈を超え、言葉と律動を同機させる知が、リュータ・イマフクにはいつも滾っている ──松岡正剛」
境界づけられた既存のテリトリーからたえず身を引き離し、正統性を支える血筋というものの一貫性に対して不断の抵抗を試みてきた私自身の思索と著述のレゾン・デートルを、セイゴウさんはここでみごとな一行に開示して見せてくれた。自分自身が真にこだわりつづけていたものが何だったのか、それを私が啓示とともに再発見させられる一文でもあった。とりわけ、概念化され文字化される「言語」と、ことばに内在する律動としての「音楽」とを、私の仕事のなかに同時に見出し、その両者が「同機」の関係にあると喝破してくれたことは嬉しかった。「同機」とは耳慣れぬ言葉だが、けっして「同期」の綴り間違えではなく、それは同じ機会にはたらく繊細な相互性のことであり、この表現はおそらく禅語にある「啐啄同機」(そったくどうき)の核心的な意味をセイゴウさんが私にそっと耳打ちしているのだと思われた。「啐啄同機」とは、卵が孵化するときに、雛が内側から殻をつつく音に反応して親鳥が外側から同じように殻をつつき割る、そのリズムと運動が重なり合い響き合うときの、やわらかな互酬性に立った同時現象のことである。
私のなかに、そしておそらくは先人としてのセイゴウさんのなかで呼応し、同機する「言語」と「音楽」、「書字」と「律動」、「持続」と「震え」。その豊かな干渉体の存在をその時私は確信し、ボルヘスのいう、片側しかない〈オーディンの円盤〉のゆらぐ二次元性が、私たちの思考の萃点(すいてん)において、不思議な三次元性、四次元性をすら指し示す神秘に、深く心打たれていた。この神秘、この秘術に依りながら語り、書き、生きていこうよ、永遠にね……。松岡正剛と私が、うつせみの時の間で最後に目配せしながら囁き合った、二人だけの合言葉である。
ISIS co-mission 今福龍太
今福龍太
1980年代初頭よりメキシコ、カリブ海、アメリカ南西部、ブラジルなどに滞在し調査研究に従事。2001年より群島という地勢に遊動的な学び舎を求めて〈奄美自由大学〉を創設し主宰する。著書に『クレオール主義』『群島-世界論』『書物変身譚』『ハーフ・ブリード』『ヘンリー・ソロー 野生の学舎』(読売文学賞)など多数。イシス編集学校では『多読ジム・スペシャル 今福龍太を読む』を監修。