梅園と剛立、紐帯で引き合う江戸の科学者たち【輪読座 三浦梅園『玄語』を読む 第四輪】

2023/04/27(木)08:00
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2022年10月~2023年3月開莚の輪読座は、「三浦梅園『玄語』を読む」である。1月開催の第四輪、輪読師バジラ高橋の図象解説には日本天文学幕開けのドラマがあった。

 

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◆月に名前を持つ男

三浦梅園を語る際に重ね読みすべきしたい天文学者がいる。梅園と同じ杵築藩出身の麻田剛立だ。剛立は享保19年(1734)、梅園の師である綾部綗斎の四男綾部妥彰(やすあき)として生まれる。梅園とは11歳の差である。剛立は幼少の頃から天文学に興味を抱くと16歳の時に幕府の出す暦の誤りを発見、以来毎日のように空を観察し続けていた。宝暦12年(1762)、28歳になった剛立は翌年の暦に間違いがあることを見つけ杵築の人々に伝えるがその予測は疑われるばかり。そんな中、ただひとり剛立の予報を信頼したのが三浦梅園であった。

梅園の生まれ育った国東半島の富永村と剛立の住む杵築はおよそ20㎞の距離だ。梅園が綾部綗斎の門をたたいた時、剛立はまだ四歳ほどであったが、既に太陽の影を観測したり軒先の影を記録していたりしていたという。梅園は剛立の才能を高く買い、剛立は梅園を兄のように慕い、剛立が成人してからも二人は毎月のように手紙をやりとりする仲となった。

 

杵築の街

 

30歳を超えた剛立は杵築藩で侍医となっていたが、37歳の頃に脱藩する。人間関係がうまくいかなかったとも、侍医よりも天文学の研究をしたかったからとも言われるが、脱藩して大坂へ向かう。大坂には侍医の仕事を通じて知り合った中井履軒がいた。身を隠すために麻田剛立と名を変えた。杵築にいた時の名は綾部妥彰(やすあき)といったが、剛立の祖父の故郷である「麻田村」から姓をとり、名には力強く立ちあがれる人間にという志をこめた。剛立は履軒の私塾水哉館や懐徳堂の支援を得て解剖学に熱中し、人間のからだというミクロコスモスにのめり込む。梅園の『造物餘譚』にこの一節がある。

「明和九年:1772十二月十五日、麻田剛立、浪華ヨリ、書ヲ寄テ、諸禽獣ヲ解之事ヲ曰、…安永二年三月朔、同人ヨリ来ル書左ノ如シ、此コロ山脇東洋ノ門人河野大学ト云者ニ逢、去年京都ニテ婦人観臓ノ時、屠ヲナス人…」

 

大坂にきておよそ一年、剛立は町医者として働き収入を得られるようになると天体観測を再開する。『崇禎暦書上篇』を元に西洋式に観測装置を改良し日食や月食を観測し続けた。数年後、オランダ人が日本に持ち込んだグレゴリー式反射望遠鏡を入手した剛立。月面に焦点をあわせてレンズをのぞく。見えた様子を手元に写す。この月の図が、日本人が望遠鏡をのぞいてスケッチしたもっとも古い月面観測図なのだ。安永7年(1778)、剛立44歳の時のことであった。翌年、剛立は梅園に向けて「月中ヲ望ミ候。土塊とも水とも水気とも見エズ候。…月中ニ池何ヶ所も御座候」(月面観測図付記)という書を送っている。

 

剛立の月面スケッチ

 

バジラ高橋
バジラ高橋
剛立が梅園に月面スケッチの絵を送ってきて、空気も水もない世界なんですと。“池”と呼んでいるのは窪みなんだけど、そんなぶつぶつがいっぱいあるんですと。月がそうだということは惑星がまるっきり異なった世界であるに違いないということを想定させるわけですよね。この中の小さな池がクレーターで、今は「Asada」の名前がついているんだよね。

 

◆世界と日本の宇宙観

かつて宇宙の構造は、アレキサンドリアの天文学者プトレマイオス(2世紀頃)が提唱した「天動説」だと思われてきた。地球は宇宙の中心にあって、太陽や月や星が地球の周りを回っているという考え方だ。1000年以上の時を経て、ポーランド生まれのコペルニクスが地動説を確信し、死の直前となる1543年『天球の回転について』を公刊した。16世紀後半にデンマーク王の援助を受けながら天体の研究をしていたのがティコ・ブラーエだ。ティコの観測は精密だったが、不動の大地という概念を棄てられなかった。年周視差を測定することができなかったためコペルニクスの説に賛同せず、太陽のまわりをすい星と金星がまわり、それを含めた惑星と太陽が地球のまわりをまわっているという説を唱えた。ヨハネス・ケプラーはティコの研究を引き継ぎ楕円軌道による惑星の運動法則を発見する。ケプラーの第一法則と第二法則は、「惑星は中心にある太陽の周りを楕円運動しており」(第一法則)、「その軌道運動の速さは面積速度が一定」(第二法則)と表現できる。1619年に発見された第三法則は、太陽を不動で地球は毎年太陽を中心として本天を回っており、惑星の太陽からの距離の3乗と惑星の公転周期の2乗の比は一定であるというものだ。

 

『暦象考成上篇』(1723)</b> :旧説=新プトレマイオス説(地球中心に水・金・日・火・木・土が周る⇒恒星天)、新説=ティコ・ブラーエ説(地球の周りに月・日が周り、その外側に水・金・火・木・土・天、その外側に恒星天)

『暦象考成上篇』(1723) :旧説=新プトレマイオス説(地球中心に水・金・日・火・木・土が周る⇒恒星天)、新説=ティコ・ブラーエ説(地球の周りに月・日が周り、その外側に水・金・火・木・土・天、その外側に恒星天)

コペルニクス『天球の回転について』1542:周転円軌道による地動説モデル。長崎のオランダ通詞・本木良永による地図製作者ブラウの『天球儀および地球儀に関する二通りの教程』の翻訳により、日本に初めて地動説が知られる

 

日本で最初にコペルニクスの地動説の存在を知ったのは長崎通詞の本木良永である。オランダの地図製作者ブラウの書いた『天球儀および地球儀に関する二通りの教程』〈地動説を主に天動説を加えて説明〉を翻訳した『天地二球用法』を1774年に刊行する。1792年にはイギリス人ジョージ・アダムスの天文書の蘭語版を『太陽窮理了解説』として和訳し、太陽中心の地動説を紹介した。翌1793年にはコペルニクスの太陽中心地動説を詳解する『星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記』を著す。planetに「惑星」という訳語をあてたのも本木良永である。西洋に遅れること250年、訳本は写本として広く伝わり、地動説が日本に浸透していく。1778年に長崎へ遊学した際に、梅園も太陽を中心とした太陽系模型である天球儀を手に取り、地動説に触れているという。

 

『星術本原太陽太陽窮理了解新制天地二球用法記』の宇宙概念図

 

◆梅園と剛立、條理の活用へ

富永村の梅園と大坂の剛立は各々の方法を実験によって明らかにしていこうとする。梅園は「歳差(地球自転軸のすりこぎ運動によって約26000年の周期で回転移動する現象)」の原因解明に挑む。古代からの観測値が累積する東洋天文学に西欧天動説の値を加え、明清の天文学の成果を基礎に天体観測を行うことで矛盾点を解消しようとし、惑星運動と歳差運動の反観合一による統一理論を求めた。

 

運図:コペルニクスの宇宙モデルの諸星の軌道を空間〈天〉として表現と転図:ティコ・ブラーエの宇宙モデルの諸星の軌道を空間〈天〉として表現したものを反観合一し、麻田剛立の「五星距地之奇法」の基礎となった「連環図」となる

 

バジラ高橋
バジラ高橋

コペルニクスの宇宙体系とティコプラーエの宇宙モデルはヨーロッパでは対立的に捉えられている。どちらかが勝ち、どちらかが負けるのではなくて、梅園は両方あわせたらいいじゃないかと考えたわけですね。

 

法則を発見することで梅園仮説の実証を試みた結果、剛立の試算によって恒星天までの距離は860a.uであるという数値が導き出された。梅園の仮説には欠陥があったというが数学的には正しい値が成立したのである。当時流布していた和書や漢籍にケプラーの第三法則の記載はない。「麻田翁五星距地之奇法」の発見は剛立が梅園仮説を元に江戸で独自に発見した江戸生まれのケプラー第三法則なのだ。

 

 

 

◆結わえられていく日本の科学

図象解説の最後に、バジラは江戸の科学者の系統を持ち出した。前シーズンの輪読座『湯川秀樹を読む』で取り上げた図象解説資料の一部を抜粋したものだ。

 

 

湯川秀樹さんの書いた『江戸時代の科学者』や千夜千冊にはこんな一節がある

 

(梅園は)天上、地上の諸現象のすべてを貫く条理なるものがあると考え、それを明らかにしようと努力した。その場合、彼のいうところの条理が正しいかどうかを判定するよりどころは、自然現象自身の中に求めるべきことを、くりかえし強調している。ここにもまた関孝和の場合とは違った方向からの、物理学への足がかりが見出される。しかし、ここでは自然法則を物理的諸量の間の数学的関係として表現するという、決定的な一歩が踏み出されていない。

(中略)

 梅園はしかし、彼より半世紀の後に、同じ大分県に生まれた帆足万里に大きな影響をあたえた。梅園の時代と違って、万里は科学に関する多くのオランダ語の書物を手に入れ、またそれを読解できるようになっていた。彼はそれらを参考にして『窮理通』をつくった。

『江戸時代の科学者』湯川秀樹より

 

湯川さんは空海を梅園とならべて格別の天才とよぶようになるのだが、このような見方には、近代日本の知識人の湿った性分からみても、まことに大きな見方の転換を示唆するものがある。ぼくはそういう湯川さんに影響を受けつづけたのである。

千夜千冊#828夜『創造的人間』湯川秀樹より

 

『日本数寄』を読むと、万里は『窮理通』にてコペルニクスやホイヘンス、ニュートンやラボアジェといった西洋の学にあたる成果がそれまでの日本にまったくなかったことを指摘した。真空ポンプやガルヴァーニ流の起電装置などが発達しなかったことを嘆きつつも、そのうえで、やっと“先生の時”にその言が備わったと書いた。先生とは三浦梅園のことなのである。

 

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『日本数寄』では「どんな時代であれ、編集の冒険は方法の自由のあとにくるものなのだ」とも語られている。21世紀の私たちは方法の自由を手にしているだろうか。一人では立ち行かない時に紐帯のある仲間の存在によって気づける方法もある。既知であることの見方を変える時、既知の対になる未知をつかまえた時が機である。

 

 

▼4月からの輪読座は「幸田露伴を読む」▼

2023年4月の輪読座は「幸田露伴」をとりあげる。求めやすい単行本はなかなか出回っていないという幸田露伴本。

この機会に輪読してみるのはいかがだろう。

オンライン講座の輪読座は誰でも受講可能で、輪読座当日欠席でも後日動画で内容を確認することができる。

 

「諸君、いまのうちである、ぜひ露伴を読みなさい。」(千夜千冊247夜)。

 

≪日本哲学シリーズ 輪読座「幸田露伴を読む」≫

2023年4月30日(日)スタート!

※毎月最終日曜日に開催

※全日程:13:00〜18:00

 

2023年4月30日(日)
2023年5月28日(日)
2023年6月25日(日)
2023年7月30日(日)
2023年8月27日(日)
2023年9月24日(日)

 

お申込みはこちらから

https://es.isis.ne.jp/course/rindokuza


  • 宮原由紀

    編集的先達:持統天皇。クールなビジネスウーマン&ボーイッシュなシンデレラレディ&クールな熱情を秘める戦略デザイナー。13離で典離のあと、イベント裏方&輪読娘へと目まぐるしく転身。研ぎ澄まされた五感を武器に軽やかにコーチング道に邁進中。