ソンタグ的40[花]キャンプ・ノート Notes on Flowering-spirit Camp by Sontag mode

2024/01/12(金)08:09
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▼12月の夏日、凌ぎを削る熱帯夜
2023年12月15日、気象庁の観測史上133年ぶりに師走の最高気温を更新し、昼より夜が暑いという奇天烈な夏日(25℃以上のことをいう)を日本各所で記録した。
同夜、花伝所の演習風景は全8週間の後半戦に入り秘伝のピークモーメントへと集団知が動き出すタイミングにも重なった。師範代養成コースは型にはじまる基礎的なメソッド演習のあと、指南をたて続けに書く実践稽古がプログラミングされている。番稽古からランダムネスを前提にしたグループワークへ、アウトプットのスタイルが違う演習に同時並行で取り組むため、入伝生には異なる負荷がかかる。相互指南と相互評価をおこない、繰り返される動的なインタースコアによって向かう先は《キャンプ》的ふるまいでもある。

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この世にまだ名づけられていないものがたくさんある。そしてまた、
名づけられてはいても、説明されたことのないものがたくさんある。
そのひとつの例が、その道のひとびとのあいだでは《キャンプ》と
いう名で通用している感覚である…『反解釈』スーザン・ソンタグ(695夜)
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▼ハイパーディクショナリーをつくる
今期40[花]のキャンプ場は「はぐれ境」と銘打った。中村麻人花目付の暗示的なネーミングである。編集は与件にはじまると掲げているが、場に冠した名に言及した入伝生が皆無なのは奥ゆかしさだろうか。道場とは異なるメンバー編成で、いろはにほへ組6つのグループが同じお題に取り組んだ。[破]稽古の大一番、ハイパーミュージアム構想と違うのは、編纂対象が[守]稽古の全38題のお題群に限定されていること。
師範代は、教室で学衆とお題を通じてインタースコアするロールなのだから、お題の構造からねらいまで、深く理解することは必達である。なにを引用しどこと照合させ、情報をつないでいくか。ハイパーディクショナリーとは、斬新で《ハプニング》な愛でたくなるメディアの制作ともいえる。
《キャンプ》といえば、批評と自己検閲を常に問い続けたスーザン・ソンタグの58からなる、ポレミックな《キャンプ》についてのノート(1964)に源流がある。彼女のカノンに肖って渉猟してみたい。

▼生命の進化―という世界のヴィジョン
 い組:【誕生と死の編集的循環】  

 “キャンプ趣味は、よいか悪いかを軸とした通常の審美的判断に背を向ける。キャンプとはものの位置をひっくりかえすことではないのだ。…キャンプがやるのは、芸術に対して(そして人生に対して)別の―――補助的な――判断基準を提供することである。“

 

これまで見たことがないけれど、それでいて、これが見たかったと思わせるターゲットXが浮上すると、俄然なにかが動き出す。い組の躍動は、あるメンバーの一擲によって、それが露わになった。「編集八段錦のコンパイルとのこと、私は、生命の発生分化の歌、と解釈していました。」わずか一行ワンフレーズが未生の編集的世界観を映しだし、モデル交換へと向かわせた。

海から生まれた人間は60兆の細胞一つ一つに「海」を含んだ生命体である。ソンタグの盟友で翻訳者の木幡和枝は「生命体をあらためる意味での革命家でありたい」と《キャンプ》に潜む矜持をレジスタンスと説く。誕生と死、壮大な生命の循環に肖ったい組の辞書は西洋的な二項対立よりも東洋的輪廻転生へ、仏教観を底流にネオ・バイブルへの進化を兆している。



▼スタイル(歌)にのせたラディカル・ウィル 
 ろ組:【Ado「うっせいわ」編集辞典~八段錦リミックス~】

 “キャンプの経験は、高尚な文化の感覚だけが洗練を独占しているわけではないという大発見に基礎をおいている。よい趣味はたんによい趣味であるのではなく、実は悪趣味についてもよい趣味もあるのだということを、キャンプは主張する。“

 

日本語という文字文化ができる前のコミュニケーションは「歌」、オーラルだった。ろ組は新進気鋭のシンガソングライターAdoの歌詞ハコビを[守]の大トリ038番八段錦にかさねて、リプレゼンテーションによる相互解釈を試みた。付録は「唱」。自らを誤字ラ(ゴジラ)と名乗る入伝生Mの感に始まり、フォロワーシップで編集力を発揮する粒ぞろいのメンバーが応じ、伏せられた意図を「地」合わせする。

“抗うことは知性への闘いである“ 隠れたフレーズが、ろ組の共有知として通底していたのだろう。お題の方法的実践を、既知の芸術作品に見出してつむぐ。ジャズやバロック音楽にも近似する複層的なアレンジは再編集そのものだ。ろ組の取組みは、韻とリズムを駆使した身体的辞典への挑戦ともいえるだろう。

ソンタグの言及する悪趣味とは、クイアな人々が人工的な不自然を装い、規範的イメージに逆らってみせる大真面目な芝居ぶり、を指している。その有様は編集的に言えば、エディティング・セルフのことである。《キャンプ》な態度とは、編集ディレクションが目指すよくよく練られた逸脱と同義なのだ。


▼プラウジビリティへの挑戦
 は組:【稽古を貫くエディトリアリティ「らしさ」をめぐる旅の辞典】

 “キャンプはあらゆるものをカッコつきで見る。たんなるランプではなくて「ランプ」なのであり、女ではなく「女」なのだ。ものやひとのなかにキャンプを見てとることは、役割を演ずることして存在を理解することである。人生を芝居にたとえるやり方を感覚の次元でつきつめていくと、こういうことになるのだ。“

 

は組の辞書はアナロジーを起点にした平面マッピングから、段階的なステージングへとつなぎ換えた構造化のアプローチが秀逸だ。編集稽古が巡る「らしさ」に焦点をあて、ルポタージュした眼によって語られる。お題間の連環をフローで示し、攻略すべき「的」から狙いを通貫させてコンパイルする意欲作で、どこからでも参照できることを「ハイパー」と見立てている。

編集学校では「単語の目録・イメージの辞書・ルールの群れ」を総じて、「辞書」という。瞠目すべきは「らしさ」を掴もうとすると、また新たな未知があらわれる、という発見だ。「らしさ」は連想的な情報連鎖の、いわば集合体のことであり、「もっともらしさ」は射程がひろい。

 

   “女らしい女性の最も美しいところには、どこか男らしさがある。“

エディトリアリティは、本質を射貫き、別様の可能性をひらく武器になる。

 

温故知新。再話性を具有するもの
 に組:【おばあちゃんの知恵袋~ハイパーおばあちゃん吉澤ウメmeetsイシス編集学校~】

   “…キャンプ趣味は、それが楽しんでいるものに共感する。この感覚を身に着けているひとびとは、《キャンプ》というレッテルを貼ったものを笑っているのではなく、それを楽しんでいるのである。
   キャンプ的な目が認めるのは、その人物の統一性であり力である。

 

に組がナラティブモードに抜擢したのは83歳の生き字引き、吉澤ウメなる人物だ。編集学校は経験則に溢れるシニア学衆が少なくない。実に[守]の最年長学衆は87歳をマークする。古今東西、年配女性に対する集団的共有イメージはステレオタイプに留まってはいないだろうか。ソンタグの観察眼はその点でも繊細にして鋭い。女性が(男性と比べて)自身の年齢をいとも簡単に嘘吹くこと――加齢に対する不公平な見方が根底にあると察知するや、フェミニズムの根本に潜む「負」の観念に嚆矢を放った。編集学校は「負」こそ編集の原動力と見做している。編集は人や場をイキイキとさせ、そして編集は可能性を増やす方向に向かう。なにに着目し起点とするのか。師範代とは編集表象コーチである。イメージの辞書は固定概念に抗うためのスプリングボードとなり、知恵袋の存在は助太刀となるのだろう。方法日本の女たちが目覚める将来を想像したい。


意味するものとしての効能
 ほ組:【「わかるはかわる」おくすり辞典】

 “キャンプ的感覚とは、ある種のものが二重の意味に解釈できるとき、その二重の意味に対して敏感な感覚のことである。しかし、ここでいう二重の意味とは、一方文字通りの意味、他方に象徴的な意味という、お定まりの重層構造のことではない。“

 

コップツカエール、カゼフケパミン、BPTアナロジン。編集の特効薬には症状から用法、効能から製品名まで懇切丁寧なアナロジカル・ディクショナリーが出来上がった。そこで一考、なぜ「お」がつくのか。接頭辞「お」は4つの意味をもつ。「お」は「尊敬」「謙譲」「丁寧」「美化語」に加え、「親愛」「敬意」「からかい・自嘲・ふざけ」と多彩なプロフィールをもっている。二重どころか、多義にしてカメレオンのごとく可変性を備える。日本語は言語生態学的にみても他類をみない処方箋、生命力に溢れる方法文化ではなかろうか。

 “批評の機能は作品がなにかを意味するかを示すことではなく、作品が作品であるのはいかにしてなのか示すことであり、さらにいえば、作品が作品であることを示すことにある。“

「おくすり」と冠された辞典は貴重な言語遺産「お」を埋め込んだ。ほ組の媚薬は、やさしい最先鋭のメソッドとして作用するに違いない。


論理とイメージの両刀使い
 へ組:【四季方法 ~四季報に真似る、指南の真実~】

 “キャンプの純粋な例は、意図的ではない。それらは大真面目なものなのである。素朴な、あるいは純粋なキャンプの場合、本質的な要素は真面目さ――それもできそこないの真面目さ――である。そうなるのは、誇張されたり奇想天外であったり情熱的であったり、素朴であったりする要素が、適当にまじり合っている場合だけである。“

用法4をコアにして全38題をコネクトさせたタブロイドは、来春に第二版を目論む、へ組編集部の渾身作だ。フォーマットを決め、企業動向を分析するようにメトリックを多用する創意工夫が香ばしい。定量情報とエディットされた定性情報を、理解度x作業度の二軸で掛け合わせて負荷をあらわし、質量変換することで難易度のメトリックを提示している。読み手は未来の師範代。巻末袋とじには四季方法の編集プロセスを見本帳にして公開する大盤振る舞いだ。
参照元は編集かあさんから千夜千冊まで20を越えた。メディアを網羅し越境する《キャンプ》の形式が、内容の充実を物語っている。次期41[花]への方法継承が期待される。


ためらい・あらがい・ゆらぎ
はぐれ境での《キャンプ》ワークは40時間余り。寝る間も惜しんで600超の問いが交わされ、直後の振り返りには180余の対話が顕れた。編集学校の《キャンプ》がもたらす感覚は、やり遂げた達成感と創発にともなう激しい痛覚とが同等に記憶されてもいる。

  “…キャンプは部外者には近寄りにくいものだ。それは都会の少数者グループのあいだの私的な掟のようなものであり、自らを他と区別するバッジのようなものにさえなっている。…私はキャンプに強く惹かれ、またそれに劣らぬほど強く反発も感じている。“

没入する思考と発する言葉のズレ、異質への向き合い方に怯み抗い、翻弄されながらも凝縮された時間とともに入伝生は師範代へと変容しはじめる。

 

▼「存在はコトバである」
日本に現存する最古の辞書は、空海の『篆隷万象名義(てんれいばんしょうめいぎ)』(830年)といわれる。ソシュールやチョムスキーに先んじること1000年前、平安初期に日本語の原型は仏教とともに編纂されていた。

 “…キャンプとは密教的なもの(一子相伝な内密なもの)であり、小さな都会の一派閥におけるプライベートなコードやアイデンティティのしるしでありさえする。“

ソンタグは日本のかな仏教にずっと前から着目し、井筒俊彦はイスラーム文字神秘から空海の真言密教を照射して「存在はコトバである」と箴言を導いている。

空海が密教布教によって、めくるめくハイパーに「方法日本」を教化したように、お題の辞書編纂プロジェクトによって自身の視座をかえ、デタッチメントできただろうか。世阿弥は『花鏡』で「離見の見にて見る所はすなわち見所同心の見なり」~為手が我見を離れることによって、見所(観客と心を共有できる場)を創出することにあるとした。自分自身への観察眼をいったん分離させたうえで、場の再創造へとリバースさせる秘伝は花伝所が名に肖る由縁でもある。

 “なにより、キャンプ趣味というのは、価値判断の流儀ではなく、享受し鑑賞する際の流儀である。“

編集稽古の[守]38題をきっかけに、見識や趣味(数奇)を更新しつつ《キャンプ》な態度を披露すること。そして場へのフィードバックループをかえすこと。ハイパーディクショナリーはその一端であり、ふるまいの一助となっただろうか。

花伝所の目指すラディカルは、集団知により太古の学ぶモデルを呼び出しながら、目前の個人知を刺激し日本語の「刀」を磨いていく方法にある。型にはじまる式目が、やがて自身の流儀(スタイル)を確立させ社会に切り込むインターフェイスになってゆく。花伝所の一子相伝、濃密《キャンプ》もまた、自己組織化を促し生きる力ごと更新する行為に他ならない。

 写真・後藤由加里

 

参考図書

『反解釈』スーザン・ソンタグ(ちくま学芸文庫)

『スーザン・ソンタグ「脆さ」にあらがう思想』波戸岡景太(集英社新書)

『ラディカルな意志のスタイル』スーザン・ソンタグ(昌文選書)

『私は生まれなおしている 日記とノート1947-1963』デイビット・リーフ(河出書房新社)

『スーザン・ソンタグの『ローリング・ストーン』インタヴュー』ジョナサン・コット(河出書房新社)

美術手帖 https://bijutsutecho.com/artwiki/85

 


  • 平野しのぶ

    編集的先達:スーザン・ソンタグ
    今日は石垣、明日はタイ、昨日は香港、お次はシンガポール。日夜、世界の空を飛び回る感ビジネスレディ。いかなるロールに挑んでも、どっしり肝が座っている。断捨離を料理シーンに活かすべくフードロスの転換ビジネスを考案中。