※(2023/7/4記)
宮崎駿の新作「君たちはどう生きるか」がいよいよ公開されます。
この【追記】を書いている7月初旬現在、この作品の宣伝広報活動はいっさいされておりません。各劇場に張られているポスター一枚きりです。それ以上の情報はいっさいなし。
これまでにも、このような事前情報をシャットアウトした宣伝手法はよくありましたが、予告編すら作らず、いっさいの広報活動をしない、などという宣伝戦略は前代未聞ではないでしょうか。
そのため内容が伏せられていることからくる様々な憶測どころか、そもそも話題にすらなっていない、ということが起こっています。
私も身近な周囲の人に「もうすぐ宮崎駿の新作が公開されるけど知ってる?」と聞いてみると、誰も知らない、というありさまです。(封切りまで二週間を切っているというのに!)
これまでにも数多くの奇跡を起こしてきた鈴木敏夫プロデューサーのこと。今回の奇策も蓋を開けてみると大成功だった、ということになるのでしょうか。現在のところ、全く予断を許しません。
この記事がアップされるのは、おそらく封切り日(7/14)近くのはずですが、その頃には、もうちょっと盛り上がってるのかな?
私自身はどうかといいますと、もちろん期待値マックスでわくわくしています。たぶん封切りの週末には観に行くと思います。
これまでにも散々「辞める辞めるサギ」を繰り返してきた宮崎駿監督ですが、さすがに今作が最後の作品になるのは、ほぼ間違いないでしょう。刮目して待つことにいたしましょう。
◇◆◇◆◇
(以下2021/10/01筆再掲)
私が子どもだった昭和五十年代頃は、民放各局でテレビアニメが大量に放映されていました。半数以上が再放送でしたが、夕方を中心に朝から晩まで、とにかく、めったやたらと流されていたように記憶しています。
まあその質たるや千差万別で、今でいう作画崩壊なんてザラでしたし、動きもてんでなっていませんでした。外国アニメの「トムとジェリー」の、嘘みたいに滑らかな動きと、国産アニメの不恰好な動きの違いに愕然としながらも、子ども心に、まあそういうもんなのかと思っていました。
ところが、ある日ふと目にした、あるアニメに、私の目は釘付けになってしまいます。
いまだかつて見たこともないような華麗でダイナミックな動きの数々。世界名作劇場みたいなイモ臭い絵なのにメチャクチャ面白い(当時の子どもにとってカッコイイ絵とは松本零士のことでした)。
チャンネルを見ると、ん?NHK!?
こ、これはNHKのアニメなのか!NHKがアニメを作ると、こんな凄いことになってしまうのか!!
その作品の名は「未来少年コナン」といいました。
言わずと知れた宮崎駿の初監督作品です。当時の子どもに宮崎駿なる固有名など知る由もなく、とにかくこのアニメが凄いのはNHKだからだと思い込んでいました。
さて「コナン」の最終回が近づくにつれ、次回から始まる新シリーズの予告が流され始めます。
その名も「キャプテン・フューチャー」。
舞台は未来、そして宇宙!
こ、これは松本零士ではないか。松本零士の世界を「未来少年コナン」のクオリティでやるのか?これは凄すぎる!!!!
「コナン」の終わりを惜しみながらも次作への期待で胸が高鳴ったのを覚えています。はたして始まった「キャプテン・フューチャー」を見た時の失望たるや・・・。
これはいったいどういうことなのだ。全然レベルが違いすぎる。結局あの「未来少年コナン」って、なんだったんだ?NHKだったからではないのか?
その謎が解けるのは、ずっとのちのことになります。
さて、そんな宮崎駿を模写するとして何にしましょうか。
…と言っても、もう「風の谷のナウシカ」しかないわけですから、観念してこれをやるしかありません。
宮崎駿「風の谷のナウシカ」模写
(出典:宮崎駿『風の谷のナウシカ』⑤徳間書店)
第5巻からの一ページを模写してみました。物語も後半に入り、新たな展開に突入していくあたりです。ここで登場するのは、なんと【巨大粘菌】。粘菌勢力と腐海勢力が激突する展開に入っていくところです。
「ナウシカ」のコマ割りは、近年のマンガにしては、かなり【密】で、一ページ10コマを超えることも珍しくありません。
全体的にコマ構成や構図の取り方など、マンガ表現としては多少ぎごちないところもあるのですが、メーヴェみたいな飛翔物が出てくると俄然精彩を帯びてきますね。こういったシーンになると、さすがにアニメーターとしての技量がいかんなく発揮され、躍動感のある展開になります。
一コマ目は、メーヴェを真正面から捉えた美しいラインが斜めに走ります。このラインを取るのは、なかなか一苦労でした。ナウシカの体の重心の取り方もいいですね。四コマ目でチラッと見えた機影が、次のコマでグルッと回り込んでくるつなぎもいい。回り込んだ後、急角度で転進し、画面のこちら側に向かって突進しているのが、体のあおられ方で分かります。最後のコマでは上半身のみが、ほぼ水平に描かれ、自由落下している様子です。まさに“風を操りながら”飛んでいることがよく分かりますね。
また、コマ配置なども意外とちゃんと計算されていて、最初の三コマは横移動による視線誘導、そして後半三コマで縦移動に切り替わることで、突発的に粘菌が飛び出してきたことを効果的に見せています。初期の「ナウシカ」は、ほんとに好き勝手にコマを割っている感じがしますが、この頃になると、かなり上手くなっていますね。
【描き文字】にも注目してください。一コマ目の「ズーン」「グワッ」や、五コマ目の「ドオオオ」などの描き文字が、物体の後ろ側に隠れているのが面白いですね。
■三種類のスケッチ
それにしても、描き込みの量がハンパではありません。斜線を多用し、陰影などを細かい線で表現しています。実は『風の谷のナウシカ』が、こんなに無茶苦茶に描き込みの多いマンガになってしまったのには理由があります。
この作品を執筆し始める前の宮崎駿は、全く仕事がありませんでした。「未来少年コナン」の後に撮った初の劇場映画監督作「ルパン三世 カリオストロの城」が大コケしたために、しばらくの間、干されていたのです。
今でこそキネ旬オールタイム・ベストのアニメ部門で第一位となるほど高い評価を得ているこの作品も、当時は興行的失敗作として不遇の扱いを受けていました。
のちにスタジオ・ジブリの名プロデューサーとして名を馳せることになる鈴木敏夫は、もともと徳間書店の社員だったのですが、あるとき仕事がなくヒマそうにしている宮崎駿のところにマンガ原稿の執筆依頼に行ったといいます。
とにかく宮崎駿という人は、泳ぐのを止めると死んでしまう魚のように、注文があろうとなかろうと勝手に絵を描きまくっていたので、アニメーターにマンガ原稿の依頼をするという、鈴木編集者のムチャぶりに対しても、さして驚く様子もなく、じゃあどんな感じで描いたらいいですかと言いながら、たちどころに三パターンの絵を用意したといいます。それはアニメの絵コンテのように素早くあっさりと描いたパターンと、もの凄くみっちり描きこんだパターン、そしてその中間ぐらいのほどよいタッチのパターンだったそうです。
こんな時、ふつうなら「じゃあ真ん中のやつで」と言いそうですが、鈴木編集者は、迷うことなく「じゃあ、このみっちり描き込んだやつでお願いします」と言ったそうです。宮崎氏も、内心えっ?と思ったかもしれませんが、「わかりました。ではこれで行きますよ」ということになりました。
その結果、足掛け13年もの長きにわたって(その間、ときどき連載を休んでは、そのすきに長編映画を撮る、という無茶苦茶な激務に追い込まれながら)あの、みっちりつまったタッチの『風の谷のナウシカ』を描き続けたのです。
■「アニメージュ」という雑誌
『ナウシカ』の最終巻が刊行されたのは1995年。この時すでに、宮崎駿は巨匠としての地位を確立し、最終巻の刊行は、各紙誌で大きく報じられ、話題となりました。
しかしそれとは対照的に、この連載の始まった時は、まことにひっそりしたものだったといいます。
マンガ版『ナウシカ』が始まった80年代初め頃のアニメ界がどんなだったかというと、松本零士ブームがそろそろ終わりかけ、ガンダム三部作や「クラッシャージョウ」「幻魔大戦」「うる星やつら」などが盛り上がっていた頃でした。
…というところから、だいたい察しがつくとおり、宮崎駿の絵柄は、当時流行りの作風からは、かなり外れたものでした。
この頃、宮崎はすでに、もののけ姫や、トトロの原型になるようなストーリーボードを大量に制作しており、企画を持ち込んだりもしていたのですが、まるで相手にされませんでした。どう見ても当たりそうな感じがしない上、「カリオストロ」で興行的に失敗した前科もあるのですから無理もありません。
そんなどん底状態だった宮崎を、一貫して大プッシュしていたのが、徳間書店の「アニメージュ」でした。初代編集長の尾形英夫と編集員だった鈴木敏夫の二人は、早くから宮崎駿の類まれなる才能を見抜き、これをひたすらオシまくっていたのです。
■「コナンはこの人だったのか」
そもそもマンガ家と違い、アニメーターというのは、長い間、表舞台に顔を出さないものでした。
しかし、第一次おたく世代がティーン化する70年代末あたりから、少しずつ事情が変わってきます。アニメ誌やアニメ本などが出版され、アニメ業界のバックステージが紹介されるようになってきたのです。そうした文脈で、アニメ作家が固有名で語られるようにもなりました。
島本和彦『アオイホノオ』(小学館)などを読むと、その当時の熱気が感じられるでしょう。私はホノオ(島本和彦)やアンノ(庵野秀明)たちより、7、8歳ぐらい年下ですが、そのあたりの空気はなんとなく覚えがあります。
私が“宮崎駿”という名を初めて目にしたのは、たぶんこの本でした。
(『THIS IS ANIMATION』①小学館)
奥付を見ると「昭和57年4月10日」とあり、ちょうど宮崎が「アニメージュ」に「ナウシカ」の連載を開始し始めていた頃です。当時、こんな感じのムック本が、ぽつぽつ出ていたのですね。中で何人かのアニメーターをピックアップして紹介していますが、今見ても確かな人選です。中学生になっていた私は、これを見て、「コナンはこの人だったのか!」と気づいたようです。
■強引に連載
このように、アニメ界のカリスマたちが徐々にその姿を現しつつあった頃、「アニメージュ」が、とりわけ強く推していたのが、先にも言ったように宮崎駿でした。早くから特集記事を組むなどして、地道な啓蒙活動を続けていた「アニメージュ」でしたが、82年初頭にいたり、ついにその宮崎に「マンガ連載をさせる」という暴挙に出ます。それが『風の谷のナウシカ』でした。
尾形、鈴木両氏の、宮崎駿に対する入れ込みようは尋常でないレベルでした。宮崎本人は、マンガ連載にさして執着していなかったらしく、『ナウシカ』連載開始早々、アニメの仕事が舞い込んできたため、ただちに連載中止を申し入れています。そこからの「アニメージュ」側の粘り腰の説得は大変なものでした。「月2Pでもいいから」「鉛筆描きでも」と食い下がり続け、ついに宮崎も折れてしまいます。
こうして、夜の23時までスタジオで仕事し、帰宅後、泥のように疲れ切った体にムチ打って明け方まで『ナウシカ』を執筆する、という体制が取られました。映画版のストーリーに対応する初期『ナウシカ』は、そのような状態で描かれたものです。
アニメーターになる前の宮崎は、マンガ家を志していたこともあり、69年から70年にかけて「少年少女新聞」という共産党系の新聞に『砂漠の民』という短期連載を持ったこともあります。しかし本格的なマンガ執筆は、これがほとんど初めての経験でした。それがいきなり、こんな途方もない作品になってしまったのです。
気宇壮大な文明の生態史を真正面から語りあげようとする試みは、かつて初期手塚治虫が手をつけ、その後、白土三平の神話伝説シリーズなどで、やや消化不良気味ながら着手されたものの、実はあまり多くはないのですね。宮崎駿は、戦後マンガの伝統的流れから少し離れたところから現れ、これを、みごとに切り拓いて見せたのです。
■かつて“絵物語”というものがあった
『ナウシカ』は、内容もさることながら、絵のタッチなども、あきらかに「マンガ」のそれとは違いますね。手塚系の正統派でもなく、劇画系でもなく、さりとて当時勃興していたニューウェーブともちょっと違います。
このタッチは、実は“絵物語”なんですね。
“絵物語”といっても、今の人にはピンとこないかもしれませんが、これは終戦直後の少年少女たちにとって、マンガ以上に親しまれていた一大ジャンルでした。当時の「少年クラブ」や「少年画報」といった少年誌は、マンガがメインではなく、山川惣治<1>や小松崎茂などの絵物語が雑誌の柱だったのです。
少年時代の宮崎駿は、手塚マンガなども愛読していたようですが、マンガよりも、むしろ絵物語の方に魅力を感じていたようです。
当時、人気のあった絵物語の中でも、とりわけ宮崎駿への影響がはっきりしているのは、福島鉄次の『沙漠の魔王』です。
これは昭和24年から31年にかけて秋田書店の「冒険王」に連載された作品でした。アメコミを意識したようなキッチュで毒々しいタッチの絵柄は“原色の悪夢”とも呼ばれ、一度目にしたら二度と忘れられない強い感興を呼び起こします。
(福島鉄次『沙漠の魔王・完全復刻版』秋田書店)
ながらく名のみ知られた幻の作品だったが
2012年、完全復刻版が刊行され、話題となった
宮崎少年も、この作品のもつ悪夢的イメージに魅了された一人でした。とにかく、ここに描かれる世界観や、ガジェットの一つ一つが、ことごとく宮崎少年の心に、ぐさぐさ突き刺さったのです。
たとえば、身につけることで空を飛べる「飛行石」なんて、そのまんまラピュタですし、肉厚な主翼を広げた巨大飛行艇や、「コナン」のフライング・マシーンの元になった金属気球など、メカの造形にも大きな影響を与えています。幅広の手足を持つ有人ロボット機は、ラピュタのロボット兵に受け継がれました。
『沙漠の魔王』は爆発的な人気を呼び、スタート時2万部ほどだった「冒険王」を55万部(昭和28年新年号)の大台まで引き上げる働きをします。終戦後、朝日新聞社を退職した秋田貞夫が創業した秋田書店は、社長自らリヤカーを引いて本屋を廻るなどの苦労の末、『沙漠の魔王』の大ヒットによって、本格的な大出版社に脱皮することになりました。今も秋田書店の社屋ロビーには福島鉄次のレリーフが飾られているといいます。
このように少年娯楽文化に大きな足跡を残した“絵物語”というジャンルも、その後勃興してくる手塚系統のストーリーマンガに徐々に駆逐されていくことになります。そして週刊誌の時代が始まる60年代には、ほぼ跡形もなく消えて去っていたのでした。
宮崎駿がマンガ版『ナウシカ』に着手した80年代初頭は、新傾向のマンガやアニメがもてはやされていた時代でした。そこへ、ほとんど絶滅種とも言うべき“絵物語”の筆法をひっさげて宮崎駿は登場したのです。そして、これは『ナウシカ』のような気宇壮大な文明史を描くには、かえって、ぴったりなものでした。
■マンガ版と映画版
マンガ版『風の谷のナウシカ』は、完結からはや20年以上が経過し、累計発行部数1700万部以上(Wikipedia情報)といいますから、すでに多くの人の目に触れていることでしょう。
しかし一応、読んだことのない人のために説明しておきますと、映画版「ナウシカ」は、全7巻の原作のうち、おおよそ2巻目あたりまでの話を描いています。実は映画版は、壮大な物語のプロローグに過ぎないのです。
映画では、物語が、トルメキアという大国と、それに抵抗する群小国家、という枠組みの中で語られていきますが、原作では、それらが、もう少し複雑な世界情勢の中のローカルな出来事であったことが明らかにされていきます。実はトルメキアは土鬼(ドルク)と呼ばれる神聖帝国と交戦中で、土鬼側は、古代の技術を復活させて巨神兵などをよみがえらせようとしているのですね。そして、この土鬼の民たちの一部で「青き衣」の聖者伝説が伝わっているのです。物語はおおむね、この土鬼の聖都シュワへ向かって、主要キャラたちが集結していき、そこで最後の秘儀が明らかにされる、という構造になっています。
一方、映画版のクライマックスは、王蟲の群れに蹂躙されそうになる風の谷を、ナウシカが犠牲的精神で救う場面に当てられていました。
映画版では傷つけた王蟲の幼虫をおとりにして王蟲の大軍を送り込むという姦計を企てるのはペジテの残党ですが、原作では土鬼が用いています。場所は風の谷ではなく、酸の湖に駐屯するトルメキア軍。そして「青き衣」の伝説をナウシカに重ねるのは土鬼の僧正です。映画版では、この聖者伝説を、風の谷の長老・大ババが語ることに改変し、”犠牲による罪の贖い”と”復活”、そして“予言成就”のモチーフを導入することで強引に物語のクライマックスを作り出していました。映画版は、壮大な物語の一部を切りとって、二時間弱のドラマに集約するために、かなり無理をしているのですね。
しかし、映画版には映画版の良さがあります。
結末部に置かれた死と再生のシークエンスは、物語に決着をつけるための苦肉の策だったには違いありませんが、これが結果的に作品の神話性を高め、まるで新約聖書の冒頭に置かれた四福音書の一つを読んでいるような気にさせてくれます。私たちは、ここを入口にして、聖書全体に入っていけばいいわけです。
■BPTのP
映画版の「ナウシカ」は、「大国トルメキア」vs「風の谷をはじめとする小さなコミューン」といった対立、あるいは「権謀術数に明け暮れる人間の醜く汚れた世界」vs「浄化された王蟲たちの世界」といった対立構造が、非常に明快で見通しのいい枠組みの中で語られていました。しかし、原作の方はもう少し込み入っています。
大きな二項対立のフレームの外に、ちょっとした残余がしのびこみ、その残余が、さらに物語を駆動していく――いわばツープラスワンの構造になっているのです。
たとえば「蟲使い」といったフラジャイルな存在が登場し、さらに「森の人」といった人たちが現れます。こうして少しずつ色合いの異なった要素が加味されていく中で、単純な対立構造がかき乱され、解決困難な複雑な方程式の様相を呈していきます。
簡単に解答が出そうになると、はたと立ち止まる。そこで自問自答が始まる。マンガ版「ナウシカ」の13年は、まさにその連続でした。
こうした思考の揺れは、キャラ設定にも表れています。たとえば、映画版では、もっぱらかたき役的なふるまいを割り当てられていたトルメキアの女将軍クシャナや、マンガ版のオリジナルなかたき役である土鬼の僧正チヤルカなどは、物語の進展につれ「善人化」していきます。
だいたい宮崎駿の世界観では、頂上でノホホンと踏ん反り返っているヤツが絶対悪であり、前線で頑張っている人は、陣営のいかんを問わず、だんだんイイヤツになっていくのですね。
一方、世界を俯瞰的な地点から見ている人、抽象的な観念の世界に生きている人は、ある意味でナウシカにあまりにも近しすぎるため、鏡像的な存在として乗り越えられ、退けられてしまう傾向にあります。
即身成仏した土鬼の僧侶などは、観念世界の中でナウシカと対話していくうちに、「ニセモノ」と判定され、おぞましい髑髏の本性を暴露してしまいます。これなどは僧侶道徳を煮詰めていくうちに、作者の中で限界が露呈し、やっぱりこいつは、あの僧侶とは別人だったことにしてしまおうと、即興で変奏したんだと思います。
また物語終盤に登場する庭の番人なども、はじめはとても理想化された形で登場するのですが、やはり途中で隠された本性を暴露する、という形で退場されられます。
これは宮崎駿が本気で解答を求めて悪戦苦闘しながら、ああでもないこうでもないと、一度は手にした最適解をボツにしていく過程を、そのまま開示して見せているようにも見えるのです。
宮崎駿の思考の軌跡は、最終的に”清濁あわせ呑んだ生命賛歌”とでも言うべき一点に集約されていくのですが、重要なのはそこではなく、そこにいたるまでの思考のロング&ワインディングロードなのですね。
問いの答えが重要なのではなく、どういう問いを立てるのか、そして、問い(B)から答え(T)の間のプロフィール(P)こそが要なのだ、ということを、みごとに体現してみせたのが宮崎駿でした。
『風の谷のナウシカ』が、何度再読しても楽しめる理由も、結局はそこにあるのでしょう。
◆◇◆宮崎駿のhoriスコア◆◇◆
【巨大粘菌】59hori
粘菌が本格的にマンガに登場した最初のケースではないかと思われます。
【密】70hori
このページは四段割りで、それほどでもありませんが、ページによっては五段とか六段ということもあります。
【描き文字】64hori
描き文字は、画面の一番手前に置かれるのが普通ですが、「ナウシカ」の場合、後ろに回ることが珍しくありません。
<1>「風の谷のナウシカ」が封切られた84年3月は、角川アニメ「少年ケニヤ」が封切られた月でもあります。当時、角川書店は「少年ケニヤ」をはじめとする山川惣治作品を文庫で復刻し、大キャンペーンを行っていました。これにより、はからずも80年代の若い世代が“絵物語”というジャンルに初めて接することになったのです。
アイキャッチ画像:「君たちはどう生きるか」ポスター/宮崎駿『風の谷のナウシカ』①徳間書店
堀江純一
編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。
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