東京を離れるまで、桜と言えばソメイヨシノだと思っていた。山桜に江戸彼岸桜、枝垂桜に八重桜、それぞれのうつくしさがあることは地方に住むようになって知った。小ぶりでかわいらしい熊谷桜もそのなかのひとつ。早咲きであることから、先陣争いで知られる『平家物語』の武者・熊谷次郎直実にちなんで付けられたという。直実の子・直家は、平泉が滅んだ奥州合戦に功があって陸奥国に所領を得た。それを三男・直宗が受け継いだので、実はみちのくにも縁がある。
直実と桜の縁は、名前だけではない。文楽と歌舞伎に『一谷嫩軍記』という演目がある。能や幸若舞でも『敦盛』という曲で描かれた、直実が十六歳の平敦盛を討たざるを得なかったエピソードが下敷きになっている。『一谷嫩軍記』では敦盛は後白河院の落胤となっていて、直実は義経に、桜の木に添えられた「一枝を切らば一指を切るべし」という制札を示される。これに「一子を切らば一子を切るべし」という意図、「敦盛を助けよ」という義経の命を読み取って、直実はちょうど同じ年の我が子の首を代わりに差し出す、という物語だ。史実でも舞台でも、直実はのちに出家して法然の弟子になっている。
主君のための自己犠牲は歌舞伎にもよく描かれるけれど、現代人にはなかなか腑に落ちにくい。ただこれは、直実が敦盛の命を奪ったことで世を儚んで出家したという説に対して、戦場で敵方を討つことは武士のなすべきことであるのだから、「よっぽどの事情」がさらにあったのではないか、という問いが江戸時代の浄瑠璃作者にあり、それに答えた創作だとの見方がある。
『法然上人行状絵図』に、直実がはじめて法然に会いに行った時の様子が描かれている。「罪の軽重をいはず、ただ念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と聞いて、直実は「『手足を切り、命を捨てでもしたら、後生は救われるだろうか』と考えていた」とさめざめと泣いた。
『一谷嫩軍記』では、桜はそのうつくしさのために切られうる枝であり、元服したての敦盛や直実の子が子どもでも大人でもあるように、あはいの存在を暗示している。切るか切られるか、一方を守るために他方を切らねばならないのか―西行や坂口安吾が感じたように、桜はその向こう側に彼岸が透けて見えるような紗幕だ。
信長が好んだ「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」という『敦盛』の一節のように、『一谷嫩軍記』でも直実は「十六年はひと昔、ああ夢だ、夢だ」と語って世を捨てる。
直実は二者択一を強いた此岸の舞台自体を降りて、墨染の衣に着替えた。直実が俗世を生きた五十年も、敦盛の十六年も、桜の花びらが枝を離れて土に降りるまでの時間も、ひとしく幻だろうか。散る花は、はらはらと螺旋を描いて地面に着くまでの、時間という夢を目に見えるようにしてくれる。
またひとひら、またひとひら…武士の世のはじめに、殺生を犯した身のままで一心に唱え続ける念仏も同じように、宙を舞い時を連ねて、その紗幕の向こうに浄土を垣間見せる。
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林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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