バンドネオンのため息――54[守]師範数奇がたり

2024/11/27(水)07:54
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 世界は「音」で溢れている。でも「切ない音」は1つだけ――。54[守]師範が、「数寄を好きに語る」エッセイシリーズ。北條玲子師範が、タンゴを奏でる楽器「バンドネオン」について語ります。


 

ただタンゴの音を奏でるために、バンドネオンは存在する。寂しいような、激しいような胸に迫る切ない音が私の胸を打つ。

 

【バンドネオンを弾く女】

 

もう10年以上前になるが、その日、私は、バンドネオンを弾くために、バンドネオン奏者のもとに向かった。アルゼンチンタンゴを踊るようになって3年くらい経っていたと思う。歩く時も、寝る時も(!)ずっとタンゴを聴き続け、心臓がタンゴのリズムで動けばいいのにと願っていた頃だ。いつか踊れなくなっても、タンゴを楽しむためにバンドネオンを習おうと思ったのだ。教室に着き、扉を開けると、ぴょこぴょこと音が飛び出すような拙い演奏が聞こえてきた。大学生の男の子が、ゲーム音楽をバンドネオンで弾いており、私はとても驚いた。アルゼンチンタンゴを踊る人たちはある程度成熟していて、踊り場で大学生を見ることはほとんどない。バンドネオンはドイツで生まれ、1920年代から第二次世界大戦が始まる前まで、アルゼンチンへ輸出されている。いくつかのタイプがあるが、左右合わせて140ほどのボタンを押しながら、蛇腹を伸び縮みさせて演奏する。本当に、考えられないことだが、右と左にあるボタンに、ピアノの鍵盤のような規則性はない。さらに、胴体である蛇腹を開くときと、縮めるときに、同じボタン
を押しても音が変わる。ボタンの配列が規則的ではないという点をとっても、およそドイツ製というイメージとはかけ離れている。

 

【蛇腹を膝に】

 

先生と向き合って座ると、膝にバンドネオンを乗せ、左右のバンドに指をグッと差し入れて、ボタンに指を伸ばす。ボタンの範囲が広くバンドは固く、指が裂けそうだが、弾いているうちに、なぜか滑らかにボタンを押すことができるようになるそうだ。蛇腹が伸び縮みするたびに、フー、フーと、と深い息遣いが聞こえる。音だけではなく、振動で、皮膚全体で音をきくという稀有な経験を
した。バンドネオンの音を体で浴びることができて感激でいっぱいだが、蛇腹をいつ押して、戻していいか分からず、まるで手品の蛇
のおもちゃのようにズルズルと伸びきり、床まで届きそうで、まったくコントロールできなかった。情けない。アルゼンチンタンゴの作曲家でバンドネオン奏者のアストル・ピアソラは、立ったまま片膝にバンドネオンを乗せて演奏した。蛇腹はいつも彼の膝の
上に収まっていたというのに。

 

【AA印の悲しみ】

 

悪戦苦闘する私の目の前で、先生が膝に乗せたバンドネオンはAA印。ドブレアと呼ばれる名器だ。美しい螺鈿を施したそれは、私が借りたバンドネオンとは音が異なる。AAの音を目の前で聴きながら、没入し、音に感動して自分が泣いていることにも気が付かなかった。バンドネオンはすでにこの世のどこでも作られていない。まるで骨董品のような楽器を修理しながら、皆、大事に使っている。
修理する職人にも高齢化の波が押し寄せていて、このままではバンドネオンはこの世からなくなってしまうかもしれない。AA印の悲しみはとからないのだ。

 

そのレッスンの後、バンドネオンを演奏する計画は頓挫してしまったが、ピアソラ生誕100年の年に、イシス編集学校で師範代になり、松岡校長から、「ピアソラよろしく教室」の名前を頂いた。学衆から届く回答はあの、バンドネオンのレッスンの日に聞いたAA印の音色のように、私を夢中にさせた。回答、指南のラリーはタンゴのリズムのように跳ね、踊り、今も私は編集というタンゴを言葉で奏でつづけている。

 

 

  • 北條玲子

    編集的先達:池澤祐子師範。没頭こそが生きがい。没入こそが本懐。書道、ヨガを経て、タンゴを愛する情熱の師範代。柔らかくて動じない受容力の編集ファンタジスタでもある。レコードプレイヤーを購入し、SP盤沼にダイブ中。

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