マンガの中の「鬼」◢◤[遊姿綴箋] リレーコラム:堀江純一

2024/02/02(金)09:41
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 さて、今回のテーマは「鬼」である。

「鬼」を描いたマンガはないか…と問われるならば、今ならやはり『鬼滅の刃』を思い浮かべる人が多いだろう。

 ある意味で非常に古典的な、ストレートに怖い、「鬼」らしい「鬼」を描いた作品であった。

 そもそも、鬼といえども千差万別である。”ひろすけ童話”の『泣いた赤鬼』は、もはや古典となっているし、どこか悲哀を感じさせる鬼が描かれる物語も多い。『鬼滅の刃』の鬼にしても、彼らは皆、もとは人間であり、涙なしには聞けない悲しい過去を背負っているのだ。

 鬼ってなんなんだろう。そして、なんで、ちょっと悲しいんだろう。

 

 

ちょっと悲しくて愛嬌のある鬼たち

作者は『それチン』の阿部洋一先生!!

(『オニクジョ』阿部洋一・集英社)

 

阿部洋一『それチン』を描く!【太田出版×多読ジム 帰ってきたマンガのスコア】

 

阿部洋一インタビュー【太田出版×多読ジム マンガのスコア篇】

 

 古くからある、やまと言葉としての「おに」は、「隠(おぬ)」に通じるとも言われ、人の目に見えぬ幽鬼的な存在を指していた。

 やがて字義の近い漢字の「鬼」が当てられるようになり、仏教や陰陽道による地獄の獄卒や夜叉などのイメージ、また、恨みを残して死んだ怨霊のイメージなどまでが加わって悪鬼羅刹的なイメージが形成されていった。鋭い角や牙を持ち、赤や青といった異様な体色、毛むくじゃらで恐ろしい形相、といった鬼のイメージは中世期にはすでに定着していたという。

 おそらく共同体の周辺に生息していた山人や山窩(サンカ)、あるいは漂泊者などの海洋民の姿が、具体性を持った鬼のイメージを形作っていたのだろう。

 容貌魁偉な異界の存在、人里離れた山奥、遠洋の島(鬼ヶ島)などを住処とする、共同体の外側にいる得体の知れない人たち。古代社会の人々にとって、慣れ親しんだ生活圏の向こう側にいる者たちというのは、もの凄く怖い存在だったはずだ。

 里に下りてきた場合は、丁重にもてなし、饗応して、機嫌良く帰っていただく。その際に決して作法を間違えてはならない。一つ間違うと大変なことになる。その点については、以前にも紹介した諸星大二郎の稀代の名作「闇の客人」を参照されたし。

 

諸星大二郎「闇の客人」

数ある稗田礼二郎モノの中でも傑作の一つに数えられる

 

 一方で、もう一歩進んで積極果敢に、鬼を「成敗」しに行く場合もある。「鬼退治」である。

 桃太郎は昔話の王者だ。

『お伽草子』の太宰治ですら「桃太郎だけは書くことができない」と言い、避けて通った。料理のしようがなかったのである。

「これは、もう物語ではない。昔から日本人全部に歌い継がれて来た日本の詩である。物語の筋にどんな矛盾があったって、かまわぬ。この詩の平明濶達の気分を、いまさら、いじくり廻すのは、日本に対してすまぬ。」と太宰は言う(もっとも、ここには太宰一流の韜晦も含まれてはいただろう)。

 

 しかし「退治」される鬼の方にしてみれば、たまったものではない。たしかに鬼が悪さを働くからだ、と言うのだが、そんなに俺が悪いのか?(byギザギザハートの子守唄)

 そうした視点から描かれた秀作に大山海『奈良へ』(リイド社)がある。

 奈良を舞台にした、ちょっと風変わりなご当地マンガなのかと思いきや、突然、異世界ファンタジーバトルマンガが始まってしまう。

 しかもそこに、狩られる側の鬼の視点が紛れ込んでくるのだから、読んでいて居心地の悪いことこの上ない。ゲームやマンガに描かれる夢や冒険に無邪気に興じる私たちの身勝手さをチクチク突き刺してくる後味の悪さが遺憾なく発揮された傑作であった。

 

(大山海『奈良へ』リイド社)

 

 それにしても、鬼というのはつくづく悲しい存在である。

 征服される鬼の側の悲哀――これはむしろ今となっては、「鬼マンガ」の王道パターンと言ってもいいぐらいかもしれない。

 しかし、こうした展開も、昔から当たり前のクリシェだったわけではない。このパターンを作った先人がいたはずだ。

 マンガに描かれる「鬼」のイメージを一新した革命者に永井豪という人がいる。

 その作品の名は、文字どおり『鬼』である。

 発表は「週刊少年マガジン」1970年1月1日号。全100ページを超える大長篇が一挙掲載された。デビュー二年目にして、早くも超売れっ子となっていた永井豪が初めて描いたシリアス物だった。「なんでも好きに描いていい」という編集部の依頼を受けた永井は、腕によりをかけ、満を持してこの作品を世に放ったのである。

 

 鬼は、なぜ日本に現れたのか?

 その謎に驚天動地の新解釈を加えたこの作品は、発表当時かなり話題になった。

 今となっては、こうしたトリッキーな設定は、さほど珍しいものではなくなっているが、当時は全く前例のないものであった。それまで『ハレンチ学園』その他のギャグマンガで人気を博していた永井豪は、これ一本で本格的な物語作家としての力量を世に知らしめたである。

 以後、永井は『魔王ダンテ』『デビルマン』『バイオレンスジャック』『手天童子』『凄ノ王』と矢継ぎ早に重厚長大な物語群を描き継いでいくことになる。

 

 ところで、この作品、永井豪にとっても画期をなす作品であることは間違いないのだが、ただ一点の瑕疵、それも決して小さいとは言えない決定的な瑕疵がある。

 一読すればわかるように、この作品、どう見ても永井の絵ではないのだ。

 

 これには事情があった。当時、何本もの連載を抱えオーバーワークとなっていた永井豪は、過労の余り40度の熱を発して倒れてしまったのである。

 しかし新年号の目玉企画である100ページ超の作品(当時の誌面の半分に当たる)に穴をあけるわけにはいかない。やむなく、作画は他のスタッフの手によってなされることになった。

 たとえ他人の絵で描かれたとしても『鬼』は傑作には違いない。しかし、もしもこの作品が当時の永井豪の絵で描かれていたとしたら、どれほどの大傑作となっていたことか…そう思うと残念でならない。

 

(永井豪『鬼-2889年の反乱-[特装版]with BOX』復刊ドットコム)

2021年、復刊ドットコムにより、定価22,000円の豪華特装版が刊行された

 

 さて、『鬼』以後も永井は”鬼”をテーマにした作品を描き続けている。短編「鬼ごっこ」「白い世界の怪物」「鬼婚式」「夜に来た鬼」などの他、長編作『手天童子』がある。この作品については以前、別の項でも述べたことがあるが、冒頭シーンのビジュアルが、なにより素晴らしく、また、物語が破綻しがちな永井作品には珍しく、結構のしっかりした作品である。

 また、永井には「悪魔」をテーマにした作品も多いが、「鬼」と「悪魔」は、彼の中で、同じエートスの中で描かれているようだ。

 永井マンガに描かれる「鬼」や「悪魔」は、しばしば、この世界の先住者であり、野蛮な人間どもに追われたディアスポラである。彼らは本来の支配権を回復するために熾烈な戦いを繰り広げる。

 

 異形者としてマージナルな世界に追いやられた者たちの怨嗟と復讐の連鎖、それがさらなる悲劇を生み出し、世界は崩壊に向かって突き進んでいく。――こうしたモチーフを、永井豪は執拗に描き続けた。このような物語類型は、日本マンガの中に脈々と受け継がれていったが、そのエッセンスを、最もストレートな形で継承した一人が『進撃の巨人』の諫山創だったろう。ラスト近くに登場する、あるカットは、あきらかに『デビルマン』へのオマージュだった。

 

 これから先も、マンガの「鬼」は、形を変え、姿を変えて、私たちの前に現れることだろう。

(了)

 

追記・永井豪氏の出身地である石川県輪島市にある永井豪記念館が、このたびの能登半島地震により全焼、貴重な原画資料ともども灰燼に帰してしまうという悲しい出来事がありました。このたびの被災を受けて、永井氏は「毎日報道される故郷・輪島の映像と、私の頭の中に記憶している故郷の景色とのギャップに愕然とし、心を痛めています」とのコメントとともに「私は現役のマンガ家ですので、もし(原画等が)失われていたとしても、いくらでもまた描いたり作ったりすることが出来ると思っています」と発信されています。被災地の一日も早い復興を願うとともに、永井豪氏の今後の活躍にも期待したいと思います。

 

 

在りし日のなーちゃん

※昔は、いっしょにあちこち遊びに行ったものです…。

 

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  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。