春になると花を咲かせる宿根草は、寒い冬の間は地中に根を張り、その時を待ちわびている。
1月20日に行われた第40期ISIS花伝所「敢談儀」の最後のプログラムは「黒潮縁座」。この場では、放伝生21名が敢談儀の中で受け取ったこと、そのなかで見えてきた自分の編集道を花伝所の指導陣、オブザーブの各講座の学匠、師範たちと交わし合う。
入伝生は師範代になるため、師範からもらう問いに自分なりの感で応じ、答を返していく。自分の中に今までになかった新しい価値や意味を取り込んでいく、編集学校において「問感応答返」と呼ばれるこのプロセスは、時に痛みをともない創をつくる。黒潮縁座は、花伝所で幾度となく繰り返されたこの問答の最後の場となる。
冒頭、中村麻人花目付から「“自分”に戻らず、師範代として言葉を発するように」というメッセージが放たれた。全員が車座となって交わし合う場は、このひと言で一段と空気が引き締まった。
「不足や不安があるからこそ想像力が高まる機会になる。この場に不足や不安を持ち出さない」中村・林両花目付の言葉に放伝生の居住まいが正される。
ブビンガを囲んで、噛みしめように言葉を発する放伝生、Zoomの向こうの放伝生に、指導陣も重ねていく。
(放伝生)
―用意してきた言葉ではなくその場で出てきた言葉を大事にしたい。
(放伝生)
―問感応答返は短いスパンだけでなく、長いものもあることを知った。
(梅澤光由師範)
―言い淀む、立ち尽くす、語りたいのに語れないことはむしろ歓迎すべきこと。書けなかったことの方が書けたことの何倍も大事。
予定調和ではない言葉は切実で、時間が経って現れることもある。
突破の日から半年。堂々と編集道を語る「元」破学衆は、すっかり師範代の顔になっていた。
(放伝生)
―ISISは個を大切にするが教室は崩壊しない。それが普通の組織と違う。
(放伝生)
―教室の中で時に起こる“事件”も、見方が変われば意味が変わる。
(田中晶子所長)
―体験することをおそれない。事件というのはこの中だけではなく、世の中全てが事件だらけ。だけどその中から自己が生まれる。編集学校の中で次々起こる事件を体験してほしい。
「事件」は、振り返ればその教室だけのプロフィールになる。
(放伝生)
―場の力というものを今日あらためて感じた。
(林朝恵花目付)
―教室という場でしか作り得ない関係の中で「自己」ができる。編集学校は、編集状態にある自己が次々生まれる場で、一つにおさまることはない。
敢談儀という「場」に、教室という「場」が重なっていく。
黒潮縁座のさいごに、吉村林頭が放伝生に語りかける。
―不安とは「感」で不足は「応」。不足には二つあって、一つは技法や芸当が足りない不足。そこは磨く、手を抜かない。もう一つは生きづらいという不足。それは情報を見る目があるからで、武器になり得る。
自分の「不足」から、師範代になることに「不安」を感じていた放伝生たちは、黒潮縁座という場の交わし合いのなかで、だからこそ師範代になる意味を受け取った。編集学校では師範代は誰しもフラジャイルな存在であり、そこが世の中にある学校と決定的に違う点なのだ。師範代にフラジリティと多様さがあるからこそ、編集学校という仕組みがいきいきと動き続けられる。
――やりきれない想い、分からないことをそのまま抱えて生きていくことが、私たちの認識力や表現力を豊かにすることができる――
1787夜 『ネガティブ・ケイパビリティ』
「不足があるということが師範代になる理由になる」
交わし合いの中で一人の放伝生が言った。
土田は「不足があるからこそみんなで進みたい」と言葉を紡いだ。
不足は「ゆらぎ」となり、だからこそ学衆と師範代の間で相互編集が起こり、変化し続けることができる。放伝生は世界で一つだけの教室名をもらい、その教室でしか起こりえないことにゆらぎながら師範代に「なって」ゆく。
新緑まぶしい季節に53守師範代としてデビューする放伝生たち。その日に向けて、冷たい雪の下で息をひそめる植物のように、用意を尽くし登板のときを待つ。
写真/後藤由加里
森川絢子
編集的先達:花森安治。3年間毎年200人近くの面接をこなす国内金融機関の人事レディ。母と師範と三足の草鞋を履く。編集稽古では肝っ玉と熱い闘志をもつ反面、大多数の前では意外と緊張して真っ白になる一面あり。花伝所代表メッセージでの完全忘却は伝説。