脱力の共約不可能性 OTASIS-8

2020/02/08(土)09:19 img
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 ゴートクジイシス館では、毎週月曜日の夜、松岡事務所と学林局の有志たちが、今井秀実先生の指導を受けながら呉式太極拳の稽古に励んでいる(ごくまれに、松岡正剛もいっしょに稽古する)。今井先生はもともとは極真空手の先生だったのだが、呉式太極拳の奥深さに惹かれて“転向”し、たちまちその極意を会得してしまったという驚異の身体修養力の持ち主だ。今井先生の師父の沈剛(ちん・ごう)先生がすばらしい指導者だったことが大きいらしいが、なんといっても今井先生は「学び」の方法に長けた稽古名人なのだろう。日夜太極拳の研鑽を積みながら、喜多流の先生について能仕舞の稽古にも励んでいらっしゃる。きっと根っからの稽古好きでもあるのだろう。

 

 そのような先生に教わりながら、恥ずかしいことにイシス館の面々の稽古ぶりはまさに牛歩である。私を含めてほとんどのメンバーがろくに自主稽古をしようとしないうえに、行事やら仕事やら体調やらの事情で、週一度の稽古の時間を確保しつづけることすらままならないからだ。それでも今井先生はお小言ひとつ言わず、一つひとつの「型」で意識すべきことを何度でも、根気強く繰り返し指導してくれる。繰り返すばかりではなく、鈍牛なりに少しずつでも「型」を習いおぼえていく面々に合わせて、指導の言葉や示し方をどんどん深化させ、バージョンアップしてくれる。

 

 今井先生自身が、指導者の立場だけに甘んじず、呉式太極拳を修養しつづけているからこそできることなのだろう。このような今井先生の姿勢からは、「型」を修養する稽古や指導のあり方について(ひいては編集稽古のあり方についても)、さまざまなヒントをいただいてきた。少なくとも私自身、たとえ太極拳のはかばかしい上達は望めなくとも、今井先生の指導法に触れられることが稽古を続けるモチベーションになっているほどだ(稽古をしない松岡は、もっぱら今井先生の修養身体を眺めることに関心があるようだが)。

 

 もっとも太極拳を習いたてのころは、私にはまったく別な、ちょっと不埒なモチベーションもあったのだ。というのも、ちょうど今井先生の指導を受けるようになった時期と相前後して、ゴートクジの駅向こうの岳本恭治先生のピアノ教室に通うようになったのだが、その岳本先生の教えの基本は「力みをとる=脱力する」ことにある。じつは太極拳の基本もまさにこの「力みをとる=脱力する」なのである。

 

 そもそも私が岳本先生につくことにしたのは、独学による無理な奏法で打鍵の稽古を重ねて手指を痛めてしまったせいであり、岳本先生は事務所のご近所であるだけではなく、ピアノの正しい奏法を伝授してくれる先生という評判を聞いたからである。私にとって、正しい奏法=脱力を身に付けることは切実な問題になっていたのだ。そこへはからずも太極拳の今井先生からも「脱力」を伝授してもらえることになり、西洋文化の権化のようなピアノと、太古の東洋思想に根ざした太極拳が、私のなかで「脱力」という共通項によって直結してしまった。太極拳の稽古がそのままピアノの稽古にも役立つはずだと思い込んでしまったのである。

 

 案の定、頭で考えるほどに、ピアノと太極拳の稽古をつなぐことはたやすくはなかった。ピアノにおいても太極拳においても、「脱力」こそは基本であると同時に最終目標のようなもの、何年もの修練を経ないと体得できないものだったのだ。そのうえ、どうもピアノでいう「脱力」と太極拳でいう「脱力」とでは、意味することがかなり違うということもわかってきた。

 

 ピアノの「脱力」は、曲を構成するフレーズやテンポ感を正しく捉えたうえでの正確なアーティキュレーション、すなわち「区切り」というものと密接にかかわってくる。これに対して太極拳の「脱力」は、いっさいの「区切り」をつくらないよう、ひたすらなめらかに陰陽を交代させていく動きとともにある。ようするに、ピアノは「区切る」ための脱力を求め、太極拳は「区切らない」ための脱力を求める。ほとんど真逆なのである。

 

 いまではピアノと太極拳の稽古はまったく別物である、これこそは我が“二代前の編集的先達”であるファイヤアーベントが主張したような「共約不可能性」にあるものだと割り切って、それぞれの求める「脱力」の修養に勤しんでいる。「共約不可能性」というのは、異なる体系に属する論理や考え方においては、たとえ同じ言葉が用いられていてもその意味するものは似て非なるものであり、比較も照合もできないという考え方だ。

 

 異なる体系のなかに属する概念であっても論理であっても、その違いをことさら述べ立てるよりも、なんらかのルイジやソージを見つけ、新しい関係性を香ばしく記述していくというのが編集工学の方法論である。けれども、生半可な思い付きでそれをしようとするとあまりにも牽強付会になりすぎるときもある。頭で納得できても、体がついていけないこともある。

 

 こんなときは、あっさり「共約不可能性」を認めてしまうのもいい。「あれはあれ、これはこれ」と割り切って、それぞれの方法論をそれぞれ存分に楽しんでしまうに限る。これが、ピアノと太極拳の牛歩な稽古を通して、ようやく最近会得しつつあることである。

 

おまけ:「共約不可能性」という考え方は、トマス・クーンという科学哲学者が、「科学理論における新旧のパラダイム間には、その優劣を比較する共通の尺度は存在しない」と主張したことに始まる。ファイヤアーベントは、このクーンの主張をさらに拡張して過激化し、「科学も哲学も宗教も相互に共約不可能、比較不可能なものであり、それゆえどれかひとつに優位性を認めるわけにいかない」とまで言いだしたので、科学哲学界のアナキストと呼ばれている。じつは松岡正剛は、かつて村上陽一郎さんから「ファイヤアーベントに似ている」と言われたことがあるらしい。はたしてそうなのだろうか。

 

おまけ:図版は、ちかごろ「脱力系画家」として妙に人気が出ている仙厓の禅画(出光美術館蔵)。私にはどうしても、□がピアノ、〇が太極拳、そして△が編集のように見えてしまう。

 

  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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