ゲイゲキの田中泯[芝居と読書と千の夜:11]

2020/12/31(木)10:18
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※アイキャッチ画像出典:東京芸術劇場Webサイト

 

★オドリ:田中泯×松岡正剛「村のドン・キホーテ」
     田中泯「形の冒険Ⅱ―ムカムカ版」
     田中泯「場踊り」

     すべて@東京芸術劇場

 

 

今年の1月は今年とは思えない

 

 2020年1月、ゲイゲキ(東京芸術劇場)で、田中泯さんの―オドリに惚れちゃって!―「形の冒険Ⅱ―ムカムカ版」が上演されました。僕は最終日の1月16日に見ました。新型コロナウイルスの流行が、まだ中国に留まっていたときのことです。さきほどインターネットで調べるまで、てっきり昨年の上演だと思いこんでいました。今年の1月は、今年とは思えません。新型コロナは僕の時間を歪ませました。

 編集学校の「多読ジム」には、「BOOKing」という読書データベースがあります。僕はそこに感想を書きました。そのまま引用します。

 

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田中泯「形の冒険Ⅱ―ムカムカ版」@東京芸術劇場 工場おどり、引きこもりおどり、戦争おどり…。20名ほどと一緒にひたすら現代の闇を暗く昏くおどる。これはいま他に誰もしないヤツ。本当に見てよかった。泯さんはなんていい人なんだ。どこまでも弱者に寄り添っていた。その夜はこれ以上ないほど心地よく眠れた。

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※出典:東京芸術劇場Webサイト

 

 見終わった後、「泯さんは優しいなあ」と思ったことは、いまもはっきり覚えています。

 僕が泯さんのオドリを始めて生で見たのは、10年以上前の下北沢アレイホールで、以来、「NARASIAフォーラム」とか松丸本舗での場踊りとか、2018年の「形の冒険」とか、6、7回見てきました。ただ、それまでは一人のオドリだけで、若者たちと一緒に踊る姿ははじめてでした。

 強く印象に残っているのは、みんなが中心の泯さんに近づいていくのではなく、泯さんが中心を離れて若者に寄り添っていく感じです。たとえば、上の感想で「工場おどり」と僕が勝手に呼んでいるのは、踊り手たちが、工場のラインに見立てた棒に乗っては後ずさり、途中でラインからボトリボトリと落ちていくのを何度も何度も繰り返すシーンでした。泯さんの経験でなく、踊り手の誰かの経験をもとに作ったシーンではないか、と感じました。一言で言えば、「共苦のオドリ」だと感じたんです。暗いムードの舞台でしたけど、僕は心地が良かった。

 思えば、2019年のGWに見たゲイゲキ前の場踊りも、僕ら若い世代への呼びかけと受け止めました。というのも、泯さんは、池袋西口でミスチルの「Tomorrow never knows」を踊ったんですよ。しばらくあっけにとられて、次第に感激したのを覚えてます。

 

 

帰りの身体は小刻みに震えていた


 2020年12月、同じくゲイゲキで「村のドン・キホーテ」を見ました。見た感想をできるだけ正直に綴ってみたいと思います。

 

●最初の場面が印象的でした。中央に大きな花輪。その前に棺。何名かの踊り手がいます。そこへ泯さんが馬(※踊り手2名が馬の構造物をかぶって4本脚に)に運ばれてやってくるのですが、馬上でぐったりしていました。瀕死か泥酔。さすがに棺の中からは登場しなかったものの、全体的に死のイメージが覆う始まりでした。

 

●いくども登場した「農業」のイメージが、頭に残っています。最も鮮烈だったのは、泯さんが畑を耕す動きをしたことでした。しばらくぶら下がっていた大きなブルーシートの背景からも、土の香りが漂いました。面白かったのは、大きなブルーシートが落ちたら、一回り小さなブルーシートが現れたことです。木組みのあばら家のセットも、里山の感じが出ていました。アフタートークでは、「今日は朝起きたら羊が脱走していたので、ひとしきり追いかけて、捕まえて柵に入れてから東京へ来ました」とおっしゃっていました。なりわいをしてからおどっていたんですね。

 僕は年に数回ダンス公演を見るだけなので、ダンス全般について詳しく語れるだけの知識はありませんが、泯さんのように「日々の生活とオドリが自然につながっているダンサー」は、世界を見渡しても、本当に珍しいんじゃないでしょうか。ダンスを見ながら、生活をかいま見るなんて経験、他の舞台ではほぼ味わったことがありません。格別でした。

 

●泯さんが、おそらくはニューオリンズあたりの老人になりきって、何曲かの音楽に合わせて踊ったシーンが好きでした。僕はダンス公演でも演劇でも、踊り手や役者の身体の動きがうつることがあります。帰り道で妙にシャキシャキ歩いたり、ひどいときには踊りながら帰ったりするんです。そういうときは、オレのミラーニューロン、働いてるなと思いますね。

 この日、僕の帰りの身体は小刻みに震えてました。たぶん、ニューオリンズの老人ダンスのとき、泯さんがずっと震えるように踊っていたからだと思います。もちろん、寒さや恐怖の震えじゃありません。生きる上で欠かせない揺らぎのような震え、細胞の動きから来るような震えです。ご機嫌でした。(※これを書いていたら、また震えがやってきました。身体は覚えているようです。)

 

 

昇天のような祈りのような懺悔のような

 

●白状しますが、松岡校長が用意した言葉、サンチョ的な役回りの石原淋さんに託された言葉を、僕はほとんど覚えていません。「来た」とか「ぎごく(疑獄?)」とか、断片的にいくつかの言葉は残っているんですが、それだけです。ああ、恥ずかし…。ネットで調べたところ、「簡単に驚くことは、捨てることらしい」というセリフがあったそうです。言われてみれば、あったかも。

 あと、いまゲイゲキのページを見たら、「途中、田中泯が長い棒で踊る場面がある。体と棒とが一緒くたになって空中に文字を綴る。ひそかに三文字の漢字をあてがった。想像してほしい」という校長のメッセージを発見しました。えー! 先に読んでおけばよかった。確かに何か棒を細かく動かしているな、とは思ったんですが…。

 

●最後は圧巻で、泯さん=ドン・キホーテ=キリストの昇天のような、祈りのような、懺悔のような時間。僕は2列目で見ていたんですが、間近にある泯さんの裸が強烈で目を離せませんでした。

 僕がよく参考にしている乗越たかおさんという舞踏評論家がいるんですが、Twitterにこう書いています。「驚愕した。あんな身体があるのか。紛れもなく老体だが二十代のアスリートのような肉と骨と皮。祈りと滅びが共存する身体だ。ひょっとしたらこの一瞬だけの奇跡かもしれないダンスだった」。まったく共感します。僕は最近、奇跡っていう言葉が安く使われている気がしてあまり好きじゃないんですが、あの時間には奇跡という言葉がふさわしい。


 死で始まって死で終わった舞台の直接的な感想は以上です。年明けに、その後『ドン・キホーテ』などを読んで考えたことを後編としてお送りします。

  • 米川青馬

    編集的先達:フランツ・カフカ。ふだんはライター。号は云亭(うんてい)。趣味は観劇。最近は劇場だけでなく 区民農園にも通う。好物は納豆とスイーツ。道産子なので雪の日に傘はささない。

コメント

1~3件/3件

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025

大沼友紀

2025-06-17

●記事の最後にコメントをすることは、尾学かもしれない。
●尻尾を持ったボードゲームコンポーネント(用具)といえば「表か裏か(ヘッズ・アンド・テイルズ:Heads And Tails)」を賭けるコイン投げ。
●自然に落ちている木の葉や実など放って、表裏2面の出方を決める。コイン投げのルーツてあり、サイコロのルーツでもある。
●古代ローマ時代、表がポンペイウス大王の横顔、裏が船のコインを用いていたことから「船か頭か(navia aut caput)」と呼ばれていた。……これ、Heads And Sailsでもいい?
●サイコロと船の関係は日本にもある。江戸時代に海運のお守りとして、造成した船の帆柱の下に船玉――サイコロを納めていた。
●すこしでも顕冥になるよう、尾学まがいのコメント初公開(航海)とまいります。お見知りおきを。
写真引用:
https://en.wikipedia.org/wiki/Coin_flipping#/media/File:Pompey_by_Nasidius.jpg