発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

柳田國男は『海上の道』で、海から来たものについて論じた。遠い昔、海流に乗って日本へとたどり着いたものたちがいたのだ。
第83回感門之盟のテーマは「エディット・タイド」EDIT・TIDE(海流)は回文になっていてとても珍しい。これには松岡正剛校長も「2024年の春らしい素晴らしいタイトルだ。」と口元を綻ばせた。
<編集学校は生命を擬く>
朝日新聞では松岡校長の連載が始まり、そろそろ、イシス編集学校も登場するらしい。
イシス編集学校が産声を上げたのは、2000年。クリエイターやアーティストが編集について語るようになって10年から20年だという。映画やテレビの世界における編集とは最後の「仕上げ」のプロセスだが、編集工学では編集は、全ての「始まり」であると捉えている。熱量学の原則的には、エントロピーの増大によって全ての区別がつかなくなる。そこに、差異、違いを作り、物質にはできないコピーを作る仕組みが生まれ、生命が誕生した。
「編集潮流はそこから始まったと思っている」。だからこそ[守]ではまず、生命が自己編集していったように、自分を編集することから稽古が始まる。
<腸と脳は相互編集をする>
千夜千冊 1844夜『腸と脳』では、身体の相互編集が詳らかにされた。人体は、脳だけが身体をコントロールしているわけではなく、腸もまたマイクロバイオームという、多様な微生物たちが集まった体内コミュニティを持った重要な器官であり、脳は内、腸は外として二つの中枢がお互いに連絡し、編集しあっている。すでにわたしたちの体は相互編集を行なっているのだ。
<感門之盟の構造>
第83回感門は、1日目、[守]、2日目、[破][花伝所]3日目は、物語講座に多読ジムスペシャルの修了を寿ぎ3日にわたって行われる。かつてない特別な設えだ。
「感門は、講座を全うした学衆も師範代もお祝いしたい。認めたい。拍手してあげたい。そして、これからも編集だよと伝えるにはどうすればよいかを考えて作ったもの」だと松岡校長は言う。
多様な教室で編集を学び、たくさんのわたしを見出した学衆は、ひとりひとりに特別な言葉が書かれた感門表を贈られる。これこそ、編集が多様性を生み出すということだ。
師範代ばかりに光が当たっているように感じられるかもしれないが、学衆と師範代の相互編集は固定されるものではなく、代わりばんこに入れ替わっていく。
「卒門したら、その可能性、パスポートを手に入れたと思って欲しい。」
学衆が師範代になり、師範代がまた学衆になる。生命のつながりのような稀有な相互編集の連鎖がイシス編集学校にはある。
編集学校とは同じ船に乗ることでもあるし、誰かを乗せること、たどり着くこと、戻ることでもある。
「船に乗ること自体が潮目である。一緒に船に乗った仲間とともに海流に乗って、これからも編集を続けて欲しい」
と校長は締め括った。
北條玲子
編集的先達:池澤祐子師範。没頭こそが生きがい。没入こそが本懐。書道、ヨガを経て、タンゴを愛する情熱の師範。柔らかくて動じない受容力の編集ファンタジスタでもある。レコードプレイヤーを購入し、SP盤沼にダイブ中。
風に舞う花びらは、本楼から京都へと運ばれた。[守]の師範代は、[破]の師範代へと変身を遂げ、その笑顔には頼もしさが漂う。 思えば、53[守]の本楼汁講で、土田実季師範代は、その力を発揮したのだった。 202 […]
世界は「音」で溢れている。でも「切ない音」は1つだけ――。54[守]師範が、「数寄を好きに語る」エッセイシリーズ。北條玲子師範が、タンゴを奏でる楽器「バンドネオン」について語ります。 ただタンゴの音を奏で […]
散る花を 惜しむ心や とどまりてまた来ん春の 種になるべき(西行) 春にもかかわらず、夏日や冬並みの寒さが交互にやってきたり、四季の感覚がすっかりおかしくなってしまったが、散る桜を惜しむように […]
ショートショートの動画が流行り、「いいね」一つで関係が完了する時代。しかし、一方的に受け取るだけでは物足りない。イシス編集学校は、発信者も受信者も互いを編集する。 講座の節目となる、83回目の感門之盟は、初 […]
本との偶然の出会いから、意識すらしていなかった思考が形になることがある。 言語化できなかったもどかしさがページの中に現れる事もあり、予期せぬアケとフセに未知への扉が開くこともある。出版をめぐる状況は相変わらず厳しいが、人 […]
コメント
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2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。
2025-06-30
エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。
2025-06-28
ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。