校長、GIGAってる? “断点ダイジェスト”版校長校話【77感門】

2021/09/06(月)18:53 img
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一、真実は痛い。二、自己は事件からしか生まれない。三、真理は誤謬からしか生まれない。松岡校長は放伝式で「絶対に忘れないでほしい」と添えて、スラヴォイ・ジジェク『事件! :哲学とは何か』のキーフレーズを三本紹介した。

 

私たちの日常にはいつだって事件や誤謬が潜んでいる。いじめ、うつ、病気、挫折、障害、「たくさんのネガティブ」が潜んでいる。ネガティブとは言い換えれば、「断たれているもの」だ。つまり「断点」である。校長はこの「断点」からこそ、「断然」に向かうことができるのだと語る。「編集学校でももっともっと”痛み”が平気で出てくるようになってほしい」。

 

「断点から断然へ」を語るために校長はあるキーブックを用意した。自著の『17歳のための世界と日本の見方 セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)である。ただし、キーブックとは言ってもたんに本の内容にそって話しをするわけではない。おもに本書に収録されている戯画を使った。

 

驚くことなかれ、この達筆な戯画は実は校長本人が描いている。そんななんでもできちゃうスーパーエディター、いや、ハイパーエディターの校長こそ”GIGAってる”というべきだが、それはさておき、ギガ校長は紙芝居のように自作戯画をめくりながら「断然になるとは何か」、おもむろに語りはじめた。

 

紙芝居ならぬ”ギガ芝居”のはじまり、はじまり。校長が用意した戯画は全部で19枚。この記事では、そのうちいくつかをピックアップして、校長のメッセージとともに校長校話の”断点ダイジェスト”をお届けする。

17歳のための世界と日本の見方 セイゴオ先生の人間文化講義』(春秋社)P7

イサム・ノグチはぼく(校長)にとってスーパースター。米国ではいじめられ、父の野口米次郎には「日本に来るな」と追い返され、いっぽう母のレオニーからは「お前こそ日本だ」と言われた。アイデンティティをめぐる大きな「断点」があった。これをどう見るか。彫刻を始め、人の彫刻から石の彫刻へ。そして、「AKARI」をはじめイサムにしか作りえないものを創造した。イサム・ノグチはどうして「断点」から「断然」になれたのか。

前掲書 P21

情報は欲しい時にくるわけではない。いったん遮断されないとわからないことがたくさんある。明けて伏せる、伏せて明ける。たとえば、そこに水がある。手をつけてみなければ、熱いのか、冷たいのかわからない。たとえば、眼球は定点観測ができない。常に動いている。「注意のカーソル」状態を作らなければ、じっと見るということができない。定点観測できない。では、その「注意のカーソル」状態を作るためにはどうすればいいのか。メモリにこそ、関心を持つべきだ。

前掲書 P101

今日の話で一番大事なこと。そして、イシスのみんなが一番間違えているであろうこと。日本に一番足りないもの。それは、ヴィジョンとは何か、ということ。仏教やさまざまな宗教や神話には、なぜヴィジョンがあると言えるのか。かつては何が見えていたのか。ヴィジョンの中にアイコンがあるということを忘れていはいけない。イコン・アイドル・アイコンの三つ。それらがないとわけがわからなくなる。不動明王、韋駄天、イカロス、イシスとは。かつてはイコンに対する壮絶な研究や闘いがあった。それが今の日本はまったくない。イコンを取り戻すためには、「たくさんの私」状態になって、他者を行き来すること。その他者にイン(IN)するのか、アウト(OUT)するのか、それとも託すのか。

前掲書 P169

「父と子と精霊」のように、「A・B or C」という思考方法を持つようにしたい。一択は論外だし、AかBかの二者択一にもしない。かならずCを置いておく。そして結果的に「C」という選択をしたとしても、なぜAとBで迷ったのかも考える。「or C」には今たくさん千夜千冊しているグノーシス、つまり影の世界をも想定しておく。急にコロナに感染するとか、親が認知症になるとか、常に私たちは「断点」と隣り合わせにある。

前掲書 P241

もう一度、なぜヴィジョンが大切なのか。ヴィジョンを考えるとは、どこから何が現れるのかということ。いつからどこから自分の中にヴィジョンがあるのかを探る。たとえば、編集学校は自分の中にどこからどのように現れたのか。それを残さないといけない。また、どのような”感じ”で現れてくるのか。「あのインテリアが良い」とか「あの俳優が良い」とか「あの自転車が良い」と思えるようになったのはどうしてなのか。

前掲書 P267

「悪人」「悪」といったダメなものがなぜタメになるのか。そういった「使えないもの」が使えるようになる瞬間がある。そのアーティキュレーションが変わる瞬間がある。「これは違うよな」というようなというものがひっくり返る瞬間がある。これこそ、「断点」から「断然」へということ。

前掲書 P313

「断点から断然へ」は言い換えれば、「最小のものに最大をみる」あるいは「最大のものに最小をみる」。小さいものを大きくする。「そんな小さなことにどうして関心を持っているの?」と訝しがられたとしても、そんなことは気にせずに自分の中で最小を最大にしてみる。また逆に「断つ」、引き算する。ここにセンスが宿る。モードが現れる。

  • 金 宗 代 QUIM JONG DAE

    編集的先達:宮崎滔天
    最年少《典離》以来、幻のNARASIA3、近大DONDEN、多読ジム、KADOKAWAエディットタウンと数々のプロジェクトを牽引。先鋭的な編集センスをもつエディスト副編集長。
    photo: yukari goto

コメント

1~3件/3件

川邊透

2025-07-01

発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。

川邊透

2025-06-30

エディストの検索窓に「イモムシ」と打ってみたら、サムネイルにイモムシが登場しているこちらの記事に行き当たりました。
家庭菜園の野菜に引き寄せられてやって来る「マレビト」害虫たちとの攻防を、確かな観察眼で描いておられます。
せっかくなので登場しているイモムシたちの素性をご紹介しますと、アイキャッチ画像のサトイモにとまる「夜行列車」はセスジスズメ(スズメガ科)中齢幼虫、「少し枯れたナガイモの葉にそっくり」なのは、きっと、キイロスズメ(同科)の褐色型終齢幼虫です。
 
添付写真は、文中で目の敵にされているヨトウムシ(種名ヨトウガ(ヤガ科)の幼虫の俗称)ですが、エンドウ、ネギどころか、有毒のクンシラン(キョウチクトウ科)の分厚い葉をもりもり食べていて驚きました。なんと逞しいことでしょう。そして・・・ 何と可愛らしいことでしょう!
イモムシでもゴキブリでもヌスビトハギでもパンにはえた青カビでも何でもいいのですが、ヴィランなものたちのどれかに、一度、スマホレンズを向けてみてください。「この癪に触る生き物をなるべく魅力的に撮ってやろう」と企みながら。すると、不思議なことに、たちまち心の軸が傾き始めて、スキもキライも混沌としてしまいますよ。
 
エディスト・アーカイブは、未知のお宝が無限に眠る別銀河。ワードさばきひとつでお宝候補をプレゼンしてくれる検索窓は、エディスト界の「どこでもドア」的存在ですね。

堀江純一

2025-06-28

ものづくりにからめて、最近刊行されたマンガ作品を一つご紹介。
山本棗『透鏡の先、きみが笑った』(秋田書店)
この作品の中で語られるのは眼鏡職人と音楽家。ともに制作(ボイエーシス)にかかわる人々だ。制作には技術(テクネ―)が伴う。それは自分との対話であると同時に、外部との対話でもある。
お客様はわがままだ。どんな矢が飛んでくるかわからない。ほんの小さな一言が大きな打撃になることもある。
深く傷ついた人の心を結果的に救ったのは、同じく技術に裏打ちされた信念を持つ者のみが発せられる言葉だった。たとえ分野は違えども、テクネ―に信を置く者だけが通じ合える世界があるのだ。