この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。

今期も苛烈な8週間が過ぎ去った。8週間という期間はヒトの細胞分裂ならば胎芽が胎生へ変化し、胎動が始まる質的変容へとさしかかるタイミングにも重なる。時間の概念は言語によってその抽象度の測り方が違うというが、日本語は空間的な線で推しはかるよりも、「量」によって多寡を認識するそうだ。五月の入伝式にはじまり、式目演習を終え錬成期間に向かう41[花]の一座は連日連夜の熱帯夜と同期するかのように、揺らぎの中でアツく静かに“その時”を迎えていた。
■花伝所のユニークネス
入伝生は前半3つの式目演習を終えると5つの道場から2つの錬成場へと場を移し錬成と呼ばれる演習に取り組む。師範代として振る舞う番稽古にも擬きの作法があり、自ら名づけた教室名を纏うことに始まる。10日余りの限られた期間に計6本の実回答へと連続指南を書きあげるプログラムは本番さながらのシミュレーションの場になっている。お題のポイントを推敲し指南の構造を理解した上でなにを書くのか、回答の観察から創文まで下準備を含めると初指南にかかる平均は一本あたり6時間をくだらない。
題意、ハコビなど徹底的に叩き込まれる一方で、回答に潜む方法を取り出すためには、「地」をかえ、自身のもつ思考のクセを一旦棚上げし、他者の辿った編集方法に没入する必要もある。
そのプロセスは想像以上に時間も(或いはコストも)相当に投下する経験であり、産みの苦しさも伴う稽古になる。一期一会の指導は快刀乱麻、気概が求められるが忖度や遠慮は無用の長物だ。指南文の型が出来上がるまで対話を重ね、文字のみで錬磨を繰り返す濃密な稽古体制は、全26名の入伝生に13名の錬成師範がついて行われる。花伝所のフォーメーションが手厚いことには勿論わけがある。
■共苦と解放
入伝生が指南する回答事例は全員にそれぞれ個別事例が用意される。(ざっと26名x6回答=156の実例が選定された)。
多視点をもたらすだけでなく学衆による回答の、あるいは師範代が観る可能性の拡張にも主眼を置いているため、順序・焦点・選択といった編集も施される。
物真似、肖り、準え…世阿弥も芸道の上達には型の習得が欠かせない。所作や技量を身に着けるには数十年の単位だ。ところが伝統芸能や継承にかかる膨大な時間に反し、花伝所は圧倒的に短い。
“指南方針として他の学衆さんとの差異を意図してもう少し入れるべきだったか?そのあたりが定まっていない“
威風堂々と指南を書き尽くすように見える入伝生Kが不安を吐露すれば、師範の嶋本昌子は即応し、6週間まえの入伝式での白状を持ち出して「さしかかりを避けていた」というKの変容ステージにせまる。
間髪入れず、モヤモヤの在り処を“花伝所にかける思い“と言い換えて、あったことをなかったことにしない、と言い切っている。
嶋本の突出は機を逃さず、対話の切り返し方にきめ細やかと鋭さが共存するところにある。方向を見失い、失速しそうになる入伝生にはぴたっと寄り添い、むらさき道場の感応あふれる場を経たものは次々と蛹から蝶のように羽化をめざして変態していく。指導がもたらす言語拡張の方法に肖る一方で、そのふるまいごと学んでいく行為の根底には、外部情報を内部化する生物である私たちの原始的欲求もありそうだ。
■糸と代
共読によって分析的アナロジーがすこぶる飛躍をみせている入伝生Cは、錬成師範の山本ユキに問われた「っぽさ」と「らしさ」の違いについてこう切り返した。
“「っぽさ」は加工前の「らしさ」という形で表現してみます。
「っぽさ」には、一方的な感覚、イメージ。粗削りな言語化されていない状態。違い(≒不純物)が含まれているともいえば原石・加工前の鉱石ともいえる形。
「っぽさ」を精錬することで、内部にあった「らしさ」が取り出される。精錬のイメージは、宝石ではなく鉱石。削りだすのではなく、溶かし出す必要がある。“
花伝所で指南を学ぶということは、彫刻家として原木や原石のようすに可能性を見い出し、素質から削り出しフォームを彫逐する行為にも似る。粗野な原木がどんな環境ではぐくまれたのか想像を働かせながら、スジをみて刀をいれる彫塑モデリングの実践だ。木目や密度、向きをもつ自らを素材としてメタに観察することで情報の解像度があがっていく。Cはさらにこう続けている。
“また少し違うところにもなりかねませんが、アフォーダンスされている最初のフックでもあり、迷宮に落ちている糸の気配だろうとも言える。辿ることで、見つかるかもしれないが、見つからないかもしれない。そういった意味では、手すりとも。”
感が動いたところにアテンションし、糸の気配を察知しながらそれを手すりと見立てたCのアブダクションも秀逸だ。糸はもともと、戀と書き「糸言糸」はもつれた糸は簡単にほどけないことを意味する。 そこに「心」がつくことで断ち切れない、心が引かれる、思いわびるという気持ちを表す語源をもっている。
言葉で組まれる「テキスト」と、繊維や糸で編む「テキスタイル」はプロセスこそ異なるが、どちらも語源「テクセレ」をおおもとに織り込むという意味をもつ。糸は編まれて束になる。糸をあやし原型をみつめ、編集行為そのものに宿る代と継承の型の気配を察知したCがこれからどんな糸を手繰り寄せ「文脈=コンテキスト」を見つけていくのか、楽しみだ。
■真似るその先
錬成の錬の字に肖って、錬る子スクルト教室と名を冠したFは、こう振り返っている。
“何かを一つ決めて、選ばれなかった方は忘れてしまう。そうでないと、世の中のスピードについていけないから。
それが嫌になった僕は、たくさんの本を泳いだその先で、編集学校と出会ったんだ ”
三期連続、客人師範をつとめる土木エンジニアの内海太陽が指導にあたった。表層よりも深層をつねに抉るような、のっぴきならない対話が内海の指導の特徴だ。柔らかくも徹底される言語化の応酬によって、内なる声を促されたFはさらにこう述べた。
“首尾一貫を常に良しとする世の中に、疑問を抱いたことが入門と入伝のきっかけでした。
師範が指導の際に、私のベースとして話題にあげてくださっていた千夜千冊1082夜「アンチ・オイディプス」に出会うさらに前。この文章に触れたことが始まりでした。”
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
すべての決断はそれでもう何の未練もなく完了だということ
ではなく、つねに未練を伴っているのであって、
そうした未練こそが、まさに他者性への配慮なのです。
『現代思想入門』千葉雅也[第一章 デリダ -概念の脱構築]より
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「他者性」「未練」というキーワードが浮上した。未練とは不足であり渇望であり、違和感への感度とも言い換えられる。
変容するために必要なのは時間だけに限らない。異物性や価値観の違いに気づくことが重要なのは、自分のことを知るきっかけになるからだ。あてどない対話もトリガーになる。自ら「変容」を望み、編集的インタースコアによって異なる視野を習得しようとする心意気・余白・器量。内在する問題意識に自覚的であればこそ花伝所の演習が師範代になることだけに閉じず、新しい世界観をひらくステージのはじまりだと気づくことになるだろう。
錬成演習のピークモーメントを経て、花伝所は恒例のキャンプへとめくるめく変容の旅へと続いていく。>>(その2へ)
文・アイキャッチ:平野しのぶ
【第41期[ISIS花伝所]関連記事】
イシス編集学校 [花伝]チーム
編集的先達:世阿弥。花伝所の指導陣は更新し続ける編集的挑戦者。方法日本をベースに「師範代(編集コーチ)になる」へと入伝生を導く。指導はすこぶる手厚く、行きつ戻りつ重層的に編集をかけ合う。さしかかりすべては花伝の奥義となる。所長、花目付、花伝師範、錬成師範で構成されるコレクティブブレインのチーム。
マッチが一瞬で電車になる。これは、子供が幼い頃のわが家(筆者)の「引越し」での一場面だ。大人がうっかり落としたマッチが床に散らばった途端、あっという間に鉄道の世界へいってしまった。多くの子供たちは、「見立て」の名人。それ […]
43[花]特別講義からの描出。他者と場がエディティング・モデルを揺さぶる
今まで誰も聴いたことがない、斬新な講義が行われた。 43花入伝式で行われた、穂積晴明方源による特別講義「イメージと編集工学」は、デザインを入り口に編集工学を語るという方法はもちろん、具体例で掴み、縦横無尽に展開し、編 […]
(やばい)と変な汗をかいたに違いない、くれない道場の発表者N.K。最前列の席から、zoomから、見守ることしかできない道場生は自分事のように緊張した。5月10日に行われた、イシス編集学校・43期花伝所の入伝式「物学条々 […]
発掘!「アフォーダンス」――当期師範の過去記事レビュー#02
2019年夏に誕生したwebメディア[遊刊エディスト]の記事は、すでに3800本を超えました。新しいニュースが連打される反面、過去の良記事が埋もれてしまっています。そこでイシス編集学校の目利きである当期講座の師範が、テ […]
花伝所では期を全うした指導陣に毎期、本(花伝選書)が贈られる。41[花]はISIS co-missionのアドバイザリーボードメンバーでもある、大澤真幸氏の『資本主義の〈その先〉へ』が選ばれた。【一冊一印】では、選書のど […]
コメント
1~3件/3件
2025-06-10
この日、セイゴオはどこから私達を見つめてくれていただろう。活け花の隙間、本楼の桟敷、編工研の屋根の上、地上15m付近の鳥の背中。低い所か、高い所か、感じ方は人それぞれだろうけど、霊魂がどこに遍在しているかを考えることと、建築物の高さは深く関係している。
建築家・藤森照信はいろんな高さに茶室を造ってきた。山から伐り出した栗の木を柱にした《高過庵》の躙口は地上6m。その隣には地面に埋まった竪穴式の《低過庵》がある。この「高過ぎ」「低過ぎ」と言えるその基準は何なのか。
2025-06-10
藤森は人間の生と死のプロセスをノートに書きつけ、霊がどこに行くかをずっと考えてきた。そして人間が死ぬ場所としてドンピシャの高さを見つけ出している。それが檜の1本柱の上に建つ地上4mの《徹》だ。春になると満開の桜の中に茶室が浮かび上がる。桜は死を連想させる。この高さの絶妙さを目の当たりにすると、美しさだけでなく恐怖さえも感じてしまうのだ。
2025-06-06
音夜會の予習には『愛は愛とて何になる』(小学館)が是非ともおススメ。松岡校長も寄稿しています。
さらに、あがた森魚さんの映画監督第一作「僕は天使ぢゃないよ」は、なかなかの怪作なのでご興味のある方は是非どうぞ。
監督・脚本・主演・歌唱あがた森魚で、他にも横尾忠則、大瀧詠一、緑魔子、桃井かおり、山本コウタロー、泉谷しげる、鈴木慶一などなど無駄に豪華キャストなのに、なぜかヒロイン役が一般人(たぶん...)で、びっくりするほどのセリフ棒読み。さすがにこれはダメだろうと思いながら観ているうちに、だんだんこの子がいい感じに見えてくるから不思議。あがたさんの「愛の理想形」を結晶化させたような作品です。